熟れた心臓(3)

 霊園は、トラックの運転手をしていた都々の父が仕事中に見つけてきた。親類縁者のいない両親には田舎も墓もない。契約し、これで気がかりが減ったと安堵していた。そのときはまさか二年も経たずに父が入ることになろうとは思いもしなかった。
 ここ数年で墓地が拡張され、景色はすっかり変わっていた。かつては小ぢんまりとした墓地で、父はそこが気に入ったと話していた。
 売店でごみの袋を捨てて、思えば花も線香もないことに気づく。なかに入ると、和風や洋風にアレンジされた花が所狭しと並べられていた。断罪はその前で首をひねる。父の好きな花や色がわからない。いちばん小さな束を手に取ってみたものの、結局は線香とライター、あとは父が吸っていた煙草を買って店を出た。
 スロープに導かれ、もっとも古い区画を歩く。以前砂利が敷かれていた通路は舗装されバリアフリーになっていたが、区画を区切るコンクリートは昔のまま飾り気のないものだった。
 いちばん小さな区画の、小さな墓石。雑草が出てくる隙間もほとんどない。そこが柚木家の墓だった。小指の爪ほどのクローバーをいくつか抜いて脇に捨てる。線香に火を移して供えると墓との距離が近づいた気がした。煙草をくわえて火をつける。慣れていない体には強すぎる煙草だ。断罪はたまらず噎せた。それを線香のそばに添える。
 線香と煙草の煙が一緒になって空へのぼっていく。煙越しに見上げる青空はいっそう高い。
 この体も本来ならこのなかに入っているはずのものだ。それが汗をかいて、線香を供えて手を合わせているのは、ひどく冒涜的なことに思えた。ぶくぶくと膨れあがって熟れきったいのちが来ていい場所ではない。
 すぐそばで砂利を踏む音がした。
「都々?」
 声に驚いて、断罪は持っていた煙草の箱を取り落とした。振り返って押し黙る。そこに立っていたのは都々の母親だった。
「さっきのバス? 気づかなかったわ」
「いや、友達の車で」
「そう」
 母はバケツに汲んだ水でタオルを濡らし、墓石を拭きはじめる。入学式や参観日でしか見たことのない、淡い色調のスーツを着ていた。かすかに香水が舞う。
「都々も手伝って」
「あ、ああ」
 せっかく供えた線香と煙草が濡れてしまわないよう避難させ、断罪は素手で墓石を磨いた。水をかけてもかけても石は熱い。
「珍しいこともあるのね、こんなところで会うなんて」
「盆、だし」
「来るなら連絡してくれればいいのに。こないだも留守電一本だし。携帯はどうなってるの、新しいのにしたの? さーちゃんは? 元気にしてる?」
 矢継ぎばやの質問に断罪は苦笑した。
「携帯はちょっといま余裕がなくて」
「さーちゃんの携帯にも繋がらないけど……、どうして?」
「面倒な男に付きまとわれて、ずっと電源切ってる。それもあっていま、おれのところに」
 とっさの嘘で言い逃れる。母は嘘だと気づいているのかいないのか、深く追及しない。
「そういうのはちゃんと警察に連絡しなさいよ。したの?」
「いや、沙々奈も傷ついてるし、そっとしてやりたい。警察とか行ったら色々訊かれるんだろ。それは、ちょっと」
「まったくあの子は」
 母は大きく息をついて、首筋の汗をハンカチで拭った。
「いつまでもお兄ちゃんお兄ちゃんって子どもみたいに。いつもは生意気な口を利くくせに、いざとなったら小心者なんだから。……きっとお父さんに似たのね」
 呟きながら微笑む母の横顔に、断罪はふと過去を見つめる眼差しを嗅ぎ取った。
「なに、都々。じろじろと」
「やけにおしゃれしてるな、と」
「ああ、うん、ちょっとね」
 白が基調の花を供え、母はそっけなくしゃがみ込んだ。ハンドバッグから数珠を取り、手を合わせる。断罪は後ろに立って、その様子をじっと眺めていた。黒髪をきれいにまとめあげた首筋には、おくれ髪が汗で張りついていた。その首筋は母親と呼ぶにはあまりにしなやかで、都々の記憶にある母親とは結びつかない。これはひとりの女だ。
 線香と香水が混じる。母は息子が察したことを感じ取っているようだった。
「工場の取引先の人でね、高橋さんっていうんだけど。彼も数年前に先立たれたのよ、奥さんに」
 彼という呼び方に、夏の午後の日差しにあるような熱がこもる。
「まだ中学生の娘さんがいるんだけど、扱いが難しいって相談されて。うちはお父さんが倒れたときも、それから……亡くなったときも、都々がよくさーちゃんの面倒を見て仲良くしてくれたから、わたしはほんとに救われたの。お誕生日はんぶんこ会だって、都々が提案したんじゃなきゃ、きっとあの子はきかなかったわ。助かったし、楽しかった……。彼の話を聞いててあらためてそう思ったのよ」
「他人事じゃないんだな、その人の悩みが」
「そう、ね」
 母はそっと祈る。
 墓に向かって手を合わす母に、家族はもういない。存在しているように見える息子も娘も贋者だ。その事実が断罪を沈黙させた。
 都々と沙々奈がいなくなって、この女は正気でいられるだろうか。高橋という男はそれでも愛してくれるだろうか。母は彼を愛せるだろうか。誰かを愛することを許せるだろうか。喪うということを諦めずにいられるだろうか。そうやって生きてくれるだろうか。
 絶え間なく響いていた蝉の声が、不意に止んだ。
「母さん」
「なに」
