午前零時のアリア

04.六度目の夏に(1)

 また靴が小さくなったことに気づき、クロウは歩きながら器用に踵を踏んだ。
 さして風が強くもないのに、本物の鷺のように啼きながら看板が揺れている。見あげると天頂にあがった太陽が突き刺さり、クロウは慌てて目を逸らした。ここ十日ほど慌しく、館の管理が疎かになっていた。古い螺子が弛んでいるのだろうと目星をつける。抱えていた荷物を台所まで運んで、工具と脚立を軽々と担いで玄関へ戻った。
 十日前、青鷺館のマダムが突然倒れた。深い眠りと曖昧な覚醒を繰り返したマダムは、三日目の朝、いちばんの古株であるアウルに青鷺館を譲った。クロウもその補佐を任され、組合へ提出する書類や挨拶まわり、資金の確認などで奔走していたのだ。ようやく日常が戻ってきたのは、つい昨日のことだ。
 クロウは脚立の上に座り、鉄製の鷺を膝に抱える。見た目よりずっしりと重く、陽光を浴びて熱くなっていた。いつのまにか日差しは夏に移り変わっている。
 リリィに出会って六度目の初夏の訪れだった。

 クロウが食事の用意をしながら歌っていると、背後からリリィの歌声が重なってきた。
「いい匂いがすると思ったら、今日はテールシチューね。わたし、これ大好き」
 知ってるよと返すかわりに、クロウはそっと微笑んだ。
「しばらくちゃんとしたもの作れなかったから、お詫び」
「無理しなくていいのに」
 リリィの手がクロウの背中に触れる。クロウは一瞬息をとめてから、さらりと体をかわした。
「くすぐったいよ」
「クロウ、また背が伸びた?」
「たぶん」
「どんどん大きくなっていくね」
「リリィが小さいだけだろ」
「むかしはもっと可愛かったのに」
「よく言われる」
 肩越しに振り返って微笑むと、リリィが笑いながら怒って背中に抱きついた。クロウがじっと黙っていると、さらに強く体を押し付けてくる。
「歌って、クロウ。ここで聴いていたいの。声だけじゃなくて、呼吸が聴こえるから」
 乞われるままに、クロウは静かに歌いはじめた。声変わりをしたクロウの歌声は綿雲の唄をふたりで歌ったころに比べて低くなったものの、透明感はいっそう増して、真夜中の川音を思わせる余韻があった。
「いまのほうがずっと好きよ、クロウの歌声。まるで全身が耳になったみたいに感じるわ」
 リリィはクロウの下腹へ腕をまわした。
「特にここに響くの。奥の奥まで」
 細い指先があえてたどたどしい様子でさらに深い部分をたぐり寄せようと這う。そして紙一重のところで何食わぬ顔をして離れていくのだ。娼婦の手指に付かず離れずまといつかれて、衝動が引きずり出されそうになる。
「はいはい、もうすぐシチューができるから、みんなのこと呼んできて」
「わたしの話、聞いてた?」
「はやくしないと、みんなで食いっぱぐれるよ」
 クロウは魚のように体をくねらせて、リリィの腕からどうにか逃れる。リリィは不機嫌そうにはーいと返事をして、台所を出て行った。足音がすっかり遠ざかるのを待って、クロウはその場にしゃがみ込んだ。
「きつ……」
 背中に灯る欲望の炎と、胸の高まりが収まらない。クロウは額に浮いた汗を拭い、深いため息を吐きだした。

