いつかの花(6)

 無人の部屋は小さなテレビがついたままになっていた。ショッピングモールでのイベントをアイドルと芸人のリポーターがにぎやかに紹介している。ぼんやり眺めていると部屋の静けさばかりが気になった。画面に表示されたデジタル時計は午後三時を過ぎていた。
 座卓にはスーパーマーケットの白い袋がきれいに折りたたんで置かれていた。断罪が部屋を出たときにはなかったものだ。その下にはレシートがある。じゃがいも、たまねぎ、にんじん、とりにく、カレールー。キッチンを覗くと隅には野菜が、冷蔵庫には鶏肉が入っていた。ルーは裏向けになって流し台の脇に立てかけられて、ガスコンロの上には湯を張った鍋が置かれていた。
 荷物がここにあるということは、一度戻って、ふたたび出かけたことになる。湯の熱さから、それほど前のことではない。
 消し忘れたテレビの音が届く。
「それではもう一度中継を呼んでみましょうか。おふたりはいま、どちらにいますかー」
「はーい、先ほど上から見ていた場所へ降りてまいりました。今日はこちらで開催中のイベントにお邪魔しております! 暑い暑い真夏でも、こんなに色々なお花が咲くんですねー。わたし、知りませんでした!」
「でもやっぱりいちばん人気は、夏の花の代表ひまわり。というわけで、ふたたびガーデン広場へ戻ることにしましょうか」
「そうですね! 見ていると本当に元気になれます!」
 断罪はテレビを消すため部屋へ戻り、リモコンを持った手をふと止めた。
『お母さんが夏生まれだったら、大好きなひまわりあげるのにな』
 紹介されているショッピングモールへ沙々奈と出かけた日のことが思い出された。母の誕生日プレゼントを買いに行ったもののなかなか決まらず、投げやりに沙々奈が言ったのだった。
「じゃあ、花にするか? ひまわりくらい温室のがあるだろ」
「えー。ひまわりは夏に咲いてるのを見るからいいんだよ。こんな肌寒い日にもらったって嬉しくないし」
「どっちなんだよ」
「だからお母さんの誕生日が夏だったら解決するの」
「そんなこと言ってもしょうがないだろ。もう、さっきのスカーフでいいんじゃないか」
「ねえ、おにぃ。わたしアイス食べたい」
 カフェを指差し沙々奈が目を輝かせる。
「話をそらすな」
「かわいい妹が食べたいといっている」
「ダイエットするって言ってなかったか」
「そんなの明日からするし」
「夏でもないのにアイスなあ」
「アイスは年中無休です! おごってよー、おにぃさまー」
 カフェでアイスを買ったあと、広場で着ぐるみと出会い、係員に写真を撮ってもらった。それが昨夜、沙々奈に見せた写真だ。
「ご覧ください皆さん! ガーデン広場を埋め尽くす、たくさんのひまわりを!」
 断罪はテレビを消せないまま立ち尽くした。
 小さな画面いっぱいに、溢れんばかりのひまわりが映し出された。刺すような日差しのなか、凛と背を伸ばして空を仰いでいる。いつだったか、都々がまだ子どものころにも同じような景色を見た気がした。それは都々の記憶ではなく、失われたはずの断罪の記憶かもしれない。その区別が曖昧になるほど胸に込み上げた懐かしさは真に迫って息苦しいものだった。
「平日にもかかわらず、たくさんの方がいらっしゃってます。カップルやご家族連れの方が目立ちま――」
 テレビを切ろうとすると、画面の端に沙々奈らしき姿が見えた。あっと思った瞬間に電源ボタンを押してしまう。慌ててすぐに付け直す。
「……の催しは来週いっぱいまで開催されています。どうぞ皆さん、夏の元気に会いにきてくださいね。以上、ガーデン広場から中継でした!」
 隅から隅まで目を走らせるが、マイクを持ったふたりのほかは花しか映っていない。気のせいだったのか。冷静になって考えれば、この部屋がどこにあるのかすらわからない沙々奈に、広場まで行けるはずもない。断罪は自分の必死さを鼻で笑って、ふたたびテレビを消した。
