午前零時のアリア

02.ブルー・ヘヴン(1)

 帝国十七区。一区と二区を隔てる川の中洲に、それはあった。
 かつて処刑場だった中洲には、いまや大小さまざまな劇場が建ち並ぶ。劇場街の周辺には料理店や宿はもちろん、川向こうでは禁止されている賭場や闘技場が公然と軒を並べ、連日連夜賑わいを見せていた。人々の喜怒哀楽はことごとく解放され、多くの者が無尽蔵な欲望に足をからめとられていった。
 その十七区の川沿いに、番地のない一角がある。色街だった。建物はすべて青で統一され、対岸からは青天が落ちてきたように見える。
 人々はそこを、ヘヴンと呼んだ。

 ヘヴンには二種類の人間がいる。売られてきたものと、生まれおちたもの。クロウは後者で、クロウの母もまたそうだった。そのさらに母のことはクロウも知らない。だが母の伯母にあたる青鷺館のマダムがかつて娼婦だったことから、売られてきたのだろうと推察していた。
 売られてきたものは与えられた仕事をこなし、自分の代金として払われた分の金と、そこで暮らすためにかかった費用とを店に返し終えるまで、中洲から出ることは叶わない。耳には鍵つきの耳環を嵌められ、無理に外したり、耳を切り落としたり、逃げ出そうとしたりすると、組合に属さず無許可営業をしている店に払い下げられた。そこはヘヴンに比べて労働環境も待遇も悪く、客の質も低い。ヘヴンのようにいつか自由になれる望みもなく、まさに無間地獄のような場所だった。そのため売られてきたものは、よほどのことがない限りヘヴンで耐え忍ぶことを選んだ。
 かたやヘヴンに生まれおちたものは、娼館という特殊な環境で育つせいか、誰もがどこか浮世離れした気配をまとっていた。それは下心のない色気であり、みずからを自由にできる傲慢さであり、その世界しか知らない純粋さであった。それらは魚が水に馴染むように容易く享楽を受け入れた。ヘヴンに生まれおちたものにとって日常と非日常の境はなく、非日常こそが彼らの日常だった。
 母ロビンは、そういったヘヴン生まれの定型をすべて兼ね備えた女だったと、クロウは誰からともなく聞き知っていた。
『あんたの父親はこの街でいちばんいい男よ』
 そう言って穏やかに微笑んだ眼差しだけが、クロウが唯一覚えている母の姿だった。
 彼女はクロウが三歳のときに、男とともに十七区を出た。男はその数ケ月前に青鷺館の娼婦と心中をした生き残りで、五区の区長の息子でもあった。そのことからロビンが男を金目当てでたらしこみ、さらには懇意にしていた娼婦が死ぬよう仕向けたとまで噂された。青鷺館の女たちはロビンのこととなると一様に口を閉ざすので、はたして何があったのかクロウは噂以上のことを知らない。女たちは不意にロビンの話題が出ると気遣う目をしたが、クロウ自身は彼女らが思うほどには傷ついてはいなかった。噂の内容はどれもひどいものばかりだ。だが人は身勝手に他人を語りたがる生きものであるし、事実もまたそう遠くはないだろうと察していた。ただ、自分を置いていったことと、父についてはっきりと教えてくれなかったことが、時おりクロウを物憂げにした。
 マダムの血縁ということもあり、クロウはそのまま青鷺館で育てられることになった。故郷や家族や操など、守るものを奪われた娼婦らはこぞって幼いクロウにかまうようになり、そのおかげで十歳になるころには家事や女たちの身支度をひと通り手伝えるようになっていた。
 クロウはそういう卒のない自分を静観しながら、この皮膚の下にたしかに流れるヘヴンの血潮もまた当然のように感じ取っていた。

 その日は朝から、冷たい雨が降り続いていた。
 片付け終わった台所でクロウが空を眺めていると、昼前から出かけていたマダムがひとりの少女を連れて帰ってきた。見た目にクロウよりも年上で、体つきは少女と呼ぶには大人びていたが、いつも接している女たちに比べて幼く感じられた。
「新入りだよ」
