いつかの花(1)

 明滅する飛行機を眺めていると、いくつもの記憶が脳裏をよぎった。なかでも直前の命のことが、色濃く思い出される。
 砂漠に近い町だった。目覚めて最初に目にしたのは下半身だけの死体で、背中に感じた重みを押しのけると上半身が転がり落ちてきた。辺りには武装した民兵らが、何もない空へ向かって発砲していた。広場の中央ではヘリコプターの残骸が燃やされ黒煙を吐き出している。乾ききった町はことごとく破壊され、路地を逃げる女や子どもまでが兵士のような顔つきをした。
 輪のなかに歓声が起こり、銃声が続いた。民兵らの足の隙間から、死してなお撃たれる男が見えた。撃たれるたびに体が跳ねあがり、まるで生きているようだ。やがて死体は原形を失い、銃撃は止んだ。
 ひと目で連合国の軍服とわかる上着は脱ぎ捨て、民兵らがつけている腕章を死体からもぎ取った。顔立ちを隠すために顔の半分に布を巻く。さいわい肌は褐色で、集団に溶け込むことは難しくなかった。
 片隅で傷口が塞がるのを待っていると、目の前にライフル銃が差し出された。
「おはよう、断罪」
 浅黒い肌をした少年が白い歯を見せて笑っていた。看守だった。思えば彼の宿主はいつも断罪より若い。
 争乱のはじまりは、自由を叫んで暴徒化した民衆に対し政府軍が爆撃したことからだった。武装民兵をまとめていた元軍人は隣国を味方につけ、王宮の一部へ報復した。対立はやがて国家間のものとなった。国際組織の介入により各国で構成された連合軍も動きだしたが、戦況は悪化の一途をたどった。
 断罪の宿主は連合軍の一員だった。非武装地帯へ物資を運ぶヘリコプターに乗っていたが、民兵らに撃ち落とされた。情報がもれていたのだろう。内通者がいるのは常だ。むしろそうなることも織り込み済みといわんばかりに、半刻もたたないうちに連合国による激しい空爆がはじまった。いまごろは国境に各国の部隊が展開しているはずだ。
 断罪は晴れ渡る青空を見あげる。罪過の気配は国境の先にあった。
 連合国に助けを求めればすぐにも越えられるだろうが、同時に監視が付き行動の自由はなくなる。断罪は民兵になりすましたまま燻る町で機会を窺った。難民にまぎれてようやく軍の包囲を抜け出したときには片脚が潰れかけていた。痛みはあったが立ち止まることはしない。罪過のところまでもてば、それでいい。ライフル銃を杖にして足を引きずりながら瓦礫を乗り越え、廃墟でひとりの女を見つけた。罪過だった。
 壁にもたれて足を投げ出し、彼女は幽鬼のようにゆらりと顔を上げた。髪も肌も服も薄汚れていたが、目だけが暗い光を湛えていた。太陽よりも激しく、刀身よりも鋭く、月よりも冷たく、陽炎のように掴みどころがない。喜びも怒りも哀しみもすべて飲み込んだ、鮮烈に白い情熱だった。
 罪過は断罪に気づいても逃げることなく、掠れた声で呟いた。
「ひどい……、臭いだ」
「おまえもな」
「鼻が曲がりそうだよ」
 肩を揺らして笑ったようだったが、声は途切れてむしろ嗚咽のようだった。彼女は腹に手を当てて目を伏せる。
「この女、身ごもったまま死んでいた」
 腹をさすりながらひび割れた唇を歪める。
「たった一度の死だからか、深い……深い悲しみと恐怖だ」
「恐怖、か」
 断罪は瓦礫へ腰を下ろす。
「罪過、おまえは死が恐ろしいか」
 疲れが一気に押し寄せて、ぼんやりとした思考がそのまま言葉になった。取り消すのも億劫で黙っていると、しばらくして罪過が首を横に振った。
「いいや……」
 場違いなほどやわらかく微笑む。
「本当にこわいのは目覚めることだ。わたしたちのように息継ぎをするだけの死は、死ではない。死とは、死を知ることもできないような永遠に踏み入ることだろう」
「死を知らない永遠なら、おれたちもそうじゃないか」
「死について思い巡らすことができるうちは、死んではいない。もちろん、これを生きているとも言わないけれど」
