だから僕らは夢を見ない(4)

 フラッシュが焚かれたように光が氾濫し、ひときわ大きな雷鳴が轟いた。強い光のあとで視界がぼんやりとしてよく見えない。指先からふっとぬくもりが消えていく。すぐそばにいたはずの沙々奈がぐったりとして床に倒れていた。
「沙々奈……」
 呼びかけても反応がない。揺り起こそうと手を伸ばすが触れることは躊躇われた。それはこれまでの、恋情を押し殺すための自制ゆえではない。なにか、生命や存在としての、その根底を覆されるような恐れからくるものだった。
 彼女の肌があまりに白く死んだように見える。
 大粒の雨がベランダへ吹き込んでくる。荒々しく、銃弾が撃ち込まれるようだった。
 動かない沙々奈を見つめている時間は、ほんの数秒にも数時間にも思えた。沙々奈の睫毛が雨に打たれる朝顔のように震え、ひらく。辺りを確認するように沙々奈はゆっくりと瞬きをした。たどたどしくさまよっていた視線が次第に定まっていく。
「沙々、奈……?」
 呼びかけながら、胸に広がるじっとりとした違和感に気づく。断罪は反射的に体を引いた。
「誰だ」
 認めたくない思いが誰何の声を上げさせる。横たわったままの沙々奈の視線が、氷の上を滑るようになめらかに断罪へ向けられた。
「気づいているくせに」
 その声はまぎれもなく沙々奈のものでありながら、どこにも沙々奈らしさはなかった。沙々奈の声を、姿をした、別人だった。
 断罪はそんな人物をひとりしか知らない。
「罪過……」
 振り絞るように断罪は女の名を呼んだ。彼女はやわらかく目を細める。そこにぬくもりはなく、雨のように冷たい。
「わたしを探していたんでしょう。せっかく出てきてあげたのだから喜んだらどうなの」
「沙々奈はどうした」
「どう……、って。じゃあ、都々はどうしているの。同じよ。これまでの転生と何も変わらない。たわいない、ただの命よ」
 沙々奈の顔に似合うはずない嘲笑をきれいに浮かべて、罪過は光る空を見つめた。
「また雨……」
 雷光を受けた彼女の肌は張りつめて、陶器の人形のようだった。それは生きびとの、沙々奈の顔つきではない。
「どうしていまさら」
 目の前にある現実をどこか遠くに感じながら、断罪は罪過を見下ろした。フローリングに投げ出された手足は目覚めの日を彷彿とさせる。罪過は不遜な眼差しで断罪を見つめ返した。
「死ぬためよ」
 罪過の言葉に迷いはない。
「そのほかに、わたしたちに何があるというの」
「だったらなぜ最初からそうしない! 出てこられるのなら、なぜ……!」
 今日までの日々が波打ち際の砂の城のように抉られ崩れていく。抱えきれない激情が行き場を失い断罪を内側から絞めつけた。
「あわい夢だったの」
 罪過は嫣然と目を細める。
「恋人ごっこは楽しかったかしら。おにいちゃん」
「貴様……!」
 断罪は罪過の上に馬乗りになり、細い首へ手をかけた。
「まさかずっとおまえだったのか! はじめから、沙々奈はもう……、どうなんだ!」
「どうかし、ら……ね」
 罪過は苦しげに眉を歪めたが抵抗はしなかった。断罪は胸のうちで吹き荒れる嵐に身を任せ、腕に力を込めた。
「殺す、殺してやる」
 指先に感じるのは冷えた汗と、湿った肌と、嘆きのように脈打つ鼓動。細い首はきりきりと折れそうに軋む。いくつも涙がこぼれる。息を欲しがって喉が抗う。それらはどれも罪過のものであり、同時に、沙々奈のものでもあった。
 殺せ、殺せと声にならないまま罪過は囁く。断罪はうめいて、こらえて、やがて手を離した。体を丸め、罪過の上でうずくまる。
 涙のない嗚咽と喘ぎが食いしばった口から洩れる。
「むりだ……、できない」
 いくら罪過だとわかっていても、沙々奈の姿をした彼女をこの手が殺せるはずがなかった。
 激しく咳込んでいた罪過がやがて掠れた声で笑う。
「おまえは断罪だろう……? 罪であるわたしを断ち切ってくれる存在なのだろう? それができないというなら、おまえは誰だ。なんのために存在している。都々の肉体を、尊厳を辱めてまで」
「おまえこそなぜそこまで死に急ぐ」
「本当に死ねるはずもないのに?」
「看守から聞いたぞ」
 断罪は低い声で唸るように言った。床に手をついて彼女を真上から見下ろす。
