いつかの花(3)

 ふと、自分の立っている世界が信じられなくなる瞬間があった。
 目に映るもの、耳を震わすもの、手に触れるもの、すべてが薄いベールをかぶったように曖昧になり、生きるものの世界から隔絶される。そんな瞬間があった。
 命を経験しすぎたせいだろう。死と無縁の存在とは、死だけでなく生からも遠い。生きびとと死にびと、どちらになることもできず、どちらでもない世界をあてどもなく漂っている。
 最寄り駅の公衆電話から実家の電話にメッセージを残す。
「おれだけど。沙々奈、しばらくうちに泊まるって。詳しいことはまだ聞いてないけど、あいつのことはおれに任せてほしい。あと、おれの携帯いま壊れてて、修理が終わればまた連絡するから。……」
 不審に思われないよう、都々なら他にどんなことを言うだろうかと考える。そうしているうちに受話器が鉛のように思えてたまらず乱暴に下ろした。
 沙々奈が帰らないのは彼女がもう死んでしまったからで、都々の携帯電話は修理も新調されることもない。連絡だってこれきりのつもりだ。
 嘘ばかりの伝言だ。
 このいのちに関わるものはどれもみな嘘ばかりになる。
 断罪はその足で都々のアルバイト先へ向かった。店は十一時からのランチ営業を控えて、昼番の従業員が準備を始めていた。なかへ入ると、オープンキッチンにいた店長がすぐに気づく。
「おう柚木、おはよう」
「おはようございます」
「あれ、ランチ入ってたっけ?」
 三十路には見えない童顔の店長は青縁のメガネを押し上げながら、壁のシフト表を確認する。
「違うんです、これ」
 しわだらけになった紙を差し出す。
「ああ、中旬のシフトか。うわっ、どうした、小学校の机の奥に挟まってたプリントみたいになってるけど」
「すみません」
「しかも、もしかしてできてない……?」
「はい」
「盆休みの調整はやっぱ厳しかったか」
「あの、辞めたいんです」
「シフト組むの、嫌か」
「そうじゃなくて、店を辞めたいんです」
「その冗談はおもしろくないなあ」
「冗談じゃないです」
 断罪は強い口調ではっきり言った。奥にいたスタッフも思わず手をとめた。店長はメガネの奥の目を何度もしばたかせた。
「えーっと、ちょっと座って話そうか」
「話しても変わらないんで」
「いやいや、そういうわけにはいかないっしょ。正社の話だって出てたのに」
「もう、長くいられないんで」
「引っ越すの」
「まあそんな感じです」
「そんな感じって……」
 椅子にかけて煙草を取り出した店長は、呆れたように鼻で笑った。
「突然辞めていく子はたくさんいるけど、柚木はそういうキャラじゃないと思ってた」
 店長の言うとおりだと断罪は心のなかでうなずいた。本物の柚木都々ならこんなことはしない。
 濃い煙を吐き出しながら、店長はぼそりと呟く。
「家でなんかあったか」
「え」
「前に言ってたろ、妹さんにはちゃんと大学卒業してほしい、だけどお母さんに苦労かけたくないって。それでだいぶ無理してシフトも入ってたよな。もしかしてどこか具合でも悪いんじゃないのか」
「いや、そんなことないです」
「言いたくないことなら言わなくていいけど、でも柚木の正直なところは聞かせてほしい」
「そんなの……」
「そういう事情があるなら遠慮せず、しばらく休みとってくれても――」
「あんたには関係ないだろ!」
 気がついたときには怒鳴りつけたあとだった。店長は言葉を失って、断罪をぼんやり見つめていた。都々ならこんな言い方はしない。
 見た目は昨日までと何も変わらないが、中身はまったくの別人なのだ。どんなに宿主の人格を真似たとしても、かならずぼろが出る。ましてや自分のいのちをまっとうに生きたこともない断罪には、人とどう関わることが正解なのかわからない。まさか他人の死体で転生していると気づかれることはないが、不審に思われ相談や通報をされるのは面倒だった。
 店長はため息をつくように紫煙を吐いて、驚きも怒りも情けもすべて払い落とした。
「そうか。わかった」
 まだ長い煙草を灰皿でもみ消して、店長は断罪の横をすり抜けていく。
「バックヤードの私物、持って帰れよ」
 強力な空調が煙草の香りをすぐに掻き消す。断罪は店長の背中を見送り安堵の息をついた。
