午前零時のアリア

05.六度目の夏に(2)

 青鷺館の灯りをつけて、クロウは軒下でアウルの帰りを待った。厚い雲に覆われた空から細い雨が降りだしたころ、道先に彼女の姿を見つけた。クロウは彼女が気づくのを確かめてから、劇場街へ抜ける裏道に向かった。
 肩が雨に濡れて、熱かったリリィの涙が冷えていく。これ以上冷たくなっては、交わした約束が凍りついてしまいそうで、クロウは足を速めた。
 劇場街の大通りは、驟雨に人影も疎らだった。多くの劇場から灯りと熱気が洩れだしてくる。そのなかで、灰猫歌劇場には閉館の札がかけられ、しんと静まりかえっていた。正面に貼りだされた日程表では、公演は三日後からとなっている。クロウは裏手にある通用口へまわった。
 守衛に名を告げると、すんなり楽屋へ案内された。廊下では、板へ釘を打ちつける青年と楽器を磨く初老の男とが、煙草をくわえながら談笑している。離れたところでは数人が集まって台詞あわせをしているようだった。
 示された部屋の中からは、話し声が聞こえる。クロウは躊躇いながらも、扉を叩いた。
「あとにしろ」
 スネイクの張りつめた声が飛んだ。
「おれだ、スネイク」
 クロウもまた負けないように声を張ると、しばらくして内から扉がひらいた。
「なにしに来た」
「話がある」
「いまする話か」
「なるべく、はやく」
 スネイクは時おり見せる冷たい眼差しでクロウを眺めていたが、ややしてから扉を開けたままなかへ戻っていった。クロウはスネイクを追って楽屋へ入る。じゃああとでと言って、ソファに座っていた身なりのいい男が代わりに出て行った。
「ここの支配人だ。次の舞台に出る女優が事故で動けなくなって、まだ代役が見つからない。公演三日前だっていうのに」
「大変だな」
「そういうわけだから、話はさっさと終わらせてくれ」
 スネイクは使い古されたソファに乱暴に座りこみ、背もたれに頭をもたせかけた。
 楽屋の壁には大きな一枚鏡が貼りつけられ、それほど広い部屋でもないが息苦しさは感じられなかった。ソファまわりはかろうじて片付いているものの、他は衣裳や小道具や酒瓶などで足の踏み場もない。隅にあるもうひとつの扉は半分ほどひらいたままで、奥には薄暗いのぼり階段が垣間見えた。その脇にある窓の外はようよう翳り始めていた。おぼろ月のように、街灯の光が窓に滲む。
 クロウはソファの脇に立って、スネイクを見おろした。
「どうしてリリィに会いにこない」
 スネイクはまるでなにも聞こえなかったように、眉ひとつ動かさない。
「このままじゃ、リリィはまともに生きられない」
「あんたが来てくれないと、わたし死んでしまうわ」
「えっ?」
「娼婦の常套句だ。芝居でもよく使う」
「真面目に答えろよ」
 思わず声を荒げそうになるのを堪えて、クロウは唸るように絞りだした。スネイクは頭をもたせかけたままクロウを見あげた。
「惚れてるのか、あの女に」
「おれのことは関係ないだろ」
「あるからここにいるんだろう?」
 スネイクはうっすらと笑みを浮かべる。
「おれはな、クロウ。別にリリィじゃなくても良かったんだ」
「だからもう会いにこないのか。だったらどうして通ったりした」
「あの部屋にいたのがリリィだった。ただそれだけのことだ」
「なんだよ……、それ」
 抗議の声には力がない。
 もとよりスネイクに期待などしていなかった。アウルに言われるまでもなく、彼が誰かひとりの女に執着する姿など想像もできない。女だけではない。スネイクはどんなものにも囚われることがなかった。いつだって前を見据えて、自分の力だけを頼りに生きていた。
 部屋のなかは角灯の灯りでほのかに赤みを帯びていた。それを受けて、スネイクの横顔が和らぐ。
「さあ、なんだろうな」
 クロウはずっと昔にも同じように穏やかな微笑みを見た気がしたが、いつどんなときだったのか思い出せない。見定めようとすると瞬きをする間に消えてしまい、クロウは確かめるすべを失った。
 窓を打つ雨はやや強くなり、血潮にも似た雨音が沈黙を支配する。