 診療所で寝起きしているマダムの着替えを持っていった帰り道、贔屓にしている小間物屋でクロウは思いがけない名前を聞いた。
「スネイクには会ったか」
「えっ」
「なんだ青鷺にはまだ顔出してねえのか。帰ってきてるぜ。聞いたところによると、一区で役者やってたらしいぞ」
「突然出て行って、突然帰ってくるんだな……」
「あいつのことだから、いつまでここにいるのかわかんねえけどな。ほらよ」
「ありがとう」
 頼んでおいた荷物を受け取って、店を出る。頭が茫洋とした。これは決して日差しのせいではない。クロウは自然と駆け出していた。
 青鷺館の扉を開けると、居間からアウルの笑い声が聞こえた。クロウは息を切らしながら駆け込む。
「アウル!」
 ソファにアウルとフィグが並んで座り、その向かい側には男がひとりゆったりと腰かけていた。クロウのほうを振り返り、口元だけでにやにやと笑う。
「よお、クロウ」
「何やってたんだよ、おまえ……」
「役者」
「ふざけんな」
 クロウは持っていた荷物を投げ捨て、スネイクの胸倉を掴みあげた。
「マダムのとこにはちゃんと挨拶行ったのかよ!」
「やめなさいってば、クロウ」
 アウルが伸ばしかけた手を、スネイクが視線で押しとどめる。クロウはさらに声を荒げた。
「なんとか言えよ!」
「昨日青蜥蜴で聞いて、すぐに行った。ばあさん意外と顔色よかったな、おまえらがこき使いすぎたんじゃねえの」
「え……」
 クロウは何度も目を瞬かせた。
「昨日、行った? でもさっきマダムはなんにも」
「そこまでおれが知るかよ。ほら、離せ離せ」
 虫を追い払うようにされて、クロウはおもむろに手を離す。スネイクのシャツはすっかり皺だらけになっていた。
「あーあ、みっともねえ。おいアウル、アイロン貸してくれよ」
「アイロンならいまリリィが使ってるんじゃないかい」
「聞き慣れない名前。新入り?」
「もう中堅どころだよ。あんた五年もいなかったんだから、聞き慣れた名前なんてそうないだろうに」
「おまえらのことなら、よく知ってるよ。で、部屋はどこ」
「ロビンの部屋だよ」
 アウルはクロウを気にしながら、かたい声で言った。
「あ、そう」
 火のついていない煙草をくわえて、スネイクは居間を出て行く。クロウはとっさにスネイクのあとを追った。
「スネイク」
 階段をなかほどまで上がっていたスネイクが眉を寄せて振り返る。
「なんだよ」
「その、えっと、いちばん奥の部屋だから」
「聞いたよ、ロビンの部屋って。言いたいことがあるなら、はっきり言え」
「あ……いや、ううん、なんでもない」
 クロウはスネイクをまっすぐ見ることができず、顔を逸らして居間へ戻った。アイロンを使うだけだと心に言い聞かせる。だが胸騒ぎは収まらない。クロウは台所で夕食の用意をしながら、何度も天井を、その向こうにいるであろうふたりを思った。
 その日、夜になってもスネイクが階段をおりてくることはなかった。

 青鷺館では明るいうちに夕食を済ませると、女たちの慌しい身支度がはじまる。化粧道具を勝手に使われた、風呂の順番を飛ばされた、見かけない髪飾りをしている、その服はわたしのほうが似合うから寄こせ、とあちこちから声がやまず、裸のまま平気で歩き回る。この環境で生まれ育ったクロウは特に目を逸らすこともなかったが、できれば見たくはないので居間と台所を片付けるとすぐに裏手から表へまわり、外掃除にとりかかった。最後に表の角灯にたっぷり油を足して、火を灯した。
 風呂場では女たちが甲高い声で言い争っていたが、好きなようにさせて二階へあがった。
 リリィはすでに服を着替えて待っていた。
「ごめん、遅かった?」
「そんなことないよ」
 綿毛のようにふわりと笑って、リリィは塗りこんでいた軟膏を脇へ置いた。クロウは彼女の隣に腰かけて、化粧台に並んだ瓶へ手を伸ばす。リリィは淡く微笑み、口づけを乞うように目を伏せた。
 あの日からずっと、リリィの化粧はクロウの務めとなっていた。いまではリリィもひと通りの化粧ができるようになっていたが、どちらからもやめるとは言い出さない。
 リリィに触れるこの時間を、クロウは愛していた。それを知るリリィは、普段自分から触れようとしないクロウに、褒美のように化粧をさせるのだった。
 クロウは指の皮一枚でリリィの肌に触れる。血管が透けそうな薄い瞼に色を置き、頬には恥じらいの気配を添える。唇は素肌のままのほうが潤っていたが、色味が足りないので紅をのせた。
 眠っているかのようにじっと目を閉じているリリィを、クロウは熱心に化粧をする振りをしながら見つめた。濡れた蜘蛛の巣のように震える睫毛を、口からかすかに洩れる吐息を、首筋から立ちのぼる香気を、心を動かさないようにしながら黙々としゃぶる。何度も絡められたことのある体を、指の背で肌に触れながら感じ取る。そのたびに、誰に科せられたわけでもない枷を捨てて、彼女をこの手で奏でることができたならと夢想した。だが自ら与えた縛めは、他人に押し付けられるよりずっと強固なものだった。クロウは怖れていたのだ。戯れに枷を外すことで、すでにある大切な時間まで失ってしまうことを、どこかで望み、深く怖れていた。
「昨日ね、スネイクにクロウの歌のことを話したの」
 クロウの手がとまるのを待って、リリィが口をひらいた。
「彼、一度聴いてみたいって」
「あいつの前でなんか絶対にやだね」
「どうして?」
「どうせ笑いものにされるだけだよ」
 スネイクは十七区に帰ってきて早々、灰猫歌劇場の看板役者に抜擢された。本人は役者よりも脚本などの仕事を希望していたが、姿の良さからそれは叶わず、いまは次に予定されている舞台稽古のため楽屋に泊まりこんでいた。しばしば、青鷺館へ通いながら。
 近ごろ、リリィの肌が内側から照るように感じられることがある。これまで誰よりもリリィをつぶさに見てきたクロウにとって、その変化は明らかなものだった。彼女はスネイクに恋をしたのだ。クロウは確信的に思った。
 スネイクのことを思い浮かべていたのか、リリィの眼差しが眩しげに細められる。
「そうかなあ」
「そうだよ。はい、できた」
 最後に洗い立ての髪を櫛で梳き、ゆるく編んでやる。ちょうどそのとき、フィグが顔を覗かせた。
「クロウ、風呂場の仲裁に入ってちょうだい。アウルはいま手が離せないみたいで」
「わかった」
 散らかした化粧台を片付けて、暮れなずむ空が映る窓にカーテンをひく。
「じゃあね、リリィ」
「うん」
 手鏡を見つめたまま、リリィは浅くうなずいた。クロウは部屋の扉を閉めながら、そんなリリィの横顔を見つめる。こんなにも幸せそうにしている彼女は、これまで見たことがなかった。クロウが五年かけても得られなかった彼女の笑顔を、スネイクはほんの一週間で引き出した。それを悔しいと思うにはクロウは稚く、スネイクという存在はクロウにとってとても大きなものだった。
 いまはただ、彼女の幸せな横顔をそばで見ていられるなら、それだけでクロウは充分に幸せだった。

