夕立はアスファルトをはじいて(3)

 洗濯が終わると一度アパートへ戻って、沙々奈は服を着替えた。
「変じゃない?」
 死んだあの日以来の花柄のワンピースだった。断罪は折れた裾をそっとなおしてやり、ふたたび部屋を出た。るりと落ち合い、駅からほど近いファミレスに決める。
 席につくまで沙々奈とるりは軽く会釈をしただけだった。注文を終えてドリンクバーで飲み物を用意してから断罪はるりを紹介した。
「今日決まったバイト先の雛山るりさん」
「はじめまして柚木沙々奈です。お兄ちゃんのこと、よろしくお願いします」
 頭を下げる沙々奈の真向かいで、るりは複雑な笑顔を浮かべた。説明してくれと言いたげな視線を受け、断罪は仕方なく口をひらく。
「沙々奈、彼女はおまえの大学の友達でもあるんだ」
「え」
 沙々奈はあらためてるりを見つめて、やがてうなだれて小さくなった。
「ごめんなさい、わたし、いまなにも……」
「都々さんから事情は聞いた。大変なことになってたのに何も知らなくて、わたしのほうこそごめんね。そんなに沙々奈が悩んでたなんて……、そこまでだなんて思ってなかったから。わたし、ちゃんと沙々奈の話を聞けてなかったんだよね。ほんとごめん」
 沙々奈はうつむいて、すっかり黙り込んでしまった。るりは悲痛さをこらえるように声を絞り出す。
「ねえ沙々奈、こういうことになってしまったけど、悪いことばかりじゃないとわたしは思うよ」
 ティースプーンで紅茶をかきまぜながら、るりは何もかも見透かしたような目をする。
「だって何もかも忘れちゃったってことは、あのバイトももう行ってないんだよね」
「バイト?」
 都々の記憶にはないことだ。るりは静かにうなずいた。
「はい。都々さんだけじゃなく、たぶんお母さんも知らなかったと思います。沙々奈、今年の春休みくらいからバイトしてたんです、ガールズバーで」
 自覚のない優越感が、るりの口をなめらかにした。
「遅くまでお店に入るときは、いつもわたしの部屋にお泊まりってことになってました。そういうの嫌だったんですけど、沙々奈にどうしてもって言われると断りづらかったし、実家の連絡先とかわからないからお母さんに伝えようがなくて。何度か都々さんに言おうかとも思ったんです。ただ、いざとなるとやっぱり沙々奈を裏切れなくて……。たしかに普通のバイトするより稼げるのかもしれないけど、働くようになってから授業休むようになって、来てもすぐに誰かの車でどこか行っちゃうし、どんどん派手になっていくから、すごく不安でした」
「そうだったんだ」
 断罪にとっては意外なことではなかった。
 沙々奈の急激な変化は都々も気づいていた。るりが言うような服や化粧だけでなく、急にはしゃいだり、自棄になったり、ときおりひどく冷たい目をしたりした。それは自分をどこまでも傷つけて、殺そうとしているようでもあった。死んでいなければ生きていけない、息もできないような場所にいるのだと言わんばかりに。
 そこまで察しながらそのままにした都々を、断罪は冷ややかに見つめる。妹のことを思うなら、気づいて、突き放すべきだった。その先の人生もただの兄妹として生きていくなら。
 断罪はるりが期待するような驚きを見せてやることなく、他人事のように呟く。
「全然知らなかった」
「わたしには都々さんのおうちのことはわからないし、赤の他人のくせに出すぎだってわかってますけど、沙々奈にそんな仕事をさせなきゃならないような状況なんですか」
「稼ぐだけが目的なら、もっといい仕事はあるよね。なにも厭わないなら」
 沙々奈が何のために働いていたのか。断罪には理解してやる義理もないが、少なくとも金のためだけではないように思う。誰もが憧れるブランドバッグを持って、雑誌から出てきたような服を着て、髪から爪先まで抜かりなく手入れをして、そうするために働いて満たされていたなら、はたしてあんな死に顔をするだろうか。あのとき断罪の指を濡らしたのは、たぶん涙だった。
「だったらどうして……」
 ティーカップを両手で包み込み、るりは声を落とす。断罪はソファの背もたれに体を預けてゆったりと腕を組んだ。
「わからない?」
「お金以外でそんな仕事をする意味なんて、わかんないです」
「なら、君にはもう首を突っ込む資格なんてないんじゃない」
 るりの指先が震える。断罪はそれを無視して続けた。
「どんなに好きで、どんなに仲が良くても、どうしてもわからないことはある。おれはそれを責めはしない。だけどわからないものまでわかった振りをして語るのは、ただのエゴじゃないのか」
 暑さのせいにしていた苛立ちが一瞬で立ち消える。けれど爽快感はすぐに虚しさに変わっていった。
