午前零時のアリア

06.姫王子のなみだ

 多くの劇場が閉館準備をするなか、灰猫歌劇場は煌々と灯りに照らされ、開場待ちの客や馬車でごった返していた。案内係が掲げる看板には、今夜の入場券はすでに売り切れ、立ち見もあとわずかと書かれている。にもかかわらず、馬車からは続々と正装した男女がおりてきた。その様子を横目に眺めながら、クロウは通用口へまわった。
 裏手には街灯がひとつしかなく、表通りの賑やかさが嘘のように感じられる。通用口の脇には角灯がかけられ、足元に伸びた守衛の影は頭の部分が街の影と溶け合っていた。そのとなりには、通用口の前を行ったり来たりする青年の姿があった。
「おはようウィル」
「遅いですよ、クロウ」
 ウィルと呼ばれた青年は声をひそめながらクロウのもとへ歩み寄り、持っていた冊子をクロウへ渡した。
「もうちょっと余裕持って入ってくださいよ。これ、来週からの台本です」
「開演までまだ一時間以上あるし大丈夫。それにほんとに危ないときは、ウィルが青鷺に来てくれるだろ」
 守衛に目礼して館内へ入る。楽屋や倉庫や練習ホールが並ぶ廊下は、開演を前にして張りつめ、日に日に鋭くなる高揚感に満ちていた。
 ウィルは二区の商家の跡取りだったが、クロウの舞台に魅了され、一年ほど前に家を捨てて灰猫歌劇場へやってきた。背が高く端整な顔立ちをしているので支配人は役者見習いにするつもりだったが、本人の強い希望によりクロウの付き人となった。商家の育ちのため人当たりがよく、気遣いも行き届いている。おかげでクロウの負担はすっかり減った。
「稽古は明日の昼からですので、それまでに一度目を通しておいてくださいね」
 表紙にはスネイクの筆で『魔女のなみだ』と書かれていた。それを指してウィルが微笑む。
「燃えるような夕焼けのなか降る雨のことを、二区では魔女の涙って呼ぶんですよ」
「へえ」
 うなずきかけたクロウは、ふと首をかしげる。
「でも、なんであいつがそんなこと」
「先日飲んでいたときに遭遇したので、お話ししたんです。むかしむかし街外れに住んでいた女性が恋人を亡くした悲しみで悪魔を呼び寄せてしまい、夜のあいだは醜い魔女になってしまったんです。真っ赤な夕焼けは彼女が人でなくなるときの叫びで、雨は徐々に掻き消されていく、人としての彼女の嘆きだそうです」
「それってさ、魔女なの、人なの」
「さあ、どちらでもあり、どちらでもないんじゃないですか。魔女と人との、あわいの生きものかもしれません」
 すれ違う楽団員と挨拶を交わしながら楽屋へ入ると、なかには客から贈られた花束が並んでいた。心なしか、白百合が多い。
「昨夜の舞台で髪飾りにしたでしょう。いろいろと噂になってます」
「へえ」
 クロウは台本をソファに投げ置いて、大きな鏡の前に座った。そこに、背後に立つウィルの不思議そうな顔が映っている。
「なんて顔してんだよ。男前が台無しだぞ」
「意外だな、と」
「なにが」
「すみません。てっきり、捨てろと言われるんだと思っていました」
 クロウがウィルに、リリィの話をしたことはない。だが噂は嫌でも彼の耳に入っているだろう。
 クロウは眉を歪めて苦笑した。
「そうだな。昨日まではそう言ったかもしれない」
 ポケットから紅の入った小さな器を取り出し、化粧道具のなかに並べる。安物の硝子が嵌めこまれた入れ物は他と比べて見劣りした。
「なあ、ウィル。青鷺に持っていってもらってる金のことなんだけど」
「なにか不備がありましたか」
「いや……、来週から、もういいんだ」
 あの角部屋は、ずっと空き部屋のままだった。娼婦を入れて稼動させない代わりに、クロウが金を支払っていたのだ。過去の帳簿を調べたアウルが言ったのだ。ロビンがいなくなったあとも、誰かが金を払い続けていたのだと。その誰かの正体をアウルは知っているようだったが、クロウはあえて聞かなかった。