 バックヤードでロッカー代わりにしているカラーボックスには、借りたままの漫画や雑誌、もらいもので未開封のクッキー缶、くじで当たったフィギュアが入っていた。借りものはすべて持ち主の棚に返し、クッキー缶は封を開けてテーブルに置き、フィギュアをごみ箱へ捨てると、そこにはもう何も残らなかった。この店にあった柚木都々の世界は一瞬で消え去った。
 ハンガーにかけてあった制服から名札を外す。名前の空白には都々の生真面目な字で、いつも笑顔でと書かれていた。
『せっかくだからかわいくしましょうよ』
 手近にあった黒いサインペンで書こうとすると、学生アルバイトの女の子が慌てて色ペンを差し出して言った。
「かわいく?」
「お客様の目に触れるものだし、華やかなほうがいいじゃないですか」
「おれは見ないけどな、店員の名札なんて」
「それは柚木さんだけです。みんな結構見てるんですよ」
「そういうものかな」
 渡されたキラキラのペンを持て余していると、彼女は夏空のように青いペンを出してくれた。
「柚木さんは普通にひとこと書いてください。わたしがデコります」
「ああ、ありがとう」
 彼女とはそのあとすこし付き合ったが、彼女が店を辞めて自然消滅した。
 断罪はやわらかいプラスチックケースごと名札を握りつぶす。ラメ入りのインクで描かれた星が軋むような叫びを上げる。ひどく耳障りで、たまらずごみ箱へ投げ捨てた。
 バックヤードから出ると店中から視線を感じた。だが誰も話しかけようとはしない。断罪は財布に入っていた従業員証を、吸い殻が残る灰皿の横に置いて店を出た。
 アパートへの帰り道、路地に人だかりができていた。立入禁止の黄色いテープが貼られている。そこは昨夜、都々が刺された場所だった。制服を着た捜査官がアスファルトに残された足跡を写し取っている。
「血の海だったらしいよ」
「死体がないってほんと?」
「いくつも足跡があったって。どっかに埋められたんじゃないかって話」
「でも誰も見てないなんて」
「暗かったらわかんないでしょ。たとえ人が死んでても」
 野次馬が口々に不確かなことを囁きあう。
 断罪は足元を見下ろした。捜査官が調べている靴ならここにひとつある。大型量販店で買ったもので個人を特定するのは難しいだろう。警察には犯人はおろか、被害者だって見つけられないはずだ。証拠がないからではない。まさかこれだけの血を流しながら生きているとは考えないからだ。野次馬や記者を横目に、断罪は路地から離れた。
 ただ、ひとつ気になっていることがある。それは都々を刺した男のことだ。都々には特に親しい友人もおらず、特定の恋人もいなかった。悪い癖はないがつまらない男、そう言われても否定することなく、ただ黙々と働き続けていた。殺されるほど人から恨まれる理由が見当たらない。
「通り魔だとしたらこわいよね」
「だからって早く帰る気もないくせにー」
 セーラー服を着た少女らの騒ぐ声が背中に届く。断罪は彼女らの言葉を胸のうちで否定した。通り魔ではない。あの男は、柚木都々かと名前を確認してから刺したのだ。
「あ、都々ぉ!」
 前から歩いてきた女が大きく手を振った。そのたびに短いスカートが揺れて、脚のさらに上が見えそうになる。断罪は道を変えようと踵を返す。
「やだもう、なんで無視かな」
 女は断罪の腕に抱きついた。ゆるく波打った髪が寄り添う。甘いバニラの香りが熱気に混じって絡みついてくる。
「ごめんね最近連絡できなくてー。なんかね、レナの新しいカレシすっごい束縛する人で」
「離れろ」
「えー、なに、なんか冷たくない?」
「暑いから」
 腕を引き抜こうとするが、彼女の胸が邪魔をして身動きがとれない。断罪は舌打ちを洩らした。
「あれ、血ぃ出てる」
 からめとられていた手を見ると、親指の付け根が血で汚れていた。名札を握ったときに切ったのだろう。
「ああ……」
「そんな、ああ……じゃないよ。消毒してあげる」
 バイキン入っちゃうんだからと足をばたつかせ、レナはさらに強く断罪へ抱きついた。背伸びをして、耳元へそっと口を寄せる。
「ね、行こっか」
 どこへとは訊かずともわかった。だが話の脈絡がわからない。
「は?」
「やだもう」
 いまさら照れる振りをして、レナは断罪を引っ張り歩きはじめる。
「昨日見た戦争のテレビでやってたんだけどね、昔は小さな傷が原因でたくさん人が死んだんだよ。だから都々も気をつけなきゃぁ」
「死ぬかよ、こんな時代に」
「しーぬーのぉ。いいから行こーよぅ。都々の右手、レナ大好きだよ」
 抵抗が無意味に思えて、断罪は引きずられるままホテルへ連れ込まれた。