午前四時のノクターン

04.置き去りの青と嘘

 頬に冷たい感触があって目をひらくと、真横にスネイクが立っていた。小ぶりな酒瓶を呷りながらクロウを見下ろしている。クロウはいま自分がどこにいるのか、なにをしていたのかもわからず、ただぼんやりとスネイクを見上げた。
「よく眠れたか」
 いつものスネイクの声だと感じて、クロウは彼の舞台を観に来ていたことを思い出す。
「なんか、頭ががんがんする」
「これ飲んだんだろ」
 スネイクはサイドテーブルに置いてあったグラスを指した。
「あー、うん、たぶん」
「強い酒だ。おまえにはまだはやいよ」
 広く薄暗い空間は魔法が解けたみたいにがらんとしていた。歓声や喝采の名残はない。劇場内にはクロウとスネイクだけで、リリィの姿も見当たらなかった。
 物語の世界から急に現実へと連れ戻されて、クロウはぼんやりと天井を眺めた。ずいぶんよく寝ていたらしい。
「話の結末ってどうなったんだ」
「寝てた自分を恨むんだな」
「けち」
「人から聞くくらいなら知らないほうがずっといいだろ。それよりほら」
 スネイクがなにかを投げてよこした。広げるとクロウが青蜥蜴館に置いてきた服だった。
「さっき旦那が持ってきた。いま着てるのはここに置いていっていいってさ」
「え、でも」
「甘えておけばいいよ。あとおまえのその帽子、それはプレゼントだって」
 スネイクはクロウへ向かって指をくいと曲げる。ここで着替えてしまえと言っていた。クロウはまだ重い体をのそのそと動かして慣れた自分の服へ着替える。そのあいだスネイクはソファに座って正面の舞台を見つめていた。なにを考えているのかクロウにはまったく想像がつかない。
 沈黙が気づまりで、急いでブーツの紐をほどく。紐と紐のこすれる音だけが響く。無性にいらついて、無性に喉が渇いた。クロウが寝ているあいだスネイクとリリィがどうしていたかなんて、考えても苦しくなるだけだとわかりながら、これ以上苦しくなりたくなくて答えがほしくなる。
 なぜリリィだったのか。それだけでもいいのに、それだけが聞けない。
 ブーツを紐で一括りにして、借りていた服を簡単にたたむ。スネイクはそれらを持ってソファから立った。
「劇場の外で待ってろ、呼んでくるよ」
 リリィのことだと言わなくてもわかる。それがスネイクとリリィの距離のせいなのか、それともクロウがリリィのことを考えていたからなのかは判然としなかった。
 クロウは遠ざかっていくスネイクの背中を見送りながら、自分たちにあてはまる言葉をさがした。知人と呼ぶには距離が近く、友人というほど心許せるわけではない。親代わりというにはあまりにも無責任なくせに、クロウが幼いころの失敗や笑い話については誰よりも詳しい。
 スネイクが置いていった酒瓶に口をつける。入っていたのは酒ではなくただのレモン水だった。さわやかな香りと苦みが沁みながら広がっていく。
 どんな名前の関係性を選んだとしても物足りないことが、いまのクロウには救いのように感じられた。