「真実を聞かされたおまえは沙々奈を否定できずにいる、だから目覚めないのだと。おまえは逃げたんだ。沙々奈の記憶まで巻き添えにして。宿主を辱めたのは、むしろおまえのほうじゃないのか」
 強風が窓を揺らす。雨が吹き込んだ床は霧吹きを当てたように濡れていた。
「罪過、何を知った」
「聞けばおまえも囚われるぞ」
「かまわない」
「……わたしたちのはじまりと罪を知った」
 罪過は顔をそらして失笑した。
「〈浄化〉があるとかないとか、そもそも語ることすらおこがましいのだ。終わりなどとは関係なく、転生を受け入れるほかないと思い知らされた」
「なぜ」
「我々が罪を犯したからだ」
 床を叩いて、罪過は声を荒げた。
「そのような定めにあると、なぜわからない!」
 断罪の指の痕が、罪過の白い喉にくっきりと浮かび上がっている。断罪は床に押しつけた手を握りしめた。彼女の痛みを想像すると、いとしい想いがとめどなく溢れてきた。これは罪過だと、自分が殺し続けた女だと何度心に言い聞かせても、気持ちは消えなかった。
「罪過」
 断罪の心は風のない湖面のように静かだった。
「どうしていまになって現れた」
 罪過は目をそらしたまま答えようとしない。
「おれが触れたからか」
 乾いてしまった彼女の唇へ、もう一度手を伸ばす。
「それとも沙々奈が望んだからか」
 指先がやわらかな場所へ触れようとしたそのとき、罪過は断罪の手を強く払いのけた。
「わかっているのか、断罪。沙々奈と都々は実の兄妹だと」
「ああ」
「わかっていながら、よくもそんなこと……。兄妹でそんなことがあっていいと、本気で思っているのか」
「いとしく大切にしたい気持ちがここへ行き着いて何がいけない。そんなにも避けられ、咎められるようなことか」
 ややして罪過はゆっくりうなずいた。
「……そうだ」
 唇を震わせて、笑みともつかない歪みを浮かべる。
「こうやって、はてしない転生を続けるくらいにはな」
 刀のように鋭い眼差しが断罪の思考を切り裂いていく。
「どういう……」
 断罪は言葉を失い、ただ罪過を見下ろしているしかできなかった。
 罪過は人形のような顔つきに戻る。
「わたしたちはかつて兄妹だった。沙々奈と都々のように、兄妹だった」
 人形の瞳を雷光が撫でていく。
「沙々奈の記憶に蓋をすれば何もかもあるべきかたちに戻って、兄への恋情も消えると思った。それで何もなかったことにできる、……やり過ごせると」
 悔しげに唇を噛んで罪過は続けた。
「おまえが揺り起こすからいけない。最後にはいつも兄さんが許してしまう。だから、何度だって……」
 続く言葉を心に留めて、罪過は短く息を吸う。
「殺せ、断罪」
 凛とした声が断罪を揺さぶる。
「お願い。いつものように、わたしを殺して」
 懇願は愛を乞うようでもあった。断罪は力なく首を振る。
「無理だ」
「どうして」
「できない……」
 この腕はいまも彼女を抱きしめたくてたまらない。それなのに同じ手で壊すなどできるはずもなかった。
「わたしは罪過……、罪そのもの。この繰り返しにおける、はじまりと終わりの象徴。わたしを殺せば次へ逝ける。おまえも、看守も」
 この命を捨てて次に託す。それは心中のようだと断罪は思う。そうやっていままで生と死を繰り返してきた。きっとこれから何度もともに死を重ねていくのだろう。繰り返しを求めていると言った看守の心に、断罪はようやく追いついた。
 じっと断罪を待っていた罪過はやがて虚ろな目をする。
「もう、いい。おまえがしてくれないなら、わたしが自分で始末をつける」
「……ない。させ、ない」
 声が掠れて、うまく言葉にならない。
「沙々奈と都々にまで同じ業を背負わせたくはない」
 罪だなんて、業だなんて、断罪にはいまも思えない。この胸にある息吹は誰にも裁かせない。
「罪過、それはおまえの本心か」
「だったらどうなの」
 断罪はされるがまま押しのけられた。罪過は立ち上がり部屋を出ていく。
 断罪は罪過が残していった床のぬくもりを素足で拾いあげる。あたたかい。顔を上げるとドアをひらいた彼女が黒い影になっていた。断罪のほうを振り返っているようだが、その表情は判然としない。断罪は目を眇める。
 ふと、彼女が目を伏せたようだった。
「罪過……」
 断罪は立ち上がり駆け寄る。薄明るく切り取られた空間は次第に細くなっていき、やがてドアは静かに閉ざされた。