 マダムは少女の背中を押して、雨のように冷たい声で言った。少女があまりにもこわばった顔をしていたので、クロウは優しく微笑みかけた。
「はじめまして。おれはクロウ。おねえさんは?」
「シン――」
「この娘の名前はリリィだよ」
 少女の言葉を遮って、マダムが口早に告げる。新しい名前が付けられたことで、彼女が下働きにきたのではなく娼婦として売られてきたのだとクロウにもわかった。反射的に彼女の耳へ目を向ける。そこにはたしかに売られてきた証しである耳環が嵌まっていた。クロウは握手しようと伸ばしかけていた手を、さりげなく後ろに隠す。常々マダムから、娼婦と仲良くするのは構わないが決して情は移すなと言われている。情を移すという言葉の意味を誰に教わるでもなく知っているクロウは、自分のほうから彼女たちに触れないことで言いつけを守っていた。
「クロウ、世話を頼んだよ。今夜からでも客がとれるようにしてやってちょうだい」
「おれが?」
「他は手があいてないんだ。悪いね」
「わかった」
 渋々了解して、クロウはリリィの袖を引いた。
 クロウの物心がついたころから長らく空いていた二階の角部屋にリリィを案内する。どうぞと中へ促して、クロウは窓際の化粧台を指した。
「化粧道具はそこに揃ってるけど、足りないものがあったら言って。風呂は下ね。回ってくる順番はいちばん最後だから気をつけて。間違えると隣の部屋のフィグがうるさいんだ。食事は一日に二回。台所は好きに使ってくれていいけど、あんまり派手に食い散らかさないでよ。服は……さすがにそれじゃ客も悦ばないから、大きさの合いそうなのを見繕ってくるね。なにか希望の色とかある?」
 クロウの問いかけに、リリィは激しく首を振った。
「あ、そ。じゃあ、適当に選んでくるよ」
 肌が白いので、鮮やかな色が映えるだろう。クロウは倉庫にしまいこんである服を頭のなかに思い浮かべた。
「あの……」
 いまにも消え入りそうなリリィの声にクロウは首をかしげる。
「なに? やっぱり希望ある?」
「きみもここで、その……働いてるの?」
「違うよ。ほら」
 クロウは飾りのない耳をリリィのほうへ向けた。
「ほんとだ。じゃあ、こんなところにどうして」
 こんなところ、と口のなかで小さく繰り返してから、クロウは顔色を変えずに、子どもらしく快活に振る舞った。
「マダムがおれの母親の伯母さんで、色々あってここで面倒見てもらってるだけ。まあ、働かざるもの食うべからずってことで、こき使われてるけどね」
「そうなんだ……かわいそうに」
「は?」
 思わずこぼれた刺々しさを、クロウはあえて取り繕わずにいた。リリィは意に介した様子もなく話し続ける。
「まさかこんなことになるなんて思ってなかった。食糧がどんどん減って、頼みのヤギも死んでしまって、ちょうどそんなとき、隣の村に人買いが来てるって聞いて、父さんが、わたしに頭を下げて……」
 リリィはスカートを両手で握りしめ、顔を逸らした。
「わたしひとりがこうなることで家族が助かるなら。そう思うけど、どうしても不安で。ここで働いていくことなんて、想像もできない」
「それでもそうやって生きていくしかないよ」
「そう、だね」
 消え入りそうな声でリリィは呟く。
「わたしもはやく、クロウみたいにならなきゃ」
 そのときクロウは、無意識の罪深さを知った。どんなに不躾な言葉も、その奥に明確な悪意が感じられるからこそいなすことができるのだ。むしろ情けや親しみから出た鈍い慈しみのほうが、避けようもなく心のやわらかいところを踏みにじっていく。そして傷つけられたと声をあげることも許さない。
 クロウはうつむきがちに口を歪めた。
「リリィもかわいそうにね」
「うん、ありがとう」
 リリィは頼りない笑みを浮かべた。届かなかったクロウの悪意は喉の奥に引っかかり、次第に深く突き刺さった。
 話していることに耐えられなくなったクロウは、またあとで呼びに来ると笑って部屋をあとにした。
