熟れた心臓(4)

 街は夏と喧騒に熟れきっていた。
 いっこうに降りそうにない雨がいっそう街の湿度を上げる。近年改修された駅の大型ビジョンでは、数日前に発生した台風の進路情報が示されていた。
 断罪はすこしでも涼しい場所を求めて地下街を歩いた。冷たい空気が天井から降り注いでくるものの、ほとんどが人いきれに掻き消されてしまう。かいた汗がそのまま背中に張りついて、次第にねばついていった。
 多くの路線が交わる駅周辺には至るところにコインロッカーが設置されている。断罪は人波に流されながら横目にロッカーを見やった。どれもポケットにある鍵とはプレートの色やかたちが違う。断罪は他のロッカーを探して歩きまわり、気づけば人気がなく薄暗い、改修が行き届いていない細い通路へ踏み込んでいた。道端には初老の男がダンボールを敷いて横たわり、死んでいるかのように微動だにしないで道の一点を見つめていた。壁にはめ込まれた煉瓦は角が削れて白くなり、亀裂からは水が染み出していた。
 突き当たりの案内看板に、右に手洗い、左にコインロッカーとある。奥からは古い手洗いのつんと鼻にくる臭いが漂い、吹きだまりの夏と混ざりあっていた。
 コインロッカーの半分には故障中の紙が貼られていた。未使用のロッカーに刺さっている鍵は、手もとのものと同じプレートだ。
 プレートに印字された番号のロッカーに、不足分の小銭を入れて鍵を差し込む。ガチン、とかたい手応えがあって、ロッカーはひらいた。
 中にはA4サイズの茶封筒と、不透明のジッパー袋があった。袋は軽く、あけると茶葉のようなものの小袋がいくつも入っている。かすかに、甘い菓子が腐ったようなにおいがした。どこかで覚えのあるにおいだ。
『隼弥が扱ってたから』
 沙々奈を殺したハーブのにおいによく似ていた。
 茶封筒には隠し撮り風の写真とUSBメモリ、そして名簿が印刷された紙が数枚、ステープラーでまとめられていた。針はつい先ほど留めたように真新しく、写真や紙も古ぼけた手触りはない。
 写真の日付を見る。七月二十五日。宿主の死の一週間ほど前になる。写っているのは合わせて十数人の若い男で、以前看守を追っていた男と雰囲気がよく似ていた。写真には番号が振り分けられ、名簿と対応しているようだった。
 隼弥が殺された理由なのだろう。看守は断罪に鍵を預けることでこれらを守ろうとしている。
 断罪はにわかに頭痛を覚えた。
 看守が何をしようとしているのか。考えなくとも明らかだった。彼は言った。
『復讐ってやつさ。この体の』
 あのとき断罪は看守の言葉を一笑した。
 宿主の人生はもう終わったものだ。いまさら関わったところで報われることはない。ずっとそう思ってきたし、いまもそれは変わらない。そのはずだった。
 腕にかかる紙袋の重みを感じながら、断罪は自問する。本当に、何も変わらないのだろうかと。はたしてあのとき看守がどんな顔をして話したのか、いまとなっては思い出せない。
 写真や名簿を茶封筒へ戻し、ふたたびロッカーを施錠する。
 心の視界を遮る血の檻が、いまでははっきりと見える。いつしか都々と同じ場所に立っていることに気づき、全身の肌がひりつくようだ。
 問いの答えはすでに断罪のなかにあった。

 コーラを飲みながらアパートへ向かって歩く。強い炭酸がはじけるたび胸のうちにある檻がかたかたと音を鳴らして震えた。
 突き刺すようだった太陽はビルの影へ静かに隠れていく。終幕の気配を帯びた空は明るく透徹として、物悲しさを覚えるほどやわらかい。あまり長く見つめていると炭酸水の泡のようになって霧散してしまいそうだった。
 いっそ泡になって消えてしまえばいいのに……。
 夢想にも似た思いは胸の奥の深いところにまで入り込んで、脈打つようにやわらかく蠢いていた。コーラを勢いよく流し込む。炭酸の痛みで鼓動をごまかす。
 車道を挟んだ向かい側に沙々奈の姿を見つけた。断罪は車の切れ目で車道を渡った。
「沙々奈」
 突然目の前に現れた断罪を見上げて、沙々奈はわずかにぎこちなく笑った。
「おかえり、お兄ちゃん。遅かったね、仕事大変だった?」
「うん、まあ。沙々奈は洗濯か」
 言いながら、どこにも荷物がないことに気づく。服もいつものスウェットではない。沙々奈は鞄から携帯電話を取り出した。
「ショップに、行ってみようかと思って。そうしたらロック解除できるかもしれないから」
 うつむきがちに、微笑みにも似た諦念を浮かべる。
「いつまでも何もしないでいるのは、よくないから。できることからしていきたい。この中には、きっとわたしがつまってる」
 携帯電話を振って沙々奈は笑う。それはいまにも崩れてしまいそうな笑顔だった。
 もし沙々奈が記憶を取り戻して罪過が目覚めたとしたら、いつものように彼女を殺してこの命は終わる。きっと何事もなかったように次の命へ移るのだろう。繰り返しには救いも未来もないかもしれないが、激しい変化や真新しい発見とは無縁の、平常の安定があった。
 いまなら繰り返すことができる。どうせまた殺し合ういのちなら、この想いは殻に覆われ孵ることなく息絶えるほうがいい。
 それは、わかっている。わかっていながら断罪は沙々奈の手首を掴んだ。
「行かなくていい」
 想いの殻にひびが入る。
「行くな、沙々奈」
「お兄ちゃん……?」
「無理やり思い出すことなんてない。忘れたいから忘れた。それでいいだろう。おまえはあの日、生まれ変わったんだ」
 沙々奈は不思議そうな顔をして兄を見上げていた。その無垢な瞳に、都々の顔が映っている。断罪はそこに自分を見つけた。
「沙々奈、どこか遊びにいこう」
「え、もう夕方だよ」
「暗くなるにはまだ早いだろ。それに、日が落ちても街は明るい」
 太陽が姿を消せば、街にはネオンの陽がのぼる。
「どこかって、どこに?」
「どこでも」
「どこでもいいの?」
「いいよ」
 沙々奈の行きたいところへ行きたかった。
 しばらく考え込んでいた沙々奈は、ぱっと顔を輝かせる。
「わたし、観覧車に乗りたい」
「観覧車?」
「そう。海のほうにね、あるんだって」
 コインランドリーにあったタウン誌で見たのだという。沙々奈の期待に満ちた眼差しで、断罪の心は決まる。
「いいよ。そこへ行こう」