回転木馬の不協和音(4)

 はじめは悪い冗談だと思った。
 断罪はいまにもひび割れそうな笑みを浮かべて問い返す。
「なんのつもりだ」
「あの、ごめんなさい。ほんとに、本当にわからなくて……」
 細い肩を縮めてうつむく。髪がさらさらと流れて顔を隠した。しばらくすると、しゃくり上げる声が聞こえた。
 看守と顔を見合わせる。
「どう思う」
「うーん、冗談? にしてはちょっとないよね。まさか罪過にこんな演技ができるとは思えないし……」
「つまりどういうことだ」
「彼女は罪過でも沙々奈でもない。ただの少女ってことじゃない?」
 断罪もまた看守と同じように感じていた。冗談や演技にしては陳腐で、かえって真実味があった。
 目の前の少女には罪過としての意識だけでなく、柚木沙々奈の記憶もないことを認めざるをえなかった。
 断罪は大きくため息をついてうなだれた。突きつけられた現実に億劫になる。首筋の汗を拭うが、どこもじっとり汗ばんでいてどうにもならない。
 不快な夜だ。
 断罪は軋む携帯電話を慎重にひらいて、たわむキーを押す。さいわい動作に問題はなかった。春に撮った写真を表示させたまま、沙々奈のほうへ向けた。
「安心しろ。おれはおまえの兄貴だ」
 画面には着ぐるみの人形を挟んで都々と沙々奈が写っていた。母の誕生日祝いをショッピングモールへ買いに出かけたとき、広場で係員に撮ってもらったものだ。そこには屈託なく笑っている沙々奈と、すこし疲れながらも穏やかな眼差しの都々がいた。
 そろりと持ち上げて沙々奈は首をかしげる。
「これ……、わたしですか」
「もしかして自分の顔もわかんない?」
「はい」
「鏡ならここにあるよ」
 看守は沙々奈の鞄からポーチを取り出して、手鏡を差し出した。そこに映る顔と写真を見比べて、沙々奈は断罪へ安堵の眼差しを向けた。
「とりあえず、それを渡せ」
 差し向けた手のひらにサバイバルナイフが置かれる。沙々奈はふたたび画面へ視線を落とした。
「わたしと、えっと……」
「都々だ。柚木都々。おまえは柚木沙々奈。ついでにここはおれの部屋」
「ゆずき、ささな」
 名前を咀嚼するように呟いて、沙々奈はうつむいた。表情は見えないが彼女の不安は想像できた。どんなに呼びかけても、からっぽの魂はこだまを返してはくれない。その孤独と絶望感を断罪はよく知っている。
「あの、ありがとうございます」
 沙々奈の声は漣のように震えていた。
「礼を言われるようなことは、なにも」
「わたしが誰なのか教えてもらいました」
「はあ……」
 写真があるからといって、なぜ手放しにそれを自分だと信じられるのか。一緒に写っているのは確かでも、兄妹である証拠にはならない。断罪には沙々奈の喜びが理解できない。
 それにしても、と看守が断罪の肩を押しのけて沙々奈の前へ座り込んだ。
「沙々奈ちゃんが無事で本当によかった。ここに来てみたら倒れてるからびっくりした」
「倒れて? そうだったんですか」
「ああ。いいお兄さんを持って、君は幸せものだね」
 わざとらしい笑みを浮かべて看守が振り返る。
「ねー、都々」
「なにが言いたい」
「他意はないよ。どうしたの、いらいらして」
「なんでもない。何か飲むものを持ってくる」
 断罪はあまりの居心地の悪さに、逃げるようにその場を離れた。キッチンの陰で、ため息を言葉にする。
「なんだ、これ」
 蛇口をひねり、顔を洗う。出てくる水はもはやぬるま湯だが、汗だくの体よりはずっと冷たかった。ナイフを流水に晒すと、こびりついていた都々の血が剥がれていった。
 柚木沙々奈が罪過であることは、自分が断罪であると自覚するのと同じように確かなことだった。万が一間違っていたとしても、硬直していた完全な死体が息を吹き返したことこそ、彼女が罪過である証拠だ。罪過は死んではいない。そしてなんらかの障りがあり、いまだ眠りのなかにいる。