「帰れ、クロウ」
 スネイクは頭を起こして、乱雑に散らかったテーブルから探し出した煙草を口にくわえた。
「あの女を救いたいなら、そう思ってるおまえがどうにかしろ」
「無理だ、おれにはできない。リリィが望んでるのはおれじゃないから」
「だったら諦めるんだな。そうやって壊れていく娼婦は、そいつだけじゃない」
 男娼として生き抜いたスネイクの言葉は、氷のように冷たく重いものだった。クロウはうつむいて立ち尽くしたまま、下唇を噛む。スネイクの正しさが憎かった。そして理解できてしまうことが悔しかった。
「おれは……」
「それとも、なにか見返りがあるなら話は別だ。たとえば、そうだな……、ああ、おまえが女優の代役になるってのはどうだ。そうすれば、最後に一度リリィに会いに行ってやる」
「ふざけるな」
「あいつ、しきりにおまえの歌を褒めてたぜ。興味あるな。おれにも聴かせろよ」
「誰がおまえになんか!」
 クロウは楽屋を飛び出した。廊下にいた青年や男らの姿はなく、館内は静まり返っていた。積み重ねられた衣裳箱をよけ、床に転がった木切れに足を取られながら、クロウは走る。
「聴かせない、誰にも……」
 涙があふれるように、言葉が口からこぼれた。
「おれの歌はリリィのものだ」
 通用口から出ると、外はひどい雨だった。街灯は雨を白く照らすばかりで、足元まで光が届かない。いくらも進まないうちに泥濘を踏み、靴のなかはぐっしょりと濡れた。
 クロウは立ち止まり、雲の広がった夜空を見あげた。白い光が迫ってくるようだった。目を閉じると、全身を伝っていく雨粒のひとつひとつが鮮明に感じられて、まるで何もまとっていないようにも思えた。
 リリィを幸せにするための最良の道は断たれてしまった。だからといって諦めることもクロウにはできない。彼女がこれからも娼婦としてこの街で生きていくのは難しいだろう。ならば、この街から出るしかない。
 十七区から出るには、一区へかかる橋を渡るしか手がない。その橋には組合で雇われた傭兵崩れの守衛がいる。体が大きく目ざとい彼らは、逃げ出そうとする娼婦らを見逃しはしなかった。晴れの日も雨の日も真夜中でも、彼らの目からは逃れられない。だが馬車ならば逐一調べられることはなく、これまでにもそうやって抜け出した娼婦の話はいくつかあった。見つかれば窃盗罪に問われるので、承諾するものは皆無に近い。それでもクロウにはその少ない可能性に賭けるしか手立てがなかった。
 雨で冷たくなった手を、ぐっと握りしめる。目をあけて、背後の灰猫歌劇場を睨みつけた。
 終演時間が重なったのか、通りは馬車で混み合っていた。クロウは御者や乗客に片っ端から声をかけた。しかし取り合ってくれる者は少なく、話を聞いてくれたとしても応じる馬車は一台もなかった。やがて通りは閑散として、雨だけが降り続いた。
 疲れ果てたクロウは、ある劇場の軒下に座りこんで雨を凌いでいた。公演はすでに終わったようで、正面入口にたったひとつ残された灯りだけが、重い扉を照らしていた。弱々しい灯りだったが、まわりの闇を深めるには充分だった。
 道先から、車輪と馬蹄の響きがある。クロウは鈍く痛む頭をあげた。馬車が近づいていた。声をかけなければと気は急くものの、体がまったく動かない。膝を抱えたまま、見つめているしかできなかった。その馬車がゆっくりと速度を落として、クロウの目の前に停まった。御者席にはふたりおり、そのうちのひとりが劇場のなかへと駆け込んでいった。
 ややしてから女の話し声がして、劇場からふたつの人影が出てきた。
「どういうことなの、説明してちょうだい」
「申し訳ありません、奥様。旦那様が……その、まだお帰りにはならないと申されまして、奥様には先にお戻りになるようにと……」
「まあ、なんてひどい。ひとりで帰るなどと、そんな惨めなことをわたくしにせよと仰るなんて。あなたそれでよく引き返してきたものね」
「はい……はい……、申し訳ありません」