 空は青いペンキを撒いたように曇りなく、奥行きや高さまでも失っていた。東向きのベランダは日陰になっていたが、息詰まるような暑さには容赦がない。
 首へ伝う汗をシャツで拭う。それでも不快感は消えない。手のひらに貼った絆創膏は血と汗で剥がれそうになり、指先や腕には女のにおいとラメが張りついていた。
 扇風機の風にあたりながら、ぐったりと壁にもたれかかる。
 体が妙に重かった。暑さのせいだけではない。身に覚えのない感情が、汗と倦怠感となってまとわりついていた。
 ずるずると壁からずり落ちてフローリングに横たわる。自分の呼吸が近かった。鼓動は床に響いて波紋のように広がっていく。
 瞼を下ろすと、目の熱さに気づいた。生理的な涙で濡れていく。ふたたび目を開けると、部屋のなかが歪んで見えた。
 この半日、都々の振りをして、都々の生きる世界に触れたことで、何かがずれはじめていた。これではまるで、まっとうに生きているようだ。
 考える時間があるというのは酷なことだった。いつもなら罪過を見つけだし殺すことを考えるばかりで、宿主や自分のいのちの在りようへ思いを馳せることなどなかった。何も考えずにいたいのに、言葉になりきらない思考が蛇のように音もなく忍び寄ってくる。断罪はたまらなくなって、逃げるように眠りに落ちた。死のように深い眠りだった。
 肩の痛みで目が覚める。フローリングは自らの汗でじっとりとしていた。部屋はぼんやり薄暗くなり、視界が霞んだ。沙々奈が帰ってきた様子はなかった。
 時計代わりのテレビをつけると二時間ほどが経っていた。どのチャンネルも今日のニュースと明日の天気を放送している。明日も暑くなるらしい。
 座卓の下に放り込んだままのビニール袋が、浮きのように暗がりに漂っていた。壊れた携帯電話が透けている。
 昨晩沙々奈は写真の残る携帯電話を握りしめて離さなかった。あの一枚だけが沙々奈の過去と現在を繋ぐ唯一のものなのだ。
 一切の記憶を持たず、自分が誰であるかもわからない。それは断罪も同じだ。はたしていつから自分が在るのか、どんな名で呼ばれ、何を見て何を感じて生きていたのかわからない。
 断罪にはわかる。沙々奈があのテレビ中継を見ていたなら、確かめようとしたはずだ。いま生きている、この目で。
 ぬるくなった水を飲み干し、断罪は部屋を出た。風が吹き抜けて、汗をかいた肌に心地よい。
 昼と夜のあわいで、空は万華鏡のように刻々と色を変えた。どこからか、ちらほらと蝉の鳴き声が聞こえてくる。
 街には早くも夜の明かりが灯りはじめていた。人の手によって作られた明かりは嘘や弱さを片隅に隠してくれる。自分が誰であろうと、生きていようと、死んでいようと、この色とりどりの明かりのもとでは等しかった。断罪は先ほど口にした水が体の隅々に行き渡っているのを感じた。
 宿主と馴染む恐ろしさは消えない。だがなおも抗い続けるには、命はあまりにも快かった。
 ショッピングモールにはまだテレビ中継の一団がおり、野次馬が周りを取り囲んでいた。断罪はなかへ入らず、段々畑のように広がる庭園の階段を上がった。写真を撮ってもらった最上階のガーデン広場を目指す。
 ビル風が強く、シャツは翼のようにばたばたとはためいた。ほの赤い明かりに包まれて、景色が膨張する。ひとつ階段を上がるごとに、違う世界へと踏み込むようだった。
 ガーデン広場は宣伝効果もあって賑わっていた。特にひまわりの周辺は写真を撮る人が絶えない。断罪はそこで沙々奈を捜した。
「迷子さんですか」
 スタッフ章をつけた男が首をかしげた。断罪はとっさに否定する。
「いや、連れとはぐれてしまって」
「子どもさんではなく?」
「あ、はい」
「えーっと、特徴などは……」