 マダムの体調がかんばしくないとの知らせを受けて、クロウは診療所へ泊まりこんでいた。さいわい大事には至らず、二週間ぶりに青鷺館へ帰ると、待ちかまえていたようにアウルに話があると言って連れ出された。疲れていたので休みたかったが、あんたのおしめを替えてあげたのよと言われると逆らえるはずもなく、クロウは黙って彼女に従った。
 市場のほど近くにある小ぢんまりとした食堂に入るなり、アウルは言った。
「あんた、なんか聞いてんだろ」
「なんの話」
「リリィだよ。あの娘、スネイクとどうなってんのさ」
「なんで突然そういう話になるの」
 実はね、とアウルは声をひそめた。
 十日前の夜のことだった。青鷺館に来るのは初めてだという男がリリィを買った。四十絡みの闊達な男だったので、アウルは特に警戒することなくあげたのだという。だが部屋に入って小一時間も経たないうちに怒鳴り声がした。慌てて駆けつけると、男は顔を真っ赤にして怒り、裸のリリィの髪を掴んでいた。アウルはふたりのあいだに入り、リリィに何があったのか尋ねるが、彼女は黙りこんでしまい答えようとしない。男はアウルが来たことでいくらか冷静になったのか、服を整えて帽子をかぶると嘲笑まじりにこぼした。
 泥人形を掴ませやがって、と。
 事態を把握したアウルはすぐにも出て行こうとする男に酒をふるまってもてなし、どうにか機嫌を持ち直してから帰ってもらったのだった。そういったことが、クロウのいないあいだに二度ほどあったという。
「悪い噂を流されたりしない?」
「男のほうにも沽券ってもんがあるからね、たぶん大丈夫」
「だけどどうしてリリィは……」
「スネイクのせいだよ」
 ポットから紅茶を注いで、アウルは顔をしかめた。スネイクはこの十日ほどまったく姿を見せず、そのことでリリィも塞ぎがちになっていたらしい。
「ああ、そうだったんだ」
 閃光のように苛立ちが駆け抜けて、クロウは力なく笑った。
「気まぐれなやつ。あんなに毎日、稽古を抜け出してまで来てたのに」
「でもね、クロウ。わたしらからしたら意外だったんだよ。あいつが足繁く通う女なんて、そういなかったんだから」
 アウルは昔を思い返しているのか、頬杖をつき優しい目をして往来を眺めている。
「あの男に何度も抱かれりゃ、ああなるのも仕方ない気がして。立場上、わたしは今回のことを許すわけにはいかないんだけど、どうしてもかわいそうでね。だからスネイクがあの娘の借金を肩代わりしてくれないかと、フィグとも話してたんだ。あんたはどう思う、クロウ」
「どう、って……」
「いまのスネイクなら、払えない額じゃないと思うんだけどね」
 払えるということと、払うということはまったくの別ものだ。スネイクにその気がなければ、まわりがどうこう言ったところではじまらない。
「スネイクにはその話、した?」
「いや、その前にあんたの意見が聞きたくて」
「そっか。でもいますぐにってのは、ちょっと。リリィの顔を見てからでもいいかな」
「もちろん、いいよ。わたしも聞いてもらって楽になったから。ただ、できるだけ早くお願いね。あと何日もこのままでは、他の娘に示しがつかないから、さ……」
 リリィを非加盟の娼館へ払い下げれば済むところだが、アウルは踏み切れずにいるのだった。
「わかってる。明日までには、なんとかしてみる」
 クロウは、マダムが彼女を後継にしてくれたことに深く感謝した。

