午前四時のノクターン

02.夜明けをまとって

 昼食のあと皿洗いをしていると、横からリリィが猫みたいにすり寄ってきた。皿を落とさないよう一瞥すると、彼女は顔の前に手のひらほどの四角の紙片をちらつかせていた。
「なにそれ」
「なんだと思う?」
「質問に質問で返すのはよくないよ」
「クロウってときどきお母さんみたい」
 薄いシャツ越しにリリィの体温が伝わってくる。今日の肌はすこし熱っぽい。
「ねえクロウ、今夜ってなにか予定ある?」
「ないけど、どうして」
「これね、チケットなの。昨日彼からもらったの」
 彼とはスネイクのこととわかりながら、クロウは首をかしげる。
「かれ?」
「スネイクがくれた、今日のお芝居のチケット」
 リリィの声でかたちになるスネイクの名を、クロウは自分で乞うておきながら砂を噛む心地で聞く。ほかのどんな言葉を口にするときよりも、あまい香りがした。苦しさとよろこびが体の半分ずつを支配して、そのはざまで笑顔が出遅れる。
 ゆすいだ皿を片付けて、続けて夕飯の仕込みをはじめる。今夜は先ほどしめたばかりの鶏を香草焼きにする。
「行くの?」
「もちろん」
 チケットには午前零時開演と印字されていた。
「それならちゃんとアウルに言わなきゃだめだよ」
 下処理をした鶏肉にワインを振ってスパイスを手でもみこむ。ハーブをのせてオーブンへ放り込んだらあとはじっくり時間をかけて焼くだけだ。
「ねえ、マダムにはクロウから話してくれない?」
「は……?」
 クロウはすぐそばのリリィを見おろした。目があうと彼女はゆっくりと顔をほころばせる。
「やっとわたしのこと見てくれた」
 いとおしさが込みあげて苛立ちになる。クロウはどこにもやり場のない情動を持て余して眉を歪めた。
「いつだって見てるよ」
「うそ。さっきから全然こっち見てくれなかった」
 クロウがふたたび手元に視線を落とすと、リリィは身を乗り出して視界へ入ってこようとする。
「お願いクロウ、わたしいま彼女と話したくない」
 名前のことを考え直せと言われるのが嫌なのだろう。気持ちはわかるが代わりにクロウが許可をもらいにいくのは筋違いに思う。
 リリィはそんなクロウの思考を読んだように得意げに笑った。
「クロウにとっても他人事じゃないんだよ」
「どういうこと」
「ここよく見て」
 リリィはチケットの端を指さした。そこには同伴者必須とある。
「舞台なんだろ?」
「お芝居の途中で舞踏会があるんだって」
「それで? おれにとっても他人事じゃないって?」
「そう」
 リリィはまっすぐクロウを見あげた。
「今夜一緒に行ってほしいの」
 体温や眼差しから彼女の真剣さが伝わってくる。
「わたし、たくさんの人の前に立つ彼を、光を浴びている彼を見に行きたい。お願い……、ほかに頼める人がいないの」
 ほしい服や髪飾りをねだる相手はいても、一緒に他の男を見に行ってくれる客なんてどこにもいない。
 クロウもスネイクの舞台にはすこしばかり興味があった。こんな機会でもなければそうそう観に行くこともない。
「まあ、アウルの許可がおりれば」
「じゃあ……」
 リリィの顔が一気に華やぐ。クロウは弱々しく微笑んだ。
「いいよ。行くよ一緒に」
「ありがとう!」
 リリィは飛び上がるようにしてクロウに抱きついた。
「やっぱり優しい。だから好きだよ、クロウ」
 たとえそれが情愛でなく親愛であっても、クロウには至上の言葉だった。