 ガラスのない窓からすこしずつ夕闇が忍び込み、しばらくすると霧のような雨が降りだした。煮詰められた夕陽が雲の隙間から射して、雨は絹糸のように光った。
 けれどすぐにも日は傾き、明かりのない廃墟はみるみる闇に飲み込まれていく。
「断罪、おまえは知りたくないか。この転生のはじまりを、わたしたちの罪のかたちを」
 囁きは夜の湖のようだった。断罪はライフル銃にもたれかかって鼻で笑った。
「望んだところで叶わない。この宿命も変わらない。変わらないなら、思うだけ無駄だ」
「そう……。だったらこの命もまた無駄になる」
「繰り返すばかりの命に何か意味があるとでも。これは罪に対する罰だ。それ以上でも以下でもない」
 断罪は立ち上がり、銃の先を罪過へ向けた。
「望むべきは〈浄化〉だろ。まあ、望んだところでどうにもならないが、な」
 引き金に指をかけて、ゆっくりと息を吸う。
「生きているとか死んでいるとか、いのちだとか〈浄化〉だとか、そういうことを考えるから苦しくなる。おれが断罪で、おまえが罪過。この名こそが在り方のすべてでいい。そうは思わないか」
 雷が廃墟を照らした。闇のなかに互いの姿が浮かび上がる。そのとき断罪は、青白く染まる罪過の手に銃が握られているのを見た。
「え……」
 すぐに薄闇が戻る。一瞬の光のせいで夜目が利かなくなる。断罪は狙いが外れているとわかりながら、撃たずにはいられなかった。弾が切れるまで撃ちきると、闇の向こうから小さな笑い声が聞こえた。
「もう終わり?」
 撃鉄を起こす音がする。
「やめろ」
「死を恐れているのはそちらのようね」
 風船が割れるような乾いた音がして、体が後ろへ強く押された。続けて風が抜けていく。三発目までは数えていたが、そのあとのことは何もわからない。次に目覚めたとき目の前にあったのは廃墟でもライフルでもなく、月も星も見えない、タイルの目地のような夜空だった。
 油断していた、不運だった、どんな言葉を並べても納得できなかった。殺されるのはおれの役割じゃないはずだ、という思いで思考が滞る。自分の死に顔を見下ろす罪過を思い浮かべると、悔しさと恥ずかしさが込み上げた。
 あのあと罪過はどうなったのだろう。今生の異変は直前の死にあるのではないだろうか。そんなふうに考える。
 断罪は血のにおいに急かされ、狭いユニットバスへ入る。熱いシャワーを浴びていると、古い塗装が剥がれるようににおいは消えていった。思考や感情の澱みも洗い流されて、肉体は器へと研がれていく。しかし、どんなに石鹸をこすりつけても、いのちに染みついた死のにおいは落ちない。薄汚れた浴槽の縁に腰かけ、雨に打たれるように頭からシャワーを浴びる。排水口へ流れていく水を見つめていると、いのちが吸い込まれていくようだった。
 繰り返しに倦みながら、繰り返すことによる無風状態のいのちに安住していた。転生という殻のなかで断罪は目を閉じ、耳を塞ぎ、息をとめて、叫びを飲み込み続けてきた。思考することも、感情を吐き出すことも、生きることに付随する何を求めることもなく、ちらつく羽虫に刹那の殺意をぶつけるようにして罪過の命を奪ってきた。
 いつからそうなのか、なぜそうなったのか、遠い昔のことは覚えていない。だが罪過のことを考えると、いてもたってもいられなくなる。情欲と言われても仕方がなかった。それだけが断罪のいのちの軸であり、断罪が断罪自身であることの証明でもあった。
 このいのちには、罪過に撃たれてできた穴があいている。その穴を埋めるには、罪過でないと意味がない。素直にそう思えた。ならば罪過を叩き起こして殺すまでだ。
 風呂を出て部屋へ戻ると、カーテンの外に光を感じた。空は白みはじめていた。洗いたてのジーンズをはいて、扇風機の前に座る。
 沙々奈は眠っていた。断罪の素性を疑うことなく、安心しきっている寝顔だった。なにかざわざわとした気持ちが肉体から断罪へと染み出してくる。