「母さんはもう好きに生きなよ」
「変なこと言う子ね」
「おれも沙々奈も、勝手に生きていけるから」
「ばか言わないで」
 墓石を見上げる母の背中は、都々がまだ幼いころに一度だけ会ったことのある祖母に似ていた。四十半ばの後ろ姿にしてはずいぶんと老いている。彼女は多くのものを背負いすぎた。記憶のなかの母は、トレーナーとジーンズのような飾り気のない格好でも、誰よりうつくしかった。よく気が利いて働き者だがここいちばんではどこか頼りなく、真正直で、いつも父のいたずらに騙されては驚きながら怒り、心底から笑いあっていた。
「都々、どうしたの今日は」
「え」
「珍しくよく喋るじゃない」
 落ちたままだった煙草を拾いあげ、母は箱ごと墓に供えた。
「こういう日の都々は、隠し事をしてるときなのよね」
 よいしょと声をかけながら立ち上がり、脇に置いていた紙袋を持つ。振り返った母は笑っていた。
「ついこないだ、うちに来たでしょう」
「なんで」
「わかるわよ。お母さんは押入れを開けっ放しにしたりしないから」
「あっ……」
 断罪は額を押さえてため息をつく。元通りにして帰ったつもりだった。押入れを閉め忘れるのは都々の悪い癖だ。
 母に腕を叩かれる。
「さーちゃんの服でも取りに来たんでしょう? そうならそうとちゃんと連絡しなさい。こそこそと泥棒みたいなことしないの」
「ごめん」
 今度は気をつけるよと言いかけて、断罪は口を噤んだ。次など、おそらくない。この人とは、もう二度と会ってはいけない。
 母の紙袋を代わりに持って、先に歩き出す。母は何度か口をひらきかけたようだった。だが、バス停につくまで話しかけてくることはなかった。
 路線バスに揺られて坂を下る。途中、空いた座席に母を座らせて横に立った。
「まるでおばあちゃんみたいね」
 ぼそりと呟きながらも母はふうっと息をついた。ハンカチで汗を押さえつつ扇ぐ。実家の洗濯物のにおいがした。
 バスを降りて駅へ向かう。車内はほどよく混みあっていた。寝る子を抱えた家族連れ、浴衣姿の男女、部活動の大きな荷物を担ぐ学生たち。平常の通勤通学の車内にはない、それぞれの人生の生々しさがあった。
 停車駅で乗降客のために体を寄せていると、唐突に母が口をひらいた。
「好きな人でもいるの」
「えっ、は?」
 とっさになんと返していいかわからず、断罪は横に並んだ母を見下ろした。そうしてから、なぜすぐに否定しないのかと自分自身を訝しむ。
 視線を感じ取ったのか母が見上げてきた。
「どうなの」
「いまその話いる?」
「否定しないってことはそうなのね」
 笑うと目元が猫のように細くなる。沙々奈もそうだ。
「ちょっと安心した。都々はそういうことを諦めてるように見えてたから」
 都々が彼女を家へ呼んだり、彼女の話を家族にしたりしたことはなかった。そもそも彼女と呼べる存在を作ろうともしなかった。レナがいい例だ。
 返答に困り果て、断罪は顔をそらした。なぜそんなに嬉しそうに笑うのかわからない。それでも母の笑顔は夕暮れを彩る街灯のように断罪の心をやさしく照らした。
 窓に雨滴がついた。電車が走り出すと、小石で引っ掻いたように細く長く流れていく。
「きつねの嫁入りね」
 気づいた母がひとり言のように呟いた。
 窓を掠める雨滴は流星のように輝いて、ほんの一分ほどで乾いて消えた。
 終点で降りて改札を出る。母は乗り継ぎのために私鉄へ向かった。断罪は荷物を持ってついていく。沙々奈と同じ小柄な背中に何度も、都々と沙々奈は死んだと告げようとしては言葉を飲み込んだ。
 長いエスカレーターを上がるとまるで祭りのような賑わいがあった。ホームは大きなスーツケースを引く人でごった返している。断罪は横に並んで、守るようにして歩いた。
「切符は?」
「大丈夫、チャージしておいたから」
 準備いいでしょ、と胸を張り、財布のなかにしまってあったカードを取り出す。だが母は、なかなか財布を鞄に戻そうとしない。
「どうかした?」
「都々、あなたの言葉信じていいのなら、信じる」
「え」
「ふたりとも勝手に生きていけるって」
「ああ……」
「生きていてくれるなら、それでいいわ」
 母は目を真っ赤にしていた。断罪は彼女をまっすぐ見られずに、持っていた紙袋を押しつけた。母は静かに首を振った。
「それはあげるわ。高橋さんが育てた胡瓜とか、お茄子とか、そのお漬物。ふたりで食べなさい」
「でも」
「どうせ、まともなご飯食べてないんでしょ」
 ぽろぽろと涙がこぼれる。母は戸惑ってハンカチで拭いた。
「変なの。都々もさーちゃんも、もうずっと遠いところにいる気がする。目の前に、都々がいるのにね」
 お父さんに怒られちゃうと言って母は破顔した。
 駅へ降り立った人々が改札から溢れてくる。
「ほら、今なら座って帰れるから」
 断罪は母の腕を掴んで、改札機まで引っ張った。母はカードを通してから振り返って手を振り、五歩進んでまた振り返った。そうやって何度も繰り返す母が電車に乗って見えなくなるまで見送った。
 発車ベルが鳴って、レールの軋みがホームに響く。紙袋のなかにはビニール袋に包まれた野菜と漬物、そしてティッシュにくるまれた紙幣が入っていた。いつのまに忍ばせたのだろうかと墓からの道のりを振り返る。
 やけに喉が渇いた。