11月11日

 自分の声も聞こえないような騒音のなかにいた。
「ねえ、柚木」
 インカムからマネージャーの声が聞こえた。通路の端と端とで視線を交わす。彼女は昨日の夜と同じ目をして笑った。
「今日はもう上がっていいよ」
「でも俺、シフトでは――」
 都々がそこまで言うと、彼女は口元に人差し指を立てた。声がないまま、家で待っててと口が動く。
「わかりました。お疲れさまでした」
「はーい、おつかれー」
 ひらひらと手を振りながら、彼女は床に落ちた煙草の吸殻を拾って去っていった。
 兄ちゃんこの台全然出ねえじゃねえかと絡んでくる酔っ払いを笑顔であしらい、都々はバックヤードへ戻った。音の嵐から解放されても、耳の奥に残響が流れ落ちていく。インカムを外してネクタイを弛めると、途端に今夜もマネージャーに会うのが億劫になった。テーブルの上に置かれていたポッキーを乱暴に噛み砕き、のろのろと着替えはじめた。面倒なので煙草くさいシャツはそのまま、スラックスをジーンズにはきかえる。ジャケットから携帯電話を取り出して、かわりにポッキーの箱を差しこんだ。
 店を出ると、外はすっかり暗くなっていた。冬の午後六時は人をひどく憂鬱にする。
 電話をひらくとメールがいくつか届いていた。そのなかのひとつは沙々奈からのものだった。
『これからユカちんと映画観にいくよ。おにぃの仕事の近くんとこ(ふかふかでキレイだからお気に入りなの!)……でね、もし仕事なかったら一緒にご飯しよ? お母さん今日は仕事遅くなるらしいんだー。映画、六時半には終わると思うから、返事ちょーだいね! かわいい妹より』
 沙々奈からのメールは絵文字やデコレーションの洪水だ。都々は一切使わないので、おにいっていつもメールで怒ってるよねと言われる。怒ってなどいない。ただ、絵文字では自分の気持ちを伝えられないだけだった。絵文字だけではない。どんな言葉も都々の心を表すことはない。都々自身がそれを望んでいなかった。そもそもこれはあってはいけない思いだ。
 返信しようとした親指がふととまる。マネージャーに家で待っててと言われたことを思い出したのだった。人が増えてきた目抜き通りを歩きながら、都々は雑踏にため息をこぼした。
 ぼんやりと人の流れに流されていると、沙々奈のいる映画館が四つ角に迫っていた。マネージャーの部屋へ行くなら、映画館の手前の細い道を左へ折れねばならない。
 都々は自分の真意から目をそらし、人々の歩みに流された。
『いいよ。映画館前にいる』
 さらに向こうへ行く人のあいだを縫って、映画館へ辿り着く。公開映画一覧をざっと眺めてから、エレベーター前の壁にもたれかかった。行き交う人々は誰も足早で、男も女も、老いも若きも、誰もがさきほどまでの都々のように人波に歩かされていた。誰が作り出したかもわからないスピードを、みなが律儀に守っている。それに反抗するものは見当たらない。だが流れの外へ出てしまうと、ひどく滑稽に思えた。
 なんとしても守らねばならない暗黙のルールなど、はたして本当に存在するのだろうか。
 なんとしても隠さねばならない本当の気持ちなど……。
 都々はポッキーをくわえて、折った。
 視界の端でエレベーターの扉がひらく。六時半にはまだ早い。都々は急に空腹を覚えはじめ、次のポッキーに手を伸ばした。指でつまんでいるのがわずらわしくなり、口にくわえたまま食べた。唇の体温でチョコレートが溶けていく。
「わたしにもちょうだい」
 声に驚いて下へ視線を向けると、くわえていたポッキーに制服姿の沙々奈が食いついてきた。都々はうっかり口をあけてしまい、ふたりのあいだにあった部分が足元へ落ちた。
「あー、もったいなーい」
「びっくりさせんな。それより早かったな」
「うん、エンドロールになったから先に出てきちゃった」
「なに食いたい」
「今日ちょっと寒いからお鍋とかがいいなー」
「んじゃ、居酒屋にするか」
 頭のなかに店をいくつか思い浮かべながら歩き出そうとすると、沙々奈に腕を引っ張られた。
「なんだよ」
「ついてるよ、おにぃ」
 沙々奈は自分の唇を指し、そこを舌でぺろりと舐めた。赤い小さな舌は、黒に近い濃紺の制服とグレーのカーディガンを着た無彩色の彼女に、閃光のような彩りを与えた。
 腕を絡ませてくる沙々奈を払いながら先に人波へ飛び込む。唇を舐めると甘いチョコレートが舌にしびれるようだった。