熟れた心臓(5)

 一度部屋へ戻って、母からもらった紙袋ごと冷蔵庫に押し込む。仕事用のシャツを着替えて、あらためてふたりで部屋を出た。せめて充電だけはしたいと沙々奈が言うので、ショップへ寄って充電器を買った。
 観覧車がある港まで地下鉄を乗り継ぐ。そのあいだ沙々奈は情報誌で得た観覧車の話をした。どれも都々の知識として知っていた断罪だったが、沙々奈があんまり楽しそうなので知らない振りをして聞いた。
 最寄り駅へついたころには、海の向こうに日が傾きかけていた。街は道幅が広く、吹く風もいっそう強く感じられる。すぐそこは海のはずだが不思議と潮の香りはしない。
 港までまっすぐ伸びる道を見やって、沙々奈がわあっと声を上げた。大通りの突き当たりに観覧車がそびえている。見とれて立ち止まりそうになる沙々奈に声をかけ、断罪は先を歩いた。
 真っ赤な観覧車は夕景のなかで鈍く輝いていた。夢を乗せて華やいでいた。それはいつか見た観覧車のように、今日という日を巻き取り世界を動かす歯車のようだった。
 赤信号で立ち止まる。
「おっきいね、観覧車」
 いつのまにか隣に並んでいた沙々奈が夢見るように呟いた。
「大きいな」
「夜になると骨組みのライトが光るんだよ」
「ああ」
 信号が青に変わり、沙々奈は先に歩きはじめる。
「この観覧車に乗った恋人同士は、すぐに別れるんだって」
「どこの観覧車もそういう話はつきものだろ」
「だとしても、わたしたちは安心だね」
 沙々奈は振り返り、後ろ向きに歩きながら笑う。
「だって兄妹だもんね」
 ひときわ強い風が吹いた。その風が、罪過に撃たれてあいたままの穴をすり抜けていく。
「そうだな」
 なぜ風は無言で通り過ぎることができないのだろう。なぜ悲鳴のような声を上げるのだろう。断罪は静かな微笑みのかたちを真似た。
 窓口でチケットを買い、待つことなく乗り込む。断罪らの他に乗客はいなかった。入口が閉められブザーが鳴ると、軽快な音楽とともに観覧車は動き出す。はじめこそ大きく揺れたものの、その後は小さな振動が続くだけで、浮き上がっているという感覚はなかった。
 やがて視界がひらける。窓の片側には来し方が、もう片側には海が広がった。タンカーと重機がひしめく、コンクリートで囲われた水銀色の海だった。青でも緑でもない、夕陽を受けて赤く染まるでもない。こぼれ落ちた光が冷えて固まった色だ。ときおり太陽に憧れて波間がショートする。あまり長く見つめていると海にさらわれてしまう気がした。
 沙々奈は窓に張りつくようにして街のほうを眺めていた。スモッグや熱気でビル群の景色は霞んでいる。その小さな粒に光が反射して、金色の雨が降る。光の雨は舞うように降り注いで、道をなぞり、海へと流れ込む。眼下に広がるのはその循環だけが残された、生き物の気配を感じさせない世界だった。生きながら死んでいるのか、死んだことを知らされず生きているつもりになっているのか。どちらにせよ自分と同じだと、断罪は思った。
 燃え立つような光を感じて、海へ視線を転じる。自らの重みに耐えかねた太陽が水平線へ落ちていく。海が光をのみ込んでいく。そのとき、太陽は嘆きだった。終わる世界を愛していたと声の限りに叫ぶ嘆きと輝きだった。
 世界がひとつの肉体で、道や川がその肉体に張り巡らされた血管なら、海はきっと心臓だ。注ぎ込まれた感傷を、吹き溜まりに集まった残骸を、照らし続けた太陽を、海は黙々と煌めきにして弔っている。
「アパート、あの辺りかな」
 沙々奈が指差す先へ目を凝らす。
「だろうな」
 景色の輪郭は春霞のようにやわらかくぼやけていた。密集した建物はいっそう連なり、見分けがつかない。
 東方の山際は夜が濃くなりつつある。インクが滲むようにじわじわと空はくすんだ青へと移り変わっていく。残光が雲を黄金色に染める。ゆるやかに、今日という日が死んでいく。
「きれいだね」
 輝きで色を失った海を慈悲深く見つめ、沙々奈は静かに息をこぼした。瞳には煌めきが宿る。断罪は沙々奈に視線を奪われた。
 同じ波がないように、それが連なって海になるように、二度とない、唯一のいまが連続して沙々奈を作りあげている。たったひとつの飛沫が、世界のすべてにもなった。
 沈みきる前の太陽が今日のいのちを燃やす。先ほどまでとはまるで異なり、激しさや嘆きとは無縁の、やわらかで穏やかな光の在りようだった。あまりの紅さに目を細めると、胸の奥で殻がはじけた。断罪はその残響を聞きながら、ただただ沙々奈を見つめていた。
 金色の影になって黒く塗り潰されていた街並みに、ひとつ、またひとつと蛍のように明かりが灯る。地上が息を吹き返していく。やがて眼下には人工の星空が広がった。まだ明るい、星も月もない夜の訪れだった。
 断罪は深く息をした。
 目覚めのときのように、いのちがつかえて息苦しくなる。
「沙々奈」
 呼び声に彼女が振り返る。たかがそれだけのことで満たされていく。
「いや、なんでもない」
「変なの」
 沙々奈がわらう。それは光だった。断罪という生きびとでも死にびとでもない存在にまで降り注ぐ、吸いつくような光だった。