 どうすれば罪過の意識が覚醒するのか。そこには沙々奈の閉ざされた記憶が関係するのか。何がきっかけでこのような事態になったのか。そして、〈浄化〉との関連は……。
 問いかけはすべて、答えを得られないまま排水口へ流れていく。
 なかったことにしよう。命をリセットすればいい。そんな思いが浮かぶ。死んだところで、また次の命がはじまるだけだ。この命に固執する理由はどこにもない。次もまた同じように罪過の意識が戻らないなら、戻るまで何度だって殺せばいい。
 殺し続けるだけなら、いままでと何も変わらない。繰り返しのいのちだ。
 断罪はぼろぼろのTシャツを脱いで丸めて、サバイバルナイフを隠し持った。濡れた髪から水が伝い、目に入る。
 そのとき不意打ちのようにキッチンの明かりがついた。
「なにしてんの」
 看守の視線は丸めたTシャツに向けられていた。断罪はナイフを持つ手を自分の体で隠す。
「着替えようと思って」
「へえ。ナイフを隠しながら?」
 にやつく看守の様子に、すこし前から見られていたのだと気づく。断罪は舌打ちした。
「なにが悪い。おれはいつもどおり罪過を殺す。それだけだ」
「開き直るくらいなら、はじめから隠さなきゃいいのに」
「おまえに邪魔はさせない。さっさとこの命を終わらせてやる」
「ぼくがいつ君の邪魔をするって言った? 好きにすればいいよ」
 そう言いながら看守は断罪の行く手を阻むように立った。
「言ってることとやってることが真逆だが」
「今夜はもう帰るけど、その前にひとつ言っておきたい」
「なんだ」
「君が殺すのはあくまで罪過じゃないのか。あんな、まっさらな少女を殺してどうする。そこにどんな意味があるの」
「どうせ死んでる」
「だからいまさら殺したところで変わらない?」
 断罪は肯定も否定もしなかった。看守は腕を組み、じっと見上げてくる。ユニットバスで回り続ける換気扇の音が、強風でときおり乱れた。
「ねえ、わざわざ殺し急ぐこともなくない?」
「それを言うなら、こんな命をわざわざ生きることになんの意味がある」
「そんなの誰だって同じだよ」
 冷たいと言ってしまうには寂しげな笑みを浮かべ、看守は向こうにいる沙々奈を見やった。
「断罪、君は考えなかったのか。これまで淀みなかった転生に、はじめて訪れた変化だ。もしかしたら〈浄化〉の兆しかもしれないと」
 まだあどけなさの残る眼差しに、掴みどころのない鈍い光がよぎる。
 断罪は壁にもたれ、長いため息をついた。
「考えたさ。だけどそれはもう、終わったことだ」
「どうしてそんなこと言い切れるの? これがはじまりかもしれないのに」
「おまえはおれに〈浄化〉してほしいのか、してほしくないのか。どっちなんだ」
「そうだな……。いまの気持ちを正直に言うと、どっちでもない、かな」
 アイスが溶けて落ちるように、笑顔が剥がれる。
「君らの苦しむ姿が好きって言ったろ」
 看守はさらりと言い放ち、立ち去った。
 玄関ドアが閉まる音をキッチンで聞きながら、断罪はナイフを置いた。看守に従う義理はない。だが気持ちは完全に殺がれていた。
 部屋へ戻ると、沙々奈は布団にもたれて眠っていた。手には携帯電話が握られている。そっと抜き取って待ち受け画面にすると、すでに日付は八月二日になっていた。
 断罪は壁に体を預け、ネオンにあぶりだされた夜空を見上げた。小さく赤く点滅しながら飛行機が過ぎていく。換気扇と扇風機の回転音が微妙にずれて聞こえてくる。深夜にもかかわらず多くの車が道を行き交う。どこからか、赤ん坊の夜鳴きが響いた。
 騒々しく蒸し暑い、いびつな夜の合奏だった。