 一年前に先代マダムが亡くなり、アウルが青鷺館のマダムと呼ばれるようになっていた。評判は良く、経営は順調だ。そんな娼館の一室をいつまでも独占していられない。クロウはそう思いはじめていた。
 わかりましたと頭を下げて、ウィルは楽屋を出て行った。深く追及されなかったことに安堵するのも束の間で、ひとりきりになると、白百合の香りが体中にまとわりついてきた。
「二年……」
 もう二年なのか、まだ二年なのか、クロウにはよくわからない。昨日のことのように胸は痛むが、その日のことを思い出そうとするともっと昔のことに思えてくる。積み重ねたはずの時間は、あの日にすべて崩れてしまっていた。その上に新しい時間を積もうとしても、虚しくすべり落ちていくだけだ。
 いまクロウは時間のかわりに歌を積み重ねることで自身の歩みとしている。そのとき自分がなにをして、なにを感じていたかを思い出せなくても、歌を歌えばクロウは過去の自分に出会うことができた。泥のように過ぎていく毎日のなかで、舞台に立っている時間だけがクロウに生身の感覚を味わわせてくれた。
 開演一時間前の声がかかり、クロウは化粧にとりかかる。白粉をはたき、陰影をつけ、目元には特に深い影を落とす。眼差しが映えるように、役が宿るように、慎重に線を引いた。そうやってクロウは次第に『クロウ』へと生まれ変わっていく。鏡に映るのはクロウの自我を備えた別の生きものだ。性別や年齢や生い立ちを塗り替えて、虚構と現実の境を化粧で塗り潰していく。その息苦しさに身震いする。なまぬるいいのちが凍りついて、全身から汗がひいていった。
 リリィが愛した硝子の蓋をひらいて、小指の先に紅をすくう。それを唇にのせようとしてクロウはためらった。いつもの紅より、はかない色をしている。これでは『クロウ』にはなれない。クロウはすくいとった紅を器の縁でこそげて、どうしても取れない分は『魔女のなみだ』の表紙へこすりつけた。
「あわいの生きもの、か」
 毒々しく生々しい紅をひく。ゆっくりと瞬きを繰り返すうちに、研ぎ澄まされていく。クロウと、クロウの目に見えている世界との距離が遠くなる。喉から歌が迸った。クロウは語るように歌いながら髪をゆるく結わえて、金属のように輝く孔雀の羽根を挿した。
 十分前の声が廊下に響く。クロウは楽屋の奥にある扉を開けて階段をあがり、舞台の袖へと向かった。電飾の調整や客席の誘導で誰もが慌しくしているなか、ひとり壁にもたれて悠々と煙草を吸う男がいた。クロウは舞台のほうを見つめたまま、男の前に立つ。
「昨日の話、受けてやるよ」
「おれの復讐の手助けをしてくれるってのか」
 スネイクは煙草をくわえたまま冷たく笑う。クロウは目を伏せて、さらりと首を振った。
「もっと濃い、いのちがほしい」
 舞台装置もないがらんどうの空間が、強い電飾に照らし出されている。間近で見ると傷んだ舞台だが、クロウが立てばそこは甘く華やかな楽園へと生まれ変わる。観客も音楽もすべて飲みこんで、クロウがこの劇場そのものになる。その瞬間の恍惚を思うとため息がこぼれた。そしてもっと欲しくなる。
 クロウは伏しがちにスネイクに微笑みかけると、毛皮の裾をひるがえして舞台の中央へと足を踏み出した。重たげに垂れ下がるビロードの幕は、母の子宮のようだった。胎内に包まれている感覚に、クロウは安心してその時を待った。
 今夜もまた世界に生み落とされる。
 祝福と罪をその身に背負い、光という血を浴びながら、蝶が羽ばたくような産声を紡ぎだすのだ。
 午前零時の鐘が鳴る。
 狂乱の幕はあがった。

―おわり―