午前四時のノクターン

05.夜を想う

 浅い眠りから諦めるようにして目覚める。
 息を止めたまま眠っていたのかと疑うほど胸が苦しい。眠る前から続く悔しさがいまもまだ体中を蝕んでいる。クロウは荒い呼吸を繰り返して両手で顔を覆った。
 帝演から誘われたのは初夏だった。何度かの交渉を経て契約に至り、灰猫歌劇場での最終公演を盛大に行い、晩秋、一区へ移ってきた。いまはスネイクとウィルの三人で暮らしている。
 ヘヴンでの大所帯しか知らないクロウにとって、少人数での暮らしは拍子抜けするほど静かなものだった。誰かのシャツを勝手に着てもけんかにならないし、風呂の順番で揉めることもない。散らかしたところでたかがしれているし、手の空いてる人が片付ければいいという。スネイクとウィルがクロウよりずっと大人で、どちらも身の回りのことをそつなくこなすこともあるだろう。はじめこそ緊張したものの、ほんの半月ほどですっかり馴染んでしまった。もはやむかしの生活には戻れそうにない。それでもときおり女たちとの賑やかな日々が懐かしく思い出されることもあった。クロウは彼女たちの息子であり、弟であり、恋人だった。
 暗いなかを手さぐりで起き出してキッチンで湯を沸かす。沸騰するまでのあいだ、対のソファで眠るスネイクとウィルの寝顔を眺めた。穏やかな寝息を繰り返すウィルと違ってスネイクは死んだように静かに眠る。毛布をしっかり被っているのに寒そうに体を丸めていた。起きているときと比べて表情に乏しく、整った顔立ちもあいまって作り物めいていた。
 テーブルに残っていた飲みさしの酒を紅茶に垂らし、山積みの台本と楽譜を抱えて部屋へ戻る。灯した明かりを窓辺に置いて椅子にかけた。膝の上にのせた台本を無造作にひらくと、それはかつてただ一度リリィと観劇にいった物語だった。目を閉じればいまでもあの日のリリィと夜と青を思い浮かべることができる。昨日のことのように鮮明に。
 クロウは芝居の途中で寝てしまったことを思い出し、舞踏会よりあとの場面を読み進めた。
 ある女性と結婚した男は子どもに恵まれ、新たに手がけた事業も成功していた。しかし物事が順調であればあるほど男は不安を募らせ、やがてかつての夢を繰り返し見るようになった。夢をおそれるあまり眠ることができなくなり、酒に溺れ、食べることや笑うこともわからなくなる。あれは事故だったと何度自分に言い聞かせても、いのちと幸福の手ざわりを知ってしまった男は罪悪感の虜囚となった。追い詰められるうち正気を失った彼は錯乱して妻と子を絞め殺し、仕事も財産もなにもかもを捨てて路傍へ帰る。そしてある雨の夜、殺した男の息子に襲われ命を落とすのだった。
 悲劇的な終幕にクロウは目を閉ざした。
 いのちまでも失うことになる物語の主人公と夢破れて十七区へ戻ってきたスネイクが重なって見えて、クロウはたまらない気持ちになる。
 クロウは部屋の隅の、明かりが届かない暗がりを見つめた。そこには数時間前クロウが投げ捨てた楽譜がある。拾いあげて明かりのそばで広げると悔しさがよみがえって喉を締めつけた。
 昨日、帝演の稽古にはじめて参加をした。噂の姫王子が歌うとあって別の稽古場にいた作曲家や役者たちも多く集まった。渡されたのは古典劇の台本と楽譜で、演出家はこのくらい知っているだろうとせせら笑った。
 古典劇は難解な言葉遣いが多く、娯楽性を重視する十七区では好まれなかった。クロウは当然その演目を聞いたことも見たこともない。これまでの二年の活動のなかで創作劇しか知らないことは事前の話し合いでスネイクが伝えていると聞いていた。古典を知らないということは歌や芝居の基礎を知らないということでもある。それでも帝演はクロウに来てほしいと言ったのだ。
 この演目はクロウに対する明らかな挑発で辱めだった。
 部屋の隅にいたウィルが出てこようとするのを視線で押しとどめた。いつもは穏やかな男が珍しく頬をこわばらせていたから、彼のことも深く傷つけてしまっただろうと思うと悔しくて情けなかった。
 演出家は稽古場にいたもう一人の役者をクロウの横に立たせてふたりで本読みをするよう言った。ガラス玉のように青い目をして、背が高く手足の長い女だった。彼女はクロウを一瞥したあと短く息を吸って、部屋の隅にまで届く静かな声で台詞を紡ぎはじめた。慌てて台本をひらくも古い文語体で書かれた見慣れない言葉ばかりで追いつかない。女の細い指が一行を指して教えてくれても読み方がわからない。女は奏でられるピアノにあわせて歌った。彼女の深みのある声がよく似合う鎮魂歌だった。
 クロウは楽譜が一切読めない。だが耳がいい。一度聞いた音楽は忘れない。
 ぬるくなった紅茶を飲み干してクロウはふわりと立ちあがる。深い夜の底で部屋はすっかり冷えきっていた。吐く息はほんのりと白い。そこへ歌を染み込ませる。

 友よ
 おなじいのちを分けあった兄弟よ
 ぼくたちの道に降り積もった清新は
 一面の銀世界にも劣りはしない
 願わくはきみとの夢を明日もまた
 すべては喪失の夜と寄る辺なき朝の
 そのあわいの露まぼろしと
 わるいことはなにも
 なにも……