 しきりに頭を下げているのは先ほど馬車をおりていった人物で、被ったままの雨よけが灯りに照らされててらてらと光っていた。もうひとりは長い髪を優雅に結い上げた三十代半ばの女だった。スカートの裾が汚れるのを気にして、差し出された傘に入るのを躊躇っていた。
「では、わたくしが直接、あのかたを説得に参りますわ」
「そ、それは、お控えください」
「なぜですの。観劇中に抜け出して娼館へ行ってしまうような方に、なぜわたくしが遠慮しなければなりませんの」
「いや、それはその……」
 雨とも冷や汗ともつかないものを拭きながら、使用人らしき人物は難渋していた。クロウは壁に手をついて立ち上がり、あの、と声をかけた。女は嫌なものを見るようにクロウを振り返った。
「なにか用かしら」
「すみません、お話を聞いてしまって……。あの、つまりこの馬車には、おひとりしか乗られないんですね」
「それがどうかしまして」
 女はクロウを不審に思ったのか、躊躇っていた傘に逃げるように入った。クロウは自分の立っている場所に灯りが届いていないことに気づいて、驚かせないようゆっくりと灯りの下へ一歩進み出た。女はクロウを上から下まで舐めるように見て、感嘆のため息をつく。
 濡れそぼった黒髪は常より深く沈み、寒さで青褪めた顔をいっそう引き立てた。若々しい眼差しは熟れて熱っぽく、掠れた声音には夜を憚る息遣いがあった。薄手のシャツは体に張りついて肌の色に染まり、胸や腹の輪郭まであらわにする。女は口元に指を当てて微笑んだ。
「なにがお望みかしら」
「馬車に乗せてほしいんです、ひとり、女の子を。橋を渡ったら、すぐに下ろしてもらって結構ですから。どうか、お願いします。あ、お金なら……」
 クロウはズボンのポケットを探った。そこに手袋を嵌めた女の手が重ねられる。
「お金だなんて。困ってらっしゃるのでしょう? 乗せてさしあげますわ」
「いいんですか、ありがとうございます!」
「ええ、ええ、お金はよろしいんですけれどね、その代わり」
 女の指先が濡れた服の上からクロウの脇腹に触れた。ズボンの縁に沿うようにして、ゆっくりと腹をなぞっていく。その意味にクロウはすぐさま気づいた。
 戸惑いはあった。だが同時に、それでリリィをこの街から解放してあげられるなら、誇らしくもあった。クロウは女の手をとってうなずいた。
「わかりました」
「まあ! それではどちらへ参ります?」
「奥様、なんてことを。きっと娼婦ですわ、見つかれば罪になるんですよ」
 事態を悟った使用人が控えめな声で諌めながら、撤回してくれるようクロウに視線で懇願した。だがクロウは取り合わない。
「わたくし、あなたのお部屋でもよろしいのよ」
「部屋、ですか」
 クロウの部屋は青鷺館の屋根裏部屋だ。そこへ女を連れて行くわけにはいかない。どこか近くに噂の立ちにくい場所はないか思案していると、ふとスネイクの煙草の香りを思い出した。灰猫歌劇場なら、ここから目と鼻の先だ。
「しばらくここで待っていてもらえますか。すぐに戻ってきますから」
 そう女に告げて、クロウはふたたび雨のなかへ駆け出した。

 灰猫歌劇場の裏手へまわると、通用口の近くに守衛と話すスネイクの姿を見つけた。彼のほうもすぐにクロウに気づく。
「おまえも飲むか」
 スネイクは手に持っていた酒瓶を掲げた。先ほどかわしたやりとりなどなかったように、いつもと変わらない不真面目さでにやにやとしている。クロウは小さく首を振った。
「楽屋を使わせてほしい。数時間、いや一時間でいいんだ」
「かまわないが、ただで借りられるとは思ってないだろ」
 予想していた返事に、クロウはぐっと顎をひいた。
「わかってる」
 体中を覆う雨がいつのまにか体の内側も伝っていた。その雨音の奥のほうから、綿雲の唄が聞こえてくる。強く抱きしめれば崩れてしまいそうなほど繊細で、そのくせどんなものよりも鮮やかで確かな輝きを放っている。あのときからずっと、クロウの胸のうちを照らし続けた光であり、クロウのただひとつきりの情愛のいのちだ。
 クロウはオルゴールを閉じるように、粲々とした思い出にそっと蓋をした。
