午前四時のノクターン

06.光は音、音は雪

 ひと呼吸ののち、部屋の呼び鈴を鳴らす音で目が覚める。こんな早くにと思ったが窓から外を覗くと街はすっかり動きだしていた。
 ベッドから起き出してソファを見やるが、ウィルとスネイクの姿はなかった。そのあいだも呼び鈴はしつこく鳴らされ続けている。誰と呼びかけても返事がない。クロウは起き抜けの姿のままドアを開けた。
「あんまり出てこないから呼び鈴が壊れてるのかと思った」
 顔をあわせるなり仏頂面でそう言ったのは、稽古場にいた背の高い女だった。踵のあるブーツを履いているとはいえ視線の高さがクロウとほとんど変わらない。彼女はクロウを上から下まで眺めてため息をついた。
「もう昼よ。姫王子ってずいぶんだらしないのね」
「ゆうべ遅かったんだよ」
「不規則な生活は声にも肌にも体力にも悪い影響しかない。その乱れを修正するためにかける労力なんて無駄。それとも姫王子はぱぱっとどうにかできる魔法でも使えるの?」
「その……姫王子っていうのやめろ」
 女は何度かまばたきをしてから、きまり悪そうに口をとがらせた。
「なら、なんて呼べばいいの」
「クロウ。そっちは」
「サラ」
 名乗る声はよく澄んだ静かな湖のようで、クロウは彼女の心地いい歌声を思い出していた。
「それで、サラはなにをしにここへ?」
「子どものころからお世話になってる先生を通して、あなたの連れから頼まれたの。あなたに楽譜や音楽の基礎を教えてやってほしいって」
 昨夜のスネイクの言葉を思い出す。
「ああ、きみが」
「聞いてるなら話がはやいわ。とりあえずこれを読んでおいて」
 サラは手に提げていた鞄をクロウへ突きつけた。受け取るとずっしりと重い。なかには物々しいタイトルの分厚い本が何冊も入っていた。
「えっと……」
「それだけ読めば猿でもわかるから。じゃあ」
「待った、待った待った」
 クロウは立ち去ろうとするサラの前へ回り込んだ。サラはなかば睨むようにクロウを見つめ返す。
「まだなにか?」
「とりあえず立ち話も悪いし、うち上がってよ」
「男のひとり暮らしの部屋になんて嫌」
「ひとりじゃなくて三人暮らし」
「……家族と?」
「いや、他人同士の男ばっかり」
「無理!」
 サラはひとつに束ねた長い髪を翻してクロウの脇をすり抜けていってしまう。
「サラはその先生からこうしろって言われた?」
 クロウは階段をおりようとする彼女の背中に向かって言った。
 渡された本のタイトルは古語で書かれていた。最終的には読めるようになるのが目標だが、それははたしていまなのだろうか。
「おれは学校へ行ったことがない。それでもどうにか読み書きができるのはうちで働いてた人が教えてくれたから。学校ではみんなはこうやって勉強してるのかもしれないけど、いきなり本だけ渡されてもおれにはどうすればいいのかわからない」
 階段のなかばでサラは立ち止まる。
「同情しろって話?」
「そうは言ってない。おれはいまきみのやり方が正しいのかどうかと、このことについて交渉する相手は誰なのかを見極めようとしてる」
 しばらく押し黙ったまま背を向けていたサラだったが、クロウのもとまで階段をあがってきて鞄を奪い返した。
「先生には自分がしてもらったようにと言われた」
「それはこういうことなの?」
「ちがう! 先生はこんなことしない」
 思わず声を荒げたサラは、深呼吸をしてから観念したように口をひらいた。
「昨日、稽古場に残ってひとりで歌ってたでしょ。ごめんなさい、外で立ち聞きしてた」
「別にいいけど……」
「わたし、あなたが許せないの」
 昨日はじめて会ったばかりの、ついさっきまで名前すら知らなかった相手からそこまで憎まれる覚えはクロウにはない。
「アカデミーも出ないで帝演へ来るなんてありえない。わたしがここまで来るのにどれだけ努力したか。友達と学校帰りにおしゃべりしたり、旅行したりするのも我慢して、家族からたくさん援助をしてもらって、そうやってようやくたどり着けた場所なの。それなのに、古語も楽譜も読めない、なにも知らないあなたが姫王子なんてもてはやされて……」
 サラはほのかに色づく下唇を噛んだ。
「くやしかった」
 言葉にしても足りない思いが吐息になってこぼれてくる。
「あなたの歌を聞いた瞬間、嵐のなかに放り込まれたみたいだった。逃げ出したいのに、もうこわいくらいなのに、どうしても足が動かなかった。もっと、もっと聴いていたいって」
 クロウは昨夜の寝苦しいほどの悔しさを思い返す。
「おれも……、おれも昨日悔しかった。楽譜のことがなにもわからなくても、きみの歌の正しさは伝わってきたから。自分の歌がいかにいい加減なのか思い知らされた。だから知りたい、教えてほしい」
 頭を下げてじっとサラの返事を待つ。視界には両手で鞄を持つサラの白い手があった。その指にぎゅっと力がこもる。
「誰かに教えた経験なんてないけど、たぶんわたし厳しいと思う。それでも平気?」
「大丈夫」
「一度でも弱音を吐いたらそれきりだから」
「わかった」
「ほんとに?」
 サラがしゃがんでクロウの顔をのぞきこんでくる。クロウはそのままの体勢でサラに微笑んだ。
「おれ約束は守るほうだよ」
「守る、ほう?」
「……守るよ」
「よし、じゃあこれはあなたが持ってること」
 サラは鞄をもう一度クロウへと差し出した。
「これはクロウの目標。アカデミーでは二年生からはじめることだけど、わたしたちは半年でたどり着こう。他の人とおなじだけの時間をかけてる余裕はないんだから」
「はい、先生」
 クロウは鞄を受け取った。中身が変わっているはずもないのに、先ほどよりもずしりと重くなっているように感じられた。
 サラは涼しげな眼差しを細める。
「そうと決まればクロウ、さっそくいまからはじめよう。一分一秒でも時間は惜しいんだから、はやく仕度してきて」
「ここじゃだめなのか」
「だめ」
「じゃあ、どこへ」
「鍵盤のあるところ。とっておきの場所があるから、特別に連れていってあげる」
 サラはクロウの仕度を待つことなく、もう歩き出してしまう。
「聞かせてクロウ、あなたの歌を」
 階段の向こうへ消えていくサラのうしろ姿を見送りながら、クロウは胸にあふれる懐かしさに戸惑っていた。
『ねえクロウ、歌って』
 懐かしさは痛みにも似ていた。シャツの胸もとを握り締めてぐっとこらえる。奥にはたしかな喜びもあった。歌ってと乞われる喜びは一度知ってしまったら忘れられない。
 サラの足音がすっかり聞こえなくなる。クロウは鞄を置いてコートを引っ掴んでサラを追いかけた。
 薄暗いアパートを出て真昼の街路へ。空からは砕けた鐘の音が雪のように降ってくる。石畳の道先でサラが待っている。
 次の幕が、あがる。

おわり