熟れた心臓(2)

 仕事を終えた断罪はその足でコンビニエンスストアへ向かった。ドアを抜けると刺すような冷気に包まれる。奥からは小さな子どもの泣き声とそれをあやす父親の笑い声がした。
『みんな、大事にしろよ』
 店を訪れた男の言葉が思い出される。
 弁当コーナーに行こうとした足をとめ、入口のそばで道路地図をひらいた。県境にある霊園を探し出す。都々の記憶にあるよりも近かった。最寄り駅とバス停の名前を覚えて地図を閉じる。
「どこかお出かけ?」
 すぐ後ろから声をかけられ、断罪は地図を取り落としそうになった。看守だった。
「突然現れるな」
「外から手振ったけど、気づいてくれないからさ」
 看守は地図を横取りしてぱらぱらとページをめくる。目の周りには痣があり、口の端には痛々しいかさぶたができていた。彼が先日追われていたことを思い出す。
「で、どこへお出かけ?」
「おまえには関係ない」
「ぼくに隠しても無駄だよ。君の居場所なんてすぐにわかるんだから」
 たしかにそのとおりだ。断罪は地図上の霊園を指した。
「へえ、墓参り?」
「まあな」
「他人の墓なのに」
「悪いか」
「いいや」
 にやにやと笑いながら、看守は地図をラックへ戻した。
「よかったらぼくが送ってあげるよ」
「車があるのか」
「まあ、あると言えばあるかな」
「なんだそれ」
「細かいことはいいだろ。メシは? バイトあがりだろ。なんなら奢ってあげようか」
 背中を押され、店の奥へと連れて行かれる。妙に親切で気味が悪い。
「おい看守」
「ゆっくり話でもしようよ」
 水面に花を浮かべるように看守はそっと囁いた。
「君に話しておきたいことがある」
 断罪は目覚めた日の看守を思い出す。
『君ははじまりの罪を知りたいか』
「それは……」
「あの日君が言ったように、ぼくはもうすべてを打ち明けてしまいたいのかもしれない。悔しいけどね」
 まるで恋を語る少女のように看守はやわらかく微笑んだ。彼が真実を語るかどうかは甚だ疑わしかったが、興味は隠せなかった。断罪はわかったとうなずいて、弁当とおにぎりを手に取る。
「あとレジ横のコロッケも」
「まだ食べるの」
「悪いか」
「この大食らい」
 ぶつぶつ言いながらも看守は弁当とおにぎりを持ってレジへ向かった。店員の温めますかに、いらないと答えたのだろう。受け取った弁当は悲しいほど冷たかった。
 店を出た看守は大通りから離れていく。断罪は黙って彼のあとについていった。
 ワンルームマンションや空きの多いテナントビルに囲まれて、時間貸の駐車場がある。看守は迷いのない足取りで一台の車に近づいた。薄汚れた白の軽自動車だ。
「駐車料金払ってきて。九番ね」
 断罪はきびすを返して入口へ戻った。出庫手続きをする。機械音声が請求するとおり料金を支払う。弁当よりもずっと高い。
 駐車場の奥からはエンジン音が聞こえてきた。その場で待って、助手席に乗り込む。
「立て替えておいた」
 領収書を渡そうとすると、看守は前を向いたままにやりと笑う。
「ぼくの車じゃないし、知らない」
「は? だったらこれは誰の車だ」
「さあ」
 エンジンキー部分にはいびつな細工がなされている。
「まさか、おまえ……」
 ドアポケットには手作り感のある会社パンフレットが差し込まれていた。小さな個人企業の営業車のようだ。カーナビも音楽プレイヤーもなく、エアコンの送風口はカタカタと震えていた。
「コンビニ行くときに見かけて。このタイプはすぐに開くんだよ」
 しかも静かにね、と言い添えて看守はアクセルを踏んだ。断罪は後部座席に無造作に置かれていた道路地図をひらいて、深いため息をつく。
「しばらく高速の高架沿いな」
 使い込まれた地図は表紙がすっかり色褪せて、ページを繰るたび煙草のにおいがした。

 都市部の道路は盆休みのため空いていた。走り出してすぐ弁当を平らげて手持ち無沙汰になった断罪は、ラジオのつまみをひねった。電波のせいか性能のせいか雑音が多い。
「アンテナ立てようか」
 信号待ちのあいだに看守は窓を開けて外のアンテナを伸ばした。こんなに古い車がよく動いているものだと感心する。
 ときおり地図を確認しながらDJの声に耳を傾ける。窓の外は眩しく、白い対向車とすれ違うたび視界はハレーションを起こした。
「あの子の記憶、どう」
「まったく」
「そっか」
 ラジオから古い洋楽が流れだす。目を閉じると瞼の裏にはでこぼこの農道がのびて、両側には背の高いトウモロコシ畑が広がった。車の振動が幻想と現実を繋ぐ。懐かしく、土の香りまで感じられるのに、いつどこの景色かはわからない。
 曲が終わって目を開けると、座り心地の悪さだけが残った。
 郊外へ近づくにつれて道はにわかに混みはじめた。看守はサイドブレーキを引いて悠々と道路地図を眺める。