「代役でもなんでもやってやる」
 氷を飲みこんだように、胸がすっと冷えていく。クロウは精いっぱいやわらかく笑う。それは強がりと自嘲の叫びだった。
「やってやるって言われても、おれはまだ、おまえの歌を知らないんだがな……」
 スネイクの視線がクロウの背後へ投げられる。振り返ると、道の向こうに女が傘を差して立っていた。
「まあいいぜ。好きにしろ」
「ありがとう」
「稽古は明日の朝からだ。遅れるなよ」
 口早にそう言うと、スネイクは守衛に飲みに行くぞと声をかけて去っていった。クロウは女を手招きして、ともに館内へ入った。
 灯りの消された楽屋には、煙草の香りと油のにおいが綯い交ぜになって残っていた。クロウは洩れ入る街灯を頼りに角灯を見つけて、マッチをすった。だが手が濡れているせいか、うまく火がつかない。ふたつ、みっつと湿ったマッチを捨てていると、横から伸びてきた手がすんなりと火を灯した。女はマッチに残っていた火を吹き消す。
「ずぶ濡れね、いけないわ。すべて脱ぎなさい」
 角灯をテーブルに置き、女はそばのソファに腰かけた。クロウは絡みつくような女の視線を感じながら、シャツの釦を外していく。女はそれを愉しげに目を細めて見ていた。クロウは急に恥ずかしくなり、首から耳にかけてが燃えるように熱くなった。
 たどたどしくシャツを脱ぎ捨て、続けてズボンを脱ごうとするものの、ベルトの金具がつかえて動かない。寒さに手がかじかんで、うまく扱えないのだった。次第に焦りを募らせたクロウは、助けを求めるように女を見た。
「仕方のない子」
 女は言葉とは裏腹ににこやかに微笑み、クロウのベルトをゆっくりと外した。手袋越しでも、女の手の温かさが伝わってくる。
 女はクロウの頬を舐めて、雨の雫を吸い取っていく。熱のこもった舌はざらざらとして、羽をむしった鳥の皮のようだった。服を剥がされ、下着の上から触れられる。クロウは女の体を抱き寄せて、首筋に小さく口づけた。そこは甘い涙の味がした。
 それまで白い手袋に守られていたなめらかな指が、直接肌を撫であげた。心得た手指に、快楽が飼い馴らされていく。唇を重ねると焦がし砂糖のようにまとわりついて、舌をからめとられてしまう。クロウは手さぐりで女の服の結び目をほどいて、隙間から手を差し込んだ。手や唇よりも触り心地のいい膨らみを、泡を掴むように手のうちに包み込む。女の蒸れた吐息が舌を掠めたかと思うと、下唇に歯を立てられて、クロウは思わず息を洩らした。かわいい、と重ねあった女の唇が囁いた。
 いつしかクロウは靴まで脱いで、女のために隅々までさらけだしていた。ソファに押し付けられ、半身を起こして寝転がったクロウの腰のあたりを、女の頭が行き来している。クロウが達しそうになると、女は腿をつねった。クロウに自由はない。川瀬に浮いた木の葉のように、甘美な流れのなかを浮きつ沈みつしている。すでに寒さはなく、体中がじっとりとした。息があがって、唇を噛んでいても声がこぼれる。体の末端は痺れるほど熱を帯びた。やがて女がクロウを見下ろすように馬乗りになり、クロウは少女のようにか細い声をあげた。
「あの、ごめんなさい」
「いいのよ、すぐに戻るでしょう?」
 構うことなく、女は体を動かし続けた。はだけた胸元から白い肌がこぼれて、薄明かりの中で揺れる。クロウは体を起こして女の腕を支えた。言葉はなく、視線だけで探りあう。女が伸ばした赤い舌を口に含んで、舌先でもまた繋がった。クロウの腹や腰には雨でも汗でもないものが広がって音をしならせていた。抱きしめて引き寄せると、女は水鳥のような声で啼いた。
 ふたりは体を寄せ合ったまま、クロウが押し倒されるかたちでソファに横たわる。べたついた胸には息詰まるようなやわらかさがのしかかり、体の結び目のようにぐにゃりと歪んだ。
「これで、大丈夫ですか……」
 クロウは息を切らしながら尋ねた。女は荒い呼吸を繰り返すばかりで、返事をしない。
「まだ、だめですか」
「橋の手前の曲がり角で馬車を停めておきます。午前零時の鐘が鳴るまでにいらっしゃいな。それ以上は待てませんわ」