 断罪は覆いかぶさるようにして顔を覗き込み、沙々奈の唇に指で触れた。ざわついた気持ちはやがて都々の記憶として断罪へ語りかけてくる。
『ねえ、おにぃ、もしわたしが妹じゃなかったら』
 ひと月ほど前のことだった。真夜中に居酒屋の仕事から帰ると部屋の前に沙々奈が座り込んでいた。昼には大学へ出てこなくてはならないから寝かせてくれと言う。追い返すわけにもいかず仕方なく上げると、勝手にエアコンをつけ、勝手にスウェットに着替えて、あっという間に布団を占領された。都々はあまった毛布を敷いて横になり、すぐに眠った。
 都々の首筋を何かが掠めた。払いのけようとするがままならない。目を開けるとすぐそばに沙々奈がいた。起き上がって、都々を覗き込んでいる。触れていたのは彼女の長い髪だった。
「なにしてんだ、はやく寝ろよ」
「おにぃは彼女とかいる?」
「答える必要なし」
「いるんだ。わたしよりかわいい?」
「意味がわからん。寝ないなら帰れ」
「ねえ、おにぃ、もしわたしが妹じゃなかったら」
 沙々奈は急に黙り込んで都々のTシャツを強く握った。いつもと違う様子に眉を寄せる。
「なんだよ」
 続きを催促しても沙々奈は唇を引き結んでいた。やがてそれまでの自分をなかったことにするように、へらっと笑う。
「なんでもなーい。おやすみ」
 ころんと転がって背を向けると、沙々奈はもう振り返らなかった。丸くなった背中を見やって、都々はふと自分の唇に触れた。ほんのり甘い香りがした。
 昼近くになって起きると、沙々奈はもういなかった。卓上には空になったプリンと、次はチョコプリンでよろしくとメモが残されていた。
 あのとき沙々奈がしたように、断罪は沙々奈を覗き込む。
 断罪の濡れた髪から雫が落ちて、沙々奈の頬を伝っていった。それでも気づかずに眠っている。
 思えばあの日、沙々奈が帰ったあと玄関の鍵は閉まっていた。午前中、都々が寝ているあいだに合鍵を作ったのだろう。そしてその鍵で昨夜も勝手に部屋へ上がったのだ。いったい、なんのために。
 断罪は沙々奈へ顔を近づけた。前髪が額に垂れ、鼻先が触れそうになる。唇からあのときと同じ香りがした。
 なぜ沙々奈は死んだのか。自殺だとしたら、実兄への恋心に身を焦がして死んだのか。だからこの部屋で死んでいたのか。たったひとつのキスを秘めて、兄にすべてを委ねるように……。
 くだらない。
 断罪は胸のうちでわらう。そんなことで死んでしまえる沙々奈の脆さに呆れ果てた。
「沙々奈」
 呼び声は死の間際まで彼女が求めていたであろう、兄のものだ。だが一度死んだ彼女は何も知らず穏やかに寝息を立てている。
 指で顎をなぞって、包み込むようにして喉を掴む。やわい肌の向こう側に流動する血潮を感じた。細い首だ。ほんのすこし力を込めたなら、すぐにでも折れてしまう。
 どうすれば罪過を目覚めさせることができるのか、断罪には見当もつかない。看守は〈浄化〉の兆しかもしれないと言ったが、何もできないまま、殺さないままずるずると日々を過ごすことに、断罪は耐えられそうになかった。
 縊ろうとする指先に力を込める。翅のように薄い瞼が震えた。不意の暴力に抗うように、ただ生きようとするように、手のひらに鼓動が伝わってくる。助けてと、無言の叫びが聞こえてくる。健やかな寝顔に死に顔が忍び寄る。
 断罪の胸のうちはしんと静まり返って、凪のように穏やかだった。これは罪過ではないといのちが判断したのだろう。体から力が抜けていく。根拠も条理もなく、命を選り分けるために殺すのは、無為に命を繰り返すのと同じく詮無い。
 断罪は沙々奈から手を離し、きちんと布団へ寝かせてやった。頬を伝った雫はいつのまにか乾いていた。
 カーテンが風に揺らぎ、どこからかパンの焼ける香りが漂ってきた。
 一度死んだ肉体でも、眠気や空腹は生きているときと同じようにある。断罪は手近にあったシャツをはおって、部屋を出た。