「それにしても罪過も脆いね」
 ずらりと並んだ車の向こうで信号が青に変わったが、前の車はまだブレーキランプを灯したままびくともしない。
「断罪、君もそう思わないか」
 道路地図を断罪の膝へ投げ返し、看守はドアに頬杖をついた。
「なんの話だ」
「記憶のことだよ」
「それを言うなら罪過じゃなく、沙々奈だろう」
「どうかな」
 看守は前を見据えたまま、にやにやと口を歪める。
「本当に何もかも忘れたかったのは沙々奈ちゃんじゃなく罪過だとぼくは思うよ」
「何を根拠に」
「話したんだ。あの廃墟で、彼女に。君たちのはじまりの罪について」
「え……」
 車三台分ほど進んだところで、信号はまた赤になる。
「どうして」
「ぼくが話したがってるって指摘したのは君だろう。そういうことなんじゃない?」
 ハンドルにもたれかかって、看守は喉を鳴らして笑った。
「なんで話しちゃったのかな。実際のところ、ぼくにもよくわからないんだよ……。彼女は思い当たったことがあるって言って、ぼくに答えあわせを求めてきた」
 エアコンがごうごうと風を送る。シャツから出た腕はひどく冷たいのに、背中には嫌な汗が広がっていた。
「正解だったよ。罪過はすこし嬉しそうに笑って、でもすごく疲れた顔をしてね、それから静かに泣いた。ぼくが殺してあげるまでね」
 車はゆっくりと動きだした。右折して、車線の減った道を走る。ふたつほど信号を過ぎると、ゆるやかなカーブにかけてふたたび車が連なっていた。遠くから踏切の鐘の音が聞こえてくる。看守はラジオを切った。
「あんなにきれいで醜い彼女を見たのは、はじめてだよ」
「看守、おまえ!」
 断罪は助手席から看守の襟元を引っ掴んだ。
「おまえが余計なことをしたから……、だからこんなことになったんじゃないのか!」
 看守は痣のある目で静かに見つめ返す。
「君が簡単に殺されたことはどうなの。それともぼくに罪過を殺されたことが、そんなにむかつく?」
「そんなことは――」
「うそ」
 こわばっていた断罪の手を振りほどき、看守はため息をついた。
「だから情欲だって言ったんだ」
 ときおりじりじりと車が進んでは、踏切の鐘が乱暴に窓を叩いた。
「罪過を追いつめて、罪過に触れて、罪過を殺すことができるのは自分だけだと思ってるだろう。違うよ、断罪。君は何も知らない。それはね、むしろぼくの特権だ」
 自信に満ちた口振りに比べて、その横顔は沈んでいた。
「はじまりを知るぼくだけが彼女を本当に絶望させることができる。……そうだね、そう考えると君の言うように今生のことはぼくのせいかもしれない」
 ようやく朗らかに微笑んで、看守は続けた。
「罪過はやさしいから。だから沙々奈を殺せないでいるんだ。あの子の記憶を、想いを、否定できずにいる。それを逃げとも知らないで、沙々奈まで巻き込んで……」
 看守があまりにあたたかな眼差しで前を見据えるので、沙々奈の記憶が戻らないのは罪過のせいなのか、断罪は問いかける呼吸を失った。
 踏切を過ぎると車はちりぢりになり、それまでが嘘のように道は流れた。
 霊園の大きな看板に従い道を折れる。緑が迫ってくる。それまで横目に眺めていた山々がフロントガラスいっぱいに広がった。道はゆるやかにのぼりはじめ、沿道から飲食店やパチンコ店が消える。山は次第にひとつのかたまりではなく木々の連なりへと姿を変えていった。
 エアコンに疲れて窓を開けると線香のにおいが舞い込んだ。蝉の鳴き声が静寂をいっそう際立たせる。前方を走っていたバスが停車した。それを勢いよく追い抜いて、看守は正門前で車を停めた。ハザードランプの点滅音が断罪を急かす。
 車から降りると暑さが体にまとわりついた。それでも山が近いためか息苦しくはない。ねばついた暑さのなかにも清新さがあった。
 ドアを閉めて行こうとすると、ごみを入れて丸めたビニール袋が窓から差し出された。
「ついこないだ、君たちの苦しむ姿を見たい、それが好きだと話したね。あれ、訂正するよ」
 断罪からは看守の腕しか見えず、どんな顔をしているのかわからない。看守は感情の薄い、平板な声で続けた。
「ぼくは君たちを苦しめるために存在してる」
 風か、それとも指先が震えたのか、ビニールがかさりと音を立てる。
「できれば君たちの苦悩そのものに、ぼくはなりたい」
 看守はごみ袋を投げるように手放して、強引にUターンを切った。薄汚れた白い軽自動車は、他の車にクラクションを鳴らされながら来た道を走り去っていった。
 足元に残されたいびつな袋を拾いあげ、断罪はあっと声を洩らした。ジーンズのポケットにコインロッカーの鍵が入ったままになっていた。坂の下を見やるが軽自動車はもう見えなかった。