 男は言外に、子どもじゃないなら携帯電話で連絡を取れと言いたげだった。断罪はすみません大丈夫ですと頭を下げて、その場を離れた。
 花壇を貫くゆるやかな階段を上がり、広場を見下ろす。黄昏どきで定かではないが、沙々奈の姿は見つけられなかった。
 もうここにはいないのかもしれない。入れ違いに部屋に戻っているかもしれない。そもそもはじめからここにいるかどうかもわからない。どこか遠い場所へ行ってしまったのかもしれない。
 日陰だった場所に、ビルのきわから光の矢が放たれる。太陽が建物の隙間から顔を覗かせていた。それはまるで神の指先のようだった。額に手をかざし、目を細め、導かれるように光を追う。断罪はその先に東屋を見つけた。
 確証はない。それでも断罪には確信があった。
 近づくにつれ逆光で塗り潰されていた景色が紐解かれていく。断罪はそこに沙々奈の後ろ姿を見つけた。彼女は木製のベンチに膝を抱えて座り、暮れなずむ街を見つめていた。
「沙々奈」
 呼びかけると沙々奈は驚いて振り返った。
「都々さん……」
 表情は夕景にのまれてわからない。断罪はベンチを指差した。
「隣、いいか」
「あ、はい」
 沙々奈は足を下ろして横へ寄った。腕が触れないよう距離をあけて座る。肌に張りついていた汗が一気に乾いていく。断罪は大きく息をついた。
「諦めるところだった」
「あの、なんでここが」
「なんで、って」
 テレビがついていたから。そのテレビに沙々奈が映ったから。昨日ここの写真を見せたから。どれも正しいが、何かが足りない。
 体の奥で、都々の命が脈打っていた。それは断罪のいのちでもあった。共鳴にはほど遠い。残響のような、それぞれの波紋が消える間際にぶつかってはじけるような、そんな響きだった。
 目の前に立てられた柵の向こうを、真っ赤に染まった風船が空に吸い込まれるように飛んでいく。
 断罪は思い浮かんだ答えがおかしくて笑った。
「兄妹、だからだよ」
「きょうだい……」
「ああ」
 断罪は顔を伏せてまた笑った。心地よかった。
「おかしく、ないですよ」
 涙目の沙々奈は鼻声で呟く。
「なんか思い出せたか」
 沙々奈はきつく目を閉じて首を振った。
「テレビでここを見たときにすぐわかりました。昨日見せてもらった写真の場所だって。そしたら、もう、居ても立ってもいられなくて来たんです、けど……、けど、やっぱりわたしのなかにはなにもなくて。それを思い知らされるばっかりで」
 きれいに手入れされた小さな爪に、涙がぽとりと落ちた。
「でも、都々さんが笑ってくれたなら、もうそれでいい気もしてきました」
 顔を上げ、沙々奈は泣きながら笑った。
「都々さん昨日からずっと怒ってましたもんね」
「怒ってないよ」
「いいえ、ずっとこわい顔してました」
 沙々奈は涙を拭って、まなじりを指先で吊り上げた。
「そんな顔してないし」
「また笑ってくださいね」
「頼まれてできることじゃない」
「じゃあまたなにも言わずに家出します」
「するなばか」
「都々さん」
「なに」
「お兄ちゃんって呼んでもいいですか」
 沙々奈は期待に満ちた目をする。断罪は眉間にしわを寄せた。
「はあ……、まあ好きにすれば」
「お兄ちゃーん!」
 すぐそばにいるにもかかわらず沙々奈は声を張り上げた。近くにいたカップルが迷惑そうにこちらを睨む。断罪は沙々奈の頭をはたいて、先に東屋を離れた。首の後ろがくすぐったい。何度も手のひらでこすりながら階段を下りていると、横に並んだ沙々奈が顔を覗かせてにんまりと笑った。
「顔赤いですよ」
「うるさい」
「たくさん泣いて笑ったら、おなかすきました。はやく帰りましょう」
「そういや、おまえ家で何作ろうとしてたんだ」
「え、カレーですけど」
「本気で?」
「どういうことですか」
「だって、カレーにお湯はいらないだろ」
「えっ?」
「え……」
 花壇の淡い花はいつかも見た花のように、風に吹かれて揺れていた。