 劇場前の大きな柱にもたれて待っていると、かすかに話し声が聞こえた。近づいてくる。聞こうと思えば内容もわかりそうだったので、クロウは小声で歌を口ずさんで耳を塞いだ。しばらくして駆け寄ってきたリリィが隣に立つ。
「おはよ」
 すでにドレスは脱いで、青蜥蜴館へ行くときに着ていたブラウスとスカートに着替えていた。
 クロウはかぶっていた帽子を前へずらして顔を隠した。
「寝ちゃってごめん」
 手から帽子を奪われる。
「クロウと踊りたかったのに」
「だからごめんって」
「ゆるさないんだから」
 リリィは帽子をくるくると手で回して子どもみたいに無邪気に笑った。
「帰ろ、クロウ」
 劇場街のきらびやかな明かりはすでになく、道を照らすのは心細げに明滅する街灯だけで、狭い路地などは夜空のほうがずっと明るい。
 橋の向こうから、すこしぼやけた鐘の音がする。ひとつ、ふたつ……と数えて、いまが午前四時と知る。
 街には静寂が滲みはじめていた。大通りですら人通りはなく、風もなく、ここからでは川の流れも聞こえない。目に見える、手の届く範囲の世界すべてが夜明けを前にあたたかなまま凍りついてしまったようだった。動いているのは、見渡すかぎりでクロウとリリィのふたりしかいない。濃い夜が肺まで届いて息苦しくなる。
 クロウは自分の手を見おろした。なされるがままリリィに手を引かれていた。リリィの手は出会ったころと変わらず小さく、クロウの人差し指から小指までをまとめて握るので精いっぱいだった。一方クロウは出会ったころより背が伸びて、彼女のつむじを見おろせるようにもなった。うっかり隣に並んでしまうと胸もとのシャツの奥が見えそうになる。クロウは一歩うしろを歩きながら帽子を目深にかぶって顔をそらした。
「クロウはどうだった? お芝居」
「うん、舞台に立ってるのはたしかにスネイクなのに、話を追ってるとそれはもうスネイクじゃなくて、それがなんか不思議だった」
「クロウが言いたいことはわたしもわかる。彼は普段だってそうでしょ。はじめは姿がいいから役者さんなんだと思ったけど、そうじゃなくて。彼にはほんとも嘘もないの」
 妙に冷たい目をしてリリィはわずかに笑ったようだった。影が深く差し、近くにいても表情は夜にかすむ。
「彼はからっぽよ。なにも持たない。だからなんにでもなれる。王様にだって、人殺しにだって、なんだったらおんなにもなれる。だから誰でも愛することができるし、誰に裏切られたとしてもすこしも傷ついたりしない」
 あまりにも辛辣な言葉とただ冷たいばかりの声に驚き、クロウは思わず立ち止まった。構わず歩くリリィの手からクロウの手が離れそうになり、リリィもまた立ち止まる。
「クロウ?」
「ごめん、驚いて。スネイクとなにかあった? けんかでもした?」
「けんか……、うん、したかも」
「やっぱり。でも、だからってさすがに言いすぎ」
「ごめんなさい」
「まあどうせスネイクがひどいことしたんだろうけど」
「違うの、そうじゃなくて」
 繋いだ手を大きく揺らしてリリィは訴える。
「スネイクはあなたのことが大切だから。あなただけが彼の執着だから。それがわたしにはよくわかるから」
 リリィは唇をかるく噛んで眉を歪めて笑った。
「ああ、だめ。我慢できなくなっちゃう……」
 指をほどいて、リリィはひとり先に歩き出した。かすかに歌が聞こえてくる。聞き覚えのある歌だった。
「迷子だったわ……」
 リリィの声にそっと重ねる。そうしてみて、今夜の舞台で聴いたのだと気づいた。だがどんな場面だったかが思い出せない。歌だけが湧水のようにこんこんとあふれてくる。

 迷子だったわ
 わたしはいつだって
 行方もしれず夜をさまよい
 ひとりきりのダンスを
 あなたがいない世界の果てまで
 ゆくわ
 もういちど
 ただもう一度はじめるために

 道先でリリィは立ち止まっていた。うつむいたまま、じっと息をこらえている。泣いているのかもしれなかった。膝下丈のスカートと靴下のあいだでふくらはぎが青白く浮かびあがる。息苦しいほど満ちていた夜はいつしか飽和して空はかすかに白みはじめていた。もはや夜の闇ではない、けれど夜明けにはほど遠い群青のなかでクロウは立ち尽くす。
「リリィ」
「うそつき」
 それは彼女がスネイクのことを「彼」と呼ぶときのあの甘い声だった。
「寝ていたなんて。うそばっかり」
 いまにも泣きだしそうにリリィは笑っていた。嘘つきはリリィのほうだという言葉をクロウは飲みこむ。涙を見せまいとこらえるリリィは健気で、かなしくて愛しい。
 いつか、彼女のすべてを守れるくらい大人になったなら、嘘も涙も引っくるめて抱きしめたいと思う。それが半年後か、一年後か、十年後かはわからないけれど。
 クロウは先をゆくリリィの輪郭を目に焼きつける。
 そのときの夜と青をクロウはずっと忘れない。