 階段を乱暴に下りながら、自分はかわいそうなんかじゃないと心に言い聞かせる。クロウは女たちと違って自由で、大人ほどの面倒事もない。両親の生死はわからないが、生きていくうえではさしたる障害にならない。与えられた仕事はきちんとこなせるし、女たちの個別のわがままにも時々応えて恩を売ることも忘れない。いざというときは健気な笑顔がクロウの武器になった。ただ、そうやって逞しく器用に生きようとすると、時おり自分の心が不自由になる瞬間はあった。もしや初めて会ったリリィにそこまで見抜かれたのではないかと思うと、恥ずかしさと腹立たしさで頭のなかが真っ白になった。
 夕食で使う芋の皮をこそげながら、クロウは助けを求めるように流行り歌を口ずさむ。ため息と歌はよく似ていた。吐き出しているように見えて、その実それらは胸のうちでかさを増す。だが歌はため息と違って、積もるほどにクロウの心と体を軽くした。
 傷口を舐めるように、クロウは歌う。それだけが自由な心の唯一の拠りどころで、血潮だった。

 リリィが青鷺館へ来てから数日が経った。しかしいまだにひとりの客もつかない。
「わたしはあんたに頼んだはずだよ。どうなってんだい」
 マダムにそう尻をたたかれ、クロウは翌早朝リリィの部屋へ向かった。初日のやりとりが鍋底の汚れのように脳裏にこびりついて、気づかぬうちに彼女のことを避けていた。だが、任された仕事を個人的な感情で疎かにするのはクロウも本意ではない。
 客のなかった彼女はすでに起き、寝台に腰かけて窓の外を眺めていた。
「おはよ、リリィ」
「おはよう」
 振り返ったリリィの顔は、差し込む光でほとんど見えない。
「ねえ、クロウ。ここから見える朝は素敵ね」
 彼女の声音はまだ夜をたゆたうように沈んでいた。クロウはためらいを振り払って、窓辺へ寄った。
「そんなのどこも同じじゃないの」
「ううん。川面に朝日がきらめいて、同じ輝きはひとつもなくて、それがまるで大きな魚の鱗みたい」
 リリィが見つめる先をクロウも身を乗り出して見やる。
「そんなものかな」
「わたしの住んでたところはね、ずっとずっと北のほうにあるの。一年のうち半分は雪に埋もれているようなところ。よく晴れた朝は同じように雪がきらきらした」
 クロウは以前行商の男から聞いた話を思い出す。
「見たことないけどさ、雪って氷みたいに冷たいのに、すごくやわらかくて、すぐに融けちゃうんだろ」
「うん。あと、あったかいんだよ」
「冷たいのに?」
「そう」
「変なの」
 対岸の街並みから覗く朝日はじわじわと大きくなり、羽を広げるようにして光を放つ。ゆっくりと、だがたしかに移り変わる景色をぼんやり眺めていると、背後からすすり泣く声が聞こえた。
「帰りたい。あの村へ帰りたい」
「だったら客をとれるようにならないと」
「でもわたしが帰るころには、もう誰もいないかもしれない。ひどい飢饉だったから……」
 リリィのつぶらな瞳から涙がこぼれる。それを拭おうともせずに、明けていく空を見つめてかすかに笑むさまは、聖堂に佇む聖母像のようだった。
 リリィのような境遇はヘヴンにはよくあるもので、売られてきたことを悲しむ女など数え挙げたらきりがない。故郷を懐かしみ、その身を嘆き、そして同情をひくため、女たちは自在に泣いた。リリィの涙もそれらとなんら違いはない、はずだった。
 彼女の涙はやわらかな空気をまとい、温度を感じさせないまま、はかなく服に染みていく。そのときクロウは雪を知った。
 窓から飛び込んでくる風をひどく冷たく感じて、クロウは自分の顔や耳が熱くなっていることに気づいた。得体の知れない情動が体のなかを蠢いている。不気味さと同時に心地よさが広がり、クロウは眉を寄せて微笑んだ。
「雪って、きれいだね」
「え」
 これまでずっと夜と朝の境をさまよっていたリリィの眼差しが、ようやくクロウへ向けられた。見つめあうと、クロウの体中を歌が巡った。