「わかりました。ありがとうございます」
 女と体を入れ替えて、クロウはソファから立ち上がった。手近にあったスネイクの服を着て青鷺館へ急ぐ。雨は一向弱まらず、火照った体は汗をかきながらじわじわと冷えていった。
 クロウは裏口から青鷺館へ戻り、柱時計を覗いた。零時まで、あと一時間もない。ここから橋までリリィを連れていくことを考えれば、ほとんど時間は残されていなかった。クロウは髪から垂れる雫を払って落とし、階段をあがる。さいわい暇をしている娼婦はおらず、アウルも居間で酒の相手をしているようだった。彼女たちに気遣わせないよう、クロウは息を殺して歩いた。
 いちばん奥にある部屋の扉をそっと開けて、なかへ体をすべりこませる。化粧台に置かれた角灯が、室内をやわらかく照らしだしている。リリィは窓枠に腰かけて、膝の上にはぶ厚い本を広げ、淡いピンクの栞を指先で撫でていた。
「おかえり、クロウ」
「なに読んでるの」
「字は読めないから、眺めてるだけ。貰ったんだ、初めてわたしを買ってくれたお客さんに」
 表紙には手触りのいい革が使われ、数頁ごとに少年少女や動物などの挿絵が描かれている。紙の質もよく、指に吸いつくようだった。その紙の上に、ぽつぽつと細かな雨が吹きつける。
「濡れるよ」
 クロウが窓を閉めようとすると、リリィがそれを阻んだ。
「いいの。気持ちいいから」
 窓の外へ出たリリィの片腕は、袖がすっかり濡れて色が濃くなっていた。
「風邪ひくだろ」
「ずぶ濡れのクロウに言われたくないなあ」
 子どものように無邪気に言い放って、リリィは顔をあげた。その眼差しは夜のように深く沈みながら、雨のひと雫のように潤んでいた。
「リリィ、ここから出て」
 言葉の意味が理解できなかったように、リリィは首をかしげた。クロウはリリィの袖を強く引く。
「橋の近くに馬車を待たせてある。それで一区に行ってくれないか」
「どうして」
「このままここに置いておくわけにはいかないんだ。大丈夫、面倒なことはおれが引き受ける。だからリリィは静かに暮らしてくれたらいい。お金が溜まったら、郷へ帰るといいよ」
「わたし、ひとりで?」
「うん」
「クロウは……来て、くれないの」
「おれは」
 一緒に行きたい、リリィとともに暮らしたい、そんな言葉が喉もとまでせりあがってくる。クロウの気持ちを告げれば、リリィは受け入れるかもしれなかった。逃げ出した娼婦とヘヴン生まれの少年にいったい何ができるのかわからないが、ひっそりと肩を寄せ合って生きていけるなら、他には何も望まなかった。だが、スネイクがリリィに残した甘美な爪痕は、とてもクロウには癒せそうにない。その傷跡はリリィの手で大切に守られ、涙に濡れ、いつまでも生々しく疼いている。クロウには彼女の愛を取りあげることはできない。
 からからに乾いた喉に唾を押しこんで、クロウはふたたび口をひらいた。
「おれの家はここだから」
 クロウは笑顔に見えるよう顔を歪めてうつむいた。頭から滴った雨の雫が、涙のように頬を伝って床に落ちた。
 風にあおられて、本の頁がめくられていく。
「だったら、わたしもここにいる」
「リリィ!」
 クロウは窓枠に手をつき、リリィに迫った。わずかに怯えながらも、リリィはクロウから目を逸らそうとはしなかった。
「売られた娘が帰ったところで、誰も喜ばない。それならここにいたい」
「そんなの、行ってみないと――」
「行ってしまったら、ここにはもう帰ってこられないから」
 栞を挟んでいる頁をひらいて、リリィは目を細めた。挿絵の少女は道に迷い、飢えながらも、ようやく見つけた食べ物を老人や子どもや動物に分け与えていた。栞の端が風に吹かれて魚の尾びれのようにはためく。リリィは栞が飛ばされてしまわないよう、しっかりと手で押さえた。
 本を眺めるリリィの横顔はどこまでも穏やかで、雲間から射す陽光のように侵しがたい煌めきに彩られていた。
「ねえ、クロウ。歌って」