 お芝居にいくならそれなりの格好をしていきなさいとアウルにいわれ、クロウとリリィは連れ立って青蜥蜴館を訪れた。青鷺館とおなじ娼館であり、見世物小屋でもある。そのため歌や踊りに使うさまざまな衣装を揃えていた。かつてスネイクが在籍していた館でもある。
 クロウが姿を見せると大柄な体躯の旦那の手で素早く着替えさせられてしまった。そのあいだクロウにはボタンひとつ留める隙もない。ごらんなさいと旦那に促されて鏡の前に立つと、そこには見覚えのない少年がいた。
 銀の糸を織り込んだゆったりとしたシルエットの白いブラウス、ふくらはぎが隠れる半端丈の黒いズボン、その丈に見合う編み上げの黒革ブーツ。シャツの裾は無造作にズボンから出して着崩して、赤いスカーフを巻いた黒いハットが合うよう髪も整えてもらった。
 シャツに触れると花びらのようにしっとりとしていた。普段着ているコットンのシャツやズボンとは違った着心地のよさがある。
「思ったとおり、よく似合う」
 クロウのうしろに立って旦那は満足げに微笑んだ。そうしてすこし寂しげに目を細める。
「ロビンが恋しくなるわね」
「こういうの着てたんだ」
「そうね、動きやすいからって」
 母のことを覚えていないクロウに、まわりはさまざまなロビンを教えてくれる。ほとんどが性格や気性に関することばかりで、服装について聞くのはこれがはじめてだった。話者の主観が入らないのでよりはっきりとロビンという人が感じられた。おさないころならあれこれと質問攻めにしたところだが、いまさら知りたいと思うこともない。知ったところでクロウの心のなにが埋まるわけでもなかった。
 フックにかかるベルトやネクタイの束から、細いリボンタイを手に取る。
「いいと思うわよ」
 旦那はにっこり笑ってもうロビンのことには触れなかった。
 リボンの結び方に苦戦していると鏡のなかで奥のドアがひらいた。振り返るとリリィが顔をのぞかせていた。
「あら、そっちも準備できたかしら」
 旦那の呼びかけにリリィはふるふると首を振る。着替えを手伝っていたお針子の女が嘘おっしゃいと笑いながら一喝してリリィを追い出した。つんのめるようにして出てきたリリィは顔を真っ赤にしていた。女はリリィの背後からスカートを広げてみせて得意げな目をした。
「どうだい、あたしの見立ては」
 何色といえばいいのかクロウはとっさに思い浮かばなかった。インクが滲んだ黒にも、深い井戸の濃い紫にも映る。大きくひらいた胸もとでは薔薇のつぼみのコサージュが息をひそめ、生地をたっぷり使ったスカートはふんわりと膨らんでほんのすこしの動きにも大きく揺らいだ。夜明けのドレスだとクロウは思った。
 リリィは恥ずかしげに目を伏せながらクロウに歩み寄り、右手の人差し指をそっと握った。
「変じゃない?」
「そんなことないよ」
 きれいだと思っているのに、そのたったひとことが伝えられない。声に出してしまえば自分の気持ちが抑えられなくなりそうだった。約束もリリィの想いも無視をしてこの手で彼女を抱きしめてしまいたくなる。
「きっと喜んでくれると思うよ」
 それがいまのクロウの精一杯だった。
「そうかな」
「そうだよ」
「ねえ、それならお化粧はクロウがして」
「え、でも……」
 旦那に目で許可を仰ぐと、快く鏡台を使わせてくれた。見たことのない化粧道具を前にして戸惑っているとお針子の女がいくつかを選んでくれる。リリィが椅子に座って目を閉じたので、クロウは筆を手に取った。
 部屋の外からは賑やかな音楽と笑い声、舞台を踏み鳴らす振動が響いた。思わず踊りだしたくなる陽気なリズムにつられ、リリィの表情に普段のやわらかさが戻る。ドレスに負けないよういつもより濃い陰翳をまぶたに描いて、口もとはコサージュの薔薇にあわせてすこし沈んだ真紅にした。
「もういいよ」
 リリィは目をひらいて鏡をのぞく。はっと息をのんだようだった。
「すてき。これなら彼につれなくできそう」
 強い化粧がリリィの頼りなさげな表情をいっそう引き立てた。張りつめすぎた虚勢は隙になる。隙は無防備なままはかなげな色香を放った。
 スネイクの好みは知らないけれど自分なら――。
 けれどその言葉の先は胸のうちでさえ決してかたちにはならない。かたちにしては、いけない。
「そうだね」
 クロウはそれだけを言って先に部屋を出た。