「大丈夫、リリィならすぐにここを出られる。そして村に帰ったらさ、雪のにおいをいっぱい吸った手紙をちょうだい」
「クロウ……」
 リリィの指がすがるようにクロウの手を握った。見た目には日焼けのない細い手も、触れてみればクロウと同じ、働き者のがさがさの手をしていた。
「冷えてるね、リリィ」
「そうかな。ぜんぜん寒くないよ」
「ずっと風に当たってたんだろ」
「うん」
「川を吹く風はびっくりするほど冷たいんだ」
 クロウは寝台にかけてあった毛布をリリィの肩にかけた。
「特別に朝風呂を用意してあげる。入りな」
 大急ぎで風呂の用意をしてリリィをなかへ押し込み、そのあいだにクロウはリリィの部屋を片付けた。寝具をとりかえ、床をはく。化粧台には化粧道具が散乱していたので、それらを使う順番に並べておいた。
 朝食の下ごしらえを済ませ、頃合いを見計らって風呂場へ行くと、すでにリリィの姿はなかった。クロウは準備をしたときと同じように、素早く風呂の掃除を終える。脱衣所を整えていると、籠の下に軟膏を見つけた。誰のものかはわからないが、ポケットに突っ込んでリリィの部屋へ戻った。
 開けるよと一声かけて部屋へ入ると、リリィは化粧台の前に座っていた。
「これ、よかったら使ってよ」
 軟膏を差し出すと、リリィは恥ずかしげに顔を背けた。怪訝に思って顔を覗き込もうとすると、小さな声で見ないでと乞われる。
「わかったよ……」
 体がすっと冷えていくのが、はっきりと感じられた。クロウは窓際に軟膏を置いて踵を返す。
「あっ、待って」
 立ち去りかけたところを、袖を掴んで引き止められる。クロウは振り返らずに口をひらいた。
「なに」
「いい、見てもいい。ただ、笑わないって約束してくれる?」
「だから、なに」
「お、お化粧ってどうすればいいの……」
「へっ?」
 振り返ったクロウは、珍妙なリリィの顔を見て思わず吹きだしそうになった。
「笑わないでって言ったのに!」
「まだ笑ってないって」
 そう言うそばから、頬が引きつる。
「それを笑ってるって言うの」
「いつもそんな化粧してたわけ」
 問いに、リリィは小さくうなずく。クロウは得心がいった。これでは客のつきようがない。
「おれが、やってあげようか」
 思わずこぼれた言葉に、クロウははっとして我に返った。化粧をするということは、必然的に彼女に触れるということだ。クロウは自分から持ちかけておきながら、リリィが断ってくれないものかと願った。
 だがリリィは朝日を返す川面のようにきらきらとしてうなずいた。クロウはまず、この道化師のような化粧を落とすことからはじめた。
 見よう見まねで覚えた化粧は、いざやってみると思いのほか難しかった。それでもクロウはリリィに喜んでほしい一心で、息をするのも忘れるほど集中した。リリィもその思いに応えるように、何も言わずにじっとしていた。
 順番に並べておいた化粧道具の、最後のひとつに手を伸ばして、クロウは蓋をあけるのをためらった。硝子の嵌めこまれた小さな容器と、目を閉じて上向き加減になって待っているリリィの唇とを交互に見やる。
「紅くらいは、自分でできる?」
 だが予想通り、リリィはうんとは言わない。仕方なく、クロウは紅を指にすくった。
 リリィの顔が動かないように片手で顎を押さえる。近づくと、化粧のにおいの他にリリィの体臭が香った。甘く、生々しい。雨に濡れて蒸れた花のようだった。クロウは新しい遊びを思いついたときのようなときめきを胸に抱いた。
 それは白百合の香り、彼女の名前だ。
 紅のついた指を色素の薄い唇にのせる。がさついてはいるものの、そこは手指に比べて心許ないほどやわらかかった。指を押し付けると、たわみながら包み込んでくる。クロウの体の奥にある、いまだ火を灯したことのない芯が震えた。
「ありがとう、クロウ」
 手鏡を覗いて、リリィは無邪気に喜んだ。
 初めてとは思えない化粧の出来に満足しながら、彼女の笑みが曇る日を思うと、クロウは同じように喜ぶことはできなかった。