「お待たせいたしましたー」
 沈黙を無遠慮に破って、店員が料理を運んでくる。
「夏野菜と生ハムのパスタと、鮭とほうれん草のドリアになりますー。器のほう大変熱くなっておりますのでお気をつけください。デミバーグのライスセットはもうしばらくお待ちくださいませー」
 決め台詞のように軽やかに言い放って、店員は下がっていった。
 沙々奈もるりも、料理を前にしながら食べようとしない。断罪はカトラリーの入った編みかごをふたりのあいだへ押しやった。
「都々さんに言われたくないです」
 るりはテーブルを睨みつけて呟いた。
「都々さんこそ沙々奈の何をわかってるって言うんですか。何も知らないで、どうして……、どうしてそんなに無神経でいられるんですか!」
「それはさっき店でしてた話と関係ある?」
「そうです」
「そのことで君に相談を?」
「……いいえ、はっきりしたことは何も。でもきっとそれだけ深刻な話だから」
「じゃあ、確かなことじゃないだろう」
「え?」
 飲まれないまま冷めてしまった紅茶が揺れる。
「どういうことですか」
 るりは掠れた声を絞りだす。
「都々さん、もしかしてわかって……」
 断罪は何も言わない。しかしるりをまっすぐ見つめて黙ることは肯定にほかならなかった。
「嘘、ついたんですか」
「おれがなにを言っても、君は君が見ているものしか信じないだろう」
「わたしに話を合わせたってことですか。だけど、だからって嘘をつくなんて」
 断罪はいつしか氷だけになったグラスをストローでかきまぜる。るりは下唇を噛んで、顔をそらした。
「そんな、ひどい……」
「ひどい、だって? プライドを傷つけられたって正直に言えばいいのに」
「どうしてわたしがそんなふうに言われなきゃならないんですか」
 いちいち答えるのも億劫で断罪はため息をついた。るりの胸の震えが息遣いになって伝わってくる。彼女は小さく首を振った。
「わたしにはわからないです。どうして沙々奈は都々さんなんかのこと――」
 るりの言葉を遮るように、テーブルに置かれた呼び出しボタンが鳴った。店の奥から、ただいま参りますと声が聞こえる。
 ボタンの上には沙々奈の手がのせられていた。
「お伺いいたしますー」
「あの、ハンバーグは」
「もうすぐお持ちできます、少々お待ちくださいませー」
「あ、はい。ありがとうございます」
 店員が下がるのを見送って、沙々奈は土下座をするようにテーブルの端に額を押しつけた。
「もう、やめようよ」
「やだ沙々奈、顔あげて」
「お願いだから、喧嘩しないでください」
 沙々奈は頑なになって、顔をあげようとしない。
「だって忘れなきゃよかったんですよね。わたしが全部忘れちゃったからこんなことに。本当に、ごめんなさい」
 テーブルにしがみついて泣いているようにも見える。そのあいだに店員が静かにハンバーグを並べて去っていった。
「帰ります」
 るりはテーブルに千円札を置いて立ち上がる。
「都々さん、明日は十時までにお店へ来てください。三時くらいには上がってもらえると思います。服装は白シャツで、ボトムはデニムでもハーフパンツでも、なんでもいいです。お店に迷惑かけたくないので、仕事のほうは割り切ってよろしくお願いします」
「ちょっと待て」
 口早に言って立ち去ろうとしたるりを引きとめ、断罪は彼女の手にテーブルの千円札を握らせた。
「いりません」
「自分が人にやったことを撥ねつけるなよ」
 これには返す言葉がなかったのか、るりは千円札を突き返すことなく店を出て行った。
 鉄板の上のハンバーグがじゅうじゅうと音を立てる。腹はひどく減っていたが食べる気にはならなかった。グラスに残っていた氷を噛み砕くと、虚しさが舌の上でざらつくようだった。
 ドリンクを入れにいこうとすると、か細い声で、お兄ちゃんと呼びとめられる。
「なに」
「あ、えっと、その……」
 ひらきかけた唇のかたちが、花がしぼむように変わる。
「わたしのオレンジジュースもいれてきて」
 言いたかったことを当たり障りのないものにすりかえて沙々奈は泣きそうに笑った。オレンジジュースとコーラを入れて戻ると、沙々奈は冷めかけのドリアを食べていた。
「うまいか」
 沙々奈は小さくうなずく。
「そっか」
 断罪は向かい側に座って、黙々と食べる沙々奈を眺めた。
 彼女を追いつめるつもりなどなかった。それはるりだって同じだろう。しかしこうなることもまたどこかでわかっていた。罪を、傷を、過去をつまびらかにすればするほど、何も知らない沙々奈を苦しめることになる。
 ジーンズに突っ込んだままだった千円札を引っ張り出す。紙くずのように丸まって、広げると折り目のところから破れかかっていた。