 クロウは息継ぎをして、けれどもそこで歌を閉ざした。ドアのそばに人の気配がある。
「なんだ、もう終わりか」
 腕を組み、壁にもたれかかりながら、彼はすこし笑ったようだった。
「スネイク……」
 クロウの鋭い視線を軽やかにかわしてスネイクは断りもなく部屋へ入る。クロウを追い越すと窓辺に置いてあった紅茶を飲んだ。
「おまえ、おれの酒を勝手に使ったな」
 あれは結構高いんだぞと笑うので、クロウは彼の手からカップを奪い取った。
「他にいうことがあるだろう」
 真正面から睨みつけるとスネイクはふいと顔をそらして、足もとの台本を拾った。
「おいスネイク、話を聞けよ」
「どうせ泣き言をいうだけだろう? くだらない。それならおまえの歌を聞かせてくれよ」
 スネイクは拾った台本をひらいてクロウへ渡した。それはさきほどテーブルから持ってきた、かつてスネイクが書き、演じた台本だ。
「誰だおまえ」
 その声はスネイクのものでありながらスネイクではなかった。すぐに台本の台詞なのだと気づく。クロウは渡された台本に目を落とす。インクの掠れた文字は、言葉として認識するよりはやく声となって現れる。
「この顔に覚えがあるはずだ」
 ト書きに従いスネイクとの距離を詰める。
「覚えがないとは言わせない」
「おまえ、まさか。いやでも、だってあの男はおれが……」
「そうだ。おまえが殺した」
 クロウはスネイクの胸ぐらを掴んで、床とベッドを見比べてからベッドのほうへ押し倒した。
「おれは息子だ」
 スネイクの上に馬乗りになったクロウは体をかがめて、ぐっと顔を近づけた。
「よく見ろ。これが、おまえが殺した男の顔だ」
「やめてくれ……、あのときは、あのときはああするしか仕方なかったんだ」
「殺すしか仕方がないような、そんな状況があるものか」
「ふたりがかりで押さえつけられたんじゃあ、どうしようもないだろう……? やらなきゃ、おれが殺されるところだった」
 縋りついてくるスネイクの手を払いのけてクロウは殴るふりをする。
「醜い言い逃れだな。それなら金を盗む間は惜しまなかったのか。……結局おまえはただ無力で卑しい人間だ。自分の行いを認めることすらできないなんて救いがたい。仕方がなかったというならば、すぐに出頭すべきだった。罪を認め、贖う。それができない限りおまえは誰に殺されても文句をいえる立場にはない」
 クロウはスネイクの首を両手でふわりと掴んだ。
「つまりおまえにおれの行為を咎めることはできない」
「なに、を……」
 スネイクはもがく手つきをしながらクロウの手に手を重ね、クロウの手もろともみずからの喉をきつく絞めはじめた。手を圧迫される痛みと、手のひらに張りつくような喉のやわらかさが怖ろしく、クロウはたまらず息をもらした。
「スネイク……」
「ト書きにあるとおりにやれ」
「でも」
「おれに苛ついてたんじゃないのか。ウィルから聞いたよ。古典を渡されて話が違うと思ったろ」
 スネイクの手にさらに力がこもる。クロウは痛みに顔を歪めた。
「やめてくれ、スネイク」
「おれが嘘をついたと思ったか」
 スネイクの声は息苦しそうに掠れていた。クロウが黙っているとスネイクは楽しそうに目を細める。
「思ったらしいな」
「嘘とは思ってない。ただ、話は通ってるはずなのにって」
「おなじことだろ。まあ、そもそも話なんて通してないけどな」
「なんだって?」
 クロウは力任せにスネイクの手を振りほどき、胸ぐらを掴んで引っ張りあげた。
「どういうことだスネイク」
「満たされて行き届いた世界なんて、つまらないだけだろう?」
「なんの話だ」
「満たされなくて、思い通りにならなくて、だけど手に入れたくてもがいて。そのほうがおまえの歌は生きる。おそらく帝演のやつらはそれを否定するだろう。芸術性が低いというだろう。それはいまだけだ。おまえが楽譜を読めるようになって、音楽に忠実になったとき、あいつらはかならずおまえの歌の前にひざまずく」
「また適当なこと言って……」
 呆れたクロウは持っていた台本を投げつけてスネイクの上からおりた。だが音楽に忠実にというスネイクの言葉は気になった。昼間稽古場にいた背の高い女を思い出す。地に足のついた、安定感のある歌声は、聞いていて心地よかった。
 クロウが望むと望まざるとにかかわらず人はクロウを十七区の象徴として見るだろう。自分が至らないばかりに十七区の文化まで貶められることだけは絶対に避けたかった。また、灰猫歌劇場へ通ってくれた客につまらない歌うたいになったと失望されたくもなかった。このままでは十七区へ帰る道もない。
「だったらスネイク、明日からでも楽譜のことを教えてくれよ」
「は? なんでおれが」
「はあ? じゃあどうしろと……」
 安心しろ、と頬を強くつねられる。
「とっておきの先生を用意してある。楽しみにしておけ」
 ひらひらと手を振ってスネイクは寝床へ戻っていった。歌が聞こえてくる。先ほどの芝居の最後の曲だ。スネイクの歌声はどこか乾いていて懐かしく、ベッドへ体を横たえると眠気で溶けてしまいそうになる。クロウはそっと目を閉じた。
 聖堂の鐘が鳴る。午前四時の鐘だった。
 この部屋が込み入った路地にあるせいだろう。鐘の音は散り散りに濁って聞こえる。聖堂に近いところで暮らしているはずなのに、ヘヴンにいたころよりずっと遠く感じられた。
 瞼の裏には風のように思い出たちがよぎった。夢はもう見なかった。