だから僕らは夢を見ない(1)

 北上を続けていた台風が列島の端に上陸した。明日にはこの街も嵐になる。
 断罪はベランダで足の爪を切った。ぱちん、ぱちんと、夏空に音が響く。日陰に腰かけていても汗がとめどなく流れて灰色のコンクリートに落ちた。爽快だった。凝った汗が排出され、みるみる純化されていく。肉体という小さな世界は毎日たゆみなく循環していた。
 はじき出された爪の行方を目で追って、断罪は手をとめた。
 終わることのないいのちに倦んでは伸びた爪のように切り捨ててきた。なぜ宿主に興味を持たなかったのか、その理由にあらためて思い至る。痛みから目を背けようと、いのちのやわらかい部分に蓋をし続けた。揺れること、華やぐこと、悼むこと、あらゆる情動から逃げていた。死の衝撃を恐れるあまり生きることを放棄していた。悪夢に怯えて眠ることをやめるように。
 しかし今生、断罪は目覚めたまま夢を見てしまった。慌てて目を閉ざしても、一度目に焼きついた光は消えない。たとえその光が夜空を彩る花火のようにすでにはかなく闇に溶けていたとしても、瞬きのなかに押し留めた輝きは永遠だ。それは行き場のない虚無、恋だった。
 足についた砂を払って部屋へあがる。沙々奈は枕を抱えて眠っていた。
「沙々奈」
 揺り起こそうとして伸ばした手を途中でとめる。Tシャツから覗く白い腕に、あまりにも触れたいと思ってしまった。
 脳裏に罪過の死に顔がいくつも浮かぶ。彼女に触れるのはいつだって彼女を殺すときだった。触れれば殺してしまいそうでこわかった。
 沙々奈が抱きかかえた枕を抜き取り、それで腕を叩く。沙々奈は小さく息を吐いてゆっくりと身じろぎをした。
「ん、あれ、わたし……」
「こんなに暑いのによく寝るよ。買い出し、行くんだろ」
「うん。……待ってて、着替えてくる」
 沙々奈は替えの服を持ってユニットバスへ向かった。
 ミュートしたままのテレビに荒れ模様の漁港が映る。艫綱で繋がれた船が大きく揺られていた。断罪と罪過、そして都々と沙々奈を見るようだった。運命や恋情に翻弄されながら繋がれてもがいている。船と違って、理性とも本能ともつかない曖昧な艫綱はいつ切れるともわからない。
 これはいつ止むともしれない、行き着く先のない情動の嵐だ。やがて想いが溢れて決壊するときが来るかもしれない。それまでにこの命が尽きることを祈るしかできない。
(祈る……?)
 断ち切るのはいつも断罪の役目ではなかったか。
「お待たせ」
「ああ」
 沙々奈と市場まで買い出しに出かける。道すがら沙々奈がどうしてもというので、献立は二週間ぶりのカレーライスに決まった。
「休みだし一緒に作れるね」
「おまえに任せるとカレー汁になりそうだし」
「偉そうに言いながらカレーしか作れないくせに」
「カレーも作れない人に言われたくないです」
 にやりと笑って見下ろすと、二の腕を本気でつねられた。
 レジ横の棚には線香や蝋燭と一緒に花火が並んでいた。都々の幼いころの記憶がよみがえる。まだ父が生きていた時分、家族四人で大きな花火大会へ出かけた。沙々奈はまだ幼稚園へ通いはじめたばかりで途中から父の背中で眠ってしまった。翌日になって最後まで花火を見られなかったと沙々奈が拗ねたので、近所の公園で花火をした。ふたりして花火を持って走り回り、母を困らせた。
 断罪はいちばん小さな花火セットをカゴに入れた。
 アパートへ帰ってカレーを完成させると、晴天だったのが嘘のように翳りだした。出来上がったばかりのカレーライスをすこし早めの夕食にして、断罪は雨が降り出す前に沙々奈をベランダへ誘った。
「花火?」
「そう」
 狭いベランダに二人で出ることはできないので、沙々奈を奥へ押しやって、断罪は足だけをベランダへ出した。部屋の明かりはすべて消し、鉛筆よりすこし大きい程度の花火を沙々奈に渡す。
「ほら」
 ライターに火をつけて腕を伸ばすが、風ですぐに消えてしまう。断罪は沙々奈を手招きして、もう片方の手で覆いを作った。見えない花を手で包み込むようにして火を灯すと、火花が芽吹いた。
 沙々奈は言葉にならない歓喜の声を上げる。断罪も自分の花火に火をつけた。互いに散らす花びらがぶつかりあって、さらに細かな輝きになった。
 花火が沙々奈を照らす。そのあいだだけ沙々奈の笑顔がとても近く感じられた。
 このまま時がとまればいい。罪も罰も転生も、生死や血の繋がりからも目をそらして、身を焦がす光のなかで息をしていたかった。
 いっそ彼女を組み伏せたなら、この心地よさを壊せるだろうか。そうすれば何事もなかったように、あれは真夏の暑さが見せた蜃気楼だったと次の命へ死にゆくことができるだろうか。
 煙のように情動がよぎると同時に、ベランダの片隅に巣を張る蜘蛛のように都々の気配が感じられて、断罪は水を張った空き缶に盛りの過ぎた花火を突っ込んだ。
 兄妹だから。その一言が都々の肉体の隅々にまで染みついている。はたしてそれが嵐の元凶なのか、もしくは艫綱なのか断罪にはわからない。わからないまま、ただ揺られているしかできない。
 新しい花火に火をつける。産声のように勢いのある火花を見つめて、沙々奈は抱え込んだ膝に顎をのせた。
「きれい」
「ああ」
「ずっと消えなければって思うけど、たぶん、消えるからきれいなんだね」
「かもしれないな」
「ありがとう、お兄ちゃん」
「なにが」
「花火、買ってくれて」
「べつに」
「ねえ、お兄ちゃん」
 呼びかけに顔を上げると、沙々奈は花火を見つめて目を細め、ほんのわずか微笑んでいた。
「どうしてわたしたち、兄妹なのかな」
 いっそう烈しく燃えて火花が千切れていく。手折られて、輝きは砕けて散らばって、夜のうちへと融ける。火種がぽとりと、突然絶命した蝉のように落ちた。
「さあな」
 断罪はどんな顔をすればいいかわからず、ただ小さく呟いた。