午前四時のノクターン

03.熱狂と静寂

 劇場内に座席はない。壁際には二人がけのソファがいくつかとサイドテーブルが置かれていたが、客のほとんどは思い思いの場所で立ったままグラスを片手に開演のときを待っていた。
 ボーイからグラスをふたつ受け取りリリィのもとへ戻ると、彼女は緞帳に覆われた舞台を見つめて目を輝かせていた。なにも言葉はないけれど、彼女の声が聞こえてくるようだった。彼はどんな役なのかしら、彼はどんな歌を歌うのかしら、彼はわたしに気づくかしら、彼は……、彼は……。
 いつもと違うドレスを着て、いつもと違う化粧をして、けれどもスネイクのことを思うときの横顔はいつもとなにも変わらない。そのことがクロウには誇らしく、おなじだけ苦しい。
 持っていたグラスの結露が親指の爪を伝って落ちていく。クロウは短く息をとめてざわつく心を殺してから彼女の名を呼んだ。
「もらってきたよ」
 目の前にグラスを差し出すとようやくクロウに気づいたようだった。ありがとうと受け取って胸の前に引き寄せる。
「なんだか緊張してきちゃった」
「リリィがあそこに立つわけじゃないのに」
「うん、そうだよね。おかしいの」
 困り果てたようにリリィは弱々しく微笑んだ。昂りをごまかすようにグラスを一気に空けて、はあっと息をついた。
 リリィの戸惑いと緊張がクロウには手に取るように伝わってくる。クロウもまた慣れない場所に息苦しさを感じていた。なにか気持ちが楽になるような言葉をかけてあげたいと思うけれども思考は空回りする。
「あめあがりの青空に」
 とっさに口をついて出たのは綿雲の唄だった。

 あめあがりの青空に
 虹の橋をとびこえて
 さみしがりやの綿雲ひとつ

 リリィの顔がぱっと明るくなる。ふたりは小さくささやくような声で歌った。
「ここまで来ていうことではないのかもしれないけど、わたし確信してることがあるの」
「なにを」
「わたしきっとクロウの歌のほうがずっと好きだよ」
 そのとき突然、会場の明かりが一斉に消えた。同時に弦楽器のうなり声が低く響きだす。一瞬ざわついた場内もすぐに静まり、みな緞帳のかかる舞台に注目した。数人の足音がして、あいつはどこへ行った、見失ったかと聞こえてくる。あちらを探すぞとふたたび足音が行ってしまうと緞帳が照らし出され、そこへ息を切らしたスネイクがあらわれた。見るからに女物のコートを着て、つばの広い帽子をかぶっている。それらを脱いで足もとに叩きつけると真っ赤に塗った唇を乱暴に拭って舞台の脇へと走り去った。そうしてようやく緞帳があがった。
 スネイクが演じる少年は身寄りがなく、女のなりをして男を誘っては金を奪って生活していた。しかしある夜、男がふたり連れとは知らず声をかけて窮地に陥り、あやまってひとり殺してしまう。金を奪って無事に逃げたものの彼は住み慣れた街を離れる決断をする。やがて成人した主人公は盗んだ金を元手に商人となり、人から羨まれるほどの財を築いて育った街へ帰ってきた。男はさらなる成功を求めて盛大な舞踏会をひらく。
 それまで雨や風や雑踏を表現していた楽団の音色が、一転して軽やかで華やかなものになる。場内の壁際にはふたたび明かりが灯され、舞台と客席との境界が取り払われる。
「さあ! 心ゆくまで夜を踊りましょう!」
 スネイクの一声でわっと歓声があがり、劇場は一瞬にして舞踏場となった。はじめは戸惑っていた客も役者に手を引かれて熱狂へと誘われていく。クロウとリリィはすっかり空気にのまれて立ち尽くしていた。舞台には揃いの衣装の踊り子がいるだけでスネイクの姿はない。どこへ行ったのか辺りを見回していると、背後から肩をたたかれた。
「案外さまになってるじゃないか」
 視線を向けるまでもなく、スネイクの声だった。彼はクロウの横をすり抜けてリリィの前へ立つと片手をとり、紳士のように礼をして上目遣いに彼女を見上げた。
「お嬢さん、わたしと踊ってくれませんか」
 スネイクがリリィの手をどんなに軽く握っていたとしても、リリィにはそれを拒むことはできない。リリィは求められるままうなずいて、ふわふわと雲のうえを歩くように踊りの渦へと連れられていった。クロウはふたりの行方を目で追っていたがじき人にのまれて見えなくなった。
 湧き上がる熱狂のなかでクロウはひどい眩暈に襲われていた。壁際のソファに勢いよく腰をおろして、誰かの飲みさしを続けざまにあおる。もはやリリィがどこにいるかの見当もつかない。目を閉じるとまぶたの裏には光が漂った。ただ座っているのもわずらわしく、背もたれに体を預けたまま崩れるように横たわる。体が熱っぽく、特に目のまわりがもやもやとした。まばたきをするたび視界が震えて涙がこぼれそうになる。
 自分は一体なにをしにきたのかと、クロウは虚しく自問した。リリィがスネイクを想っていることも、その想いが強いことも、毎日彼女の横顔を見つめてきたクロウには自明のことだ。それなのに胸が苦しくて仕方がない。いま、彼女の前にはスネイクがいる。彼を見つめて、彼に求められるリリィの横顔はクロウには初めてで、まったく見知らぬ女に思えた。五年の歳月を嘲笑うようにスネイクはクロウが知らないリリィをいともたやすく引き出してしまったのだった。
 クロウはいつも歌うことで自由になった。父が誰かわからずとも、幼い時分に母に捨てられようとも、さみしさに囚われることはなかった。だがいまは歌うことがおそろしかった。そうやって自由になっても、ならなくても、クロウには絶望しか残らない。
 大きな拍手が沸き起こる。芝居の続きがはじまったようだった。クロウは懸命に目をあけて舞台を見ようとするが眠気が強くままならない。あたりは奇妙なほど静かで、ただ歌だけが聞こえてくる。スネイクの歌声は話すときよりいくらか高く透明感があった。心地よくて、まぶたがさらに重くなる。はじめて聞くはずなのに不思議と懐かしかった。クロウはスネイクに合わせて歌を口ずさもうとするがついぞ歌声にはならず、眠ったことにも気づかないような深い眠りに落ちていった。