 組合に用事があるというアウルと劇場街の大通りで別れて、クロウはひとり青鷺館へ戻った。台所では女たちが食事の用意をし、風呂や玄関の掃除も手分けして行っていた。その中に、リリィの姿はない。女らを仕切っていた古株のフィグがクロウに気づいて目配せをする。アウルとの話を了解しているのだろう。クロウは小さくうなずいて、人気のない二階へあがった。
 部屋の扉はかすかに開いており、覗くとリリィが寝台で眠っていた。一日中遊びまわった子どものように手足を投げ出し、ぐったりと体を横たえている。
「リリィ」
 クロウはそばに腰かけて、囁くように呼んだ。彼女の頬には涙の跡が残り、唇は荒れて血が滲んでいた。日暮れには早い時間だが面差しには影が濃く、二週間前に感じられていた輝きはすべて息絶えたようだった。
「リリィ」
 重ねて呼びかけても起きる気配はない。白い額には汗で髪が張りついている。かきわけてやろうとして、クロウはその手をとめた。触れてはいけない。心の中でそう唱える。しかし一方から、なぜと声があがった。クロウは自分自身の問いかけに、すぐには答えられなかった。
 情を移すなというマダムの言葉が、クロウの胸に虚しく響く。そんなものは、とっくの昔に移っている、いや、奪われている。クロウの情愛も歌も性愛も、いまやすべてがリリィのものだ。すでに背いてしまった言いつけを、いまさら盲目に守ろうとするのは、死んだ子に乳をやろうとする母のように遣りきれず滑稽なことだった。
 リリィの寝息がわずかに乱れる。彼女は、起きていた。そしてクロウが触れるのを待っていた。
 いっそ彼女が望むまま触れ合って抱き合えたなら、クロウはどんなに楽かしれない。だがそれではどちらも救われなかった。
 伸ばしかけていた手をひいて、かたい声で名を呼ぶ。やがてリリィは諦めたのか、うっすらと目を開けた。
「クロウ……」
 かすかに落胆を滲ませながら、リリィは体を起こしてクロウに抱きついた。異なる体温がゆっくりと熱を同じくしていく。吐息が鎖骨を掠めて、やわらかな髪が鼻先に触れて、無言で抱きしめてと乞う彼女に気づかない振りをする。そんな自分を、クロウは他人事のように傍観していた。
「大丈夫? 顔色悪いよ、リリィ」
「うん、大丈夫」
 弱々しい声でリリィは続ける。
「スネイクかと思った」
「冗談。似ても似つかないよ」
 自分ならリリィをひとりきりになどしないという言葉を飲みこみ、クロウは乾いた笑いを洩らした。
 生温かい風が吹き込み、リリィの香りを強くする。空は南の方角から曇りはじめていた。
「話、聞いたよ」
 リリィは何も言わず、クロウの首筋にじっと顔をうずめている。
「好きなんだね、スネイクのこと」
「よくわからない。でも、他のお客が入ってくると、悲しくて寂しくて、スネイクが欲しくなる。彼がいるときよりずっと、彼が恋しくなる」
 声だけでなく体まで震わせて、リリィはクロウにしがみつく。
「わたしは、娼婦だから。心は平気なつもりだった。どんなお客に抱かれても、心はわたしだけのものだった。だけどスネイクに体をすべて奪われて、心の在り処も失くしてしまった」
 熱いものがいくつもこぼれ、クロウの服を濡らして肌を伝っていった。
「これが好きって気持ちなら、わたしはもう娼婦でいられない。明日を生きるのもままならない。ここ以外、どこにも行けやしないのに」
 泣きじゃくるリリィを肩で感じながら、クロウは彼女の幸せだけを祈っていた。彼女が見せていた幸せな横顔だけを望んでいた。そしてそれを叶えられるのが自分でないことを、クロウは悲しいほど潔く知っていた。
「待ってて、リリィ。すぐに帰ってくるから」
 スネイクを連れて。
 その言葉は、舌がもつれて声にならなかった。
 クロウは体をゆっくりと引き剥がして、笑顔でリリィに手を振った。