 リリィは本を愛でながらせがむ。その声は切迫して、震えていた。クロウは窓枠に押しつけた拳をかたく握りしめ、それからゆっくりと寝台へ腰をおろした。リリィを逃がすためだったとはいえ、売り払われてしまった歌がはたして彼女に届くのだろうか。それでも、クロウには歌わないという選択肢はない。たとえ天罰が下り、喉が引き裂かれてしまったとしても、彼女が望むならクロウは歌うのだった。
 ヘヴンの流行歌は、悲しいものが多い。クロウは明るい曲調の歌を選んで、息を吹きこんだ。
「海より深くて青い恋だったわ。あなたは町いちばんの船乗り。わたしはただの花売り娘。見つめているだけで、太陽にいだかれているような体の火照りよ」
 歌っていると、心の痛みが他人事のように思えてくる。自我というものを昇華できた。
「あなたに焼かれて、わたしの恋は燃え上がる。ああ、海のあなた。波に揺られて、つかまえられないあなた。いつかこの花びらが届くのでしょうか」
 雨音でぼやけながら、午前零時の鐘が聞こえた。クロウは歌が壊れてしまわないよう、叫び出したい気持ちを静かに血に溶かす。
「溺れていくわ。苦しくたって、あなたの海へ。どこまでも沈んでいくのなら、いっそ恋の灰になって、星空を浮かべた海へ散ってゆきたい。とわの片恋、とわのアリア」
 ななめ後ろから見あげたリリィの頬に、涙が伝う。クロウは声が枯れるまで歌いつづけて、いつしか深い眠りに落ちた。

 瞼の裏がぼんやりと白けて、クロウは眠りから醒めた。雨はすっかり上がって、空には透けるような朝焼けが広がっている。クロウは体を起こし、辺りを見回した。
「リリィ」
 部屋に彼女の姿はない。昨夜リリィが腰かけていた窓はひらいたままで、床には紫色の押し花が散らばっていた。それを拾いあげたクロウの脳裏で、記憶が瞬く。
「これって……」
 押し花を持つ手が震えた。たまらず握りしめると、手のなかで花が粉々になった。それはかつてクロウがリリィに贈った小さな花束だった。
「リリィ、どこに」
 寝台のそばにはリリィがいつも履いていた靴が揃えられている。外へ出たとは思えなかった。クロウはそろりと窓から身を乗り出し、下方の隙間に本が落ちているのを見つけた。
 気づいたときには、クロウは部屋を飛び出していた。階段を駆け下りて裏口から外へ出る。青鷺館と柵のあいだにある隙間は、体を横にしなければ通ることができないほど狭い。雑草が膝の高さまで生い茂り、土は雨でじっとりとしてやわらかかった。柵からはみ出た釘にシャツが引っかかる。クロウは破れるのも厭わずに、そのまま強引に奥へ進んだ。
 本は水を吸って膨れあがっていた。持ち上げると、泥水が滴る。クロウは栞の挟まっていた頁をひらこうとしたが、そもそも栞が見当たらない。
 手のなかで灰のようになっていた花の残骸が、やんわりと肌を刺す。クロウは思わず息をのんだ。
「うそだ、どうしていつまでも……そんな」
 栞は、紫の花を束ねていたリボンだった。
 視界の端で、何か白いものが風にはためく。閉め忘れた窓からカーテンがはみ出していた。クロウは、昨夜栞が飛ばされそうになっていたことを思い出す。
 何か冷たいものが背中を伝い落ちていった。青鷺館の屋根にとまっていた鳥が、クロウの頭上を掠めながら川のほうへと飛んでいく。その軌跡を目で追って、クロウは柵の向こうを覗きこんだ。雨で増水した川は茶色く濁り、低く唸りをあげていた。
 クロウの想定を裏付ける痕跡は何もない。しかし、否定できる根拠もない。クロウは柵にもたれかかって、押し寄せる激情にえずいた。言葉にならない声が吐き出されていく。
 たまらず本を抱きしめると、泥といのちのにおいがした。

 それからすぐに組合から捜索隊が派遣されたが、中洲にも、川の下流域にも、リリィらしき人物は発見されなかった。
 人々はみな、川へ身を投げたのだろうと噂をした。思い悩んでいたとか、客をひどく怒らせたとか、まるで見てきたように言う。
 リリィが姿を消して二日後、書類の上で彼女は死んだ。紙切れ一枚の死だった。
 その日、クロウは舞台の上で生を享けた。