the Dream Deliverer 夢屋

02.Drift

 金色に染まる空は、悲鳴と似ていた。今日一日で世界に吐き出された悲しみが、愛しさが、怒りが、喜びが、虚しさが、全てかき集められ、見分けもつかないほど束ねられ、一つの大きなうねりとしてあった。
 耳の奥にまで響く潮騒は、空から零れ落ちた悲鳴の欠片のようだった。それは波に呑まれて激しさを喪い、ただ穏やかに打ち寄せた。濡れては乾く砂浜は、かつて流した涙の名残にも見えた。
 流木が転がる砂浜を、男がゆっくりとした足取りで歩いていた。分厚い外套の裾は擦り切れ、煤けたように汚れていた。穴の開いたブーツからは、細かい砂が入った。体は汗ばみ、喉は水を求めた。
 粘り気のある海風に、被っていたフードが煽られる。髪を抜けていく風は、湿り気の中に冷たさを併せ持っていた。透けるような淡い金髪が、夕映えの輝きに彩られる。男は立ち止まって、海原を眺めた。その瞳は、昼間の海のように青い。
 男は水平線を睨みつけるように強く見つめた。短く舌打ちする。体の奥底から湧き上がる闇が、男の自由を奪おうとしていた。端正な顔は、痛みを堪えるように歪む。喉の渇きは、いつしか力への渇望に変わる。男は内側で蠢く意志に抗い、歯を食いしばった。闇は男の懸命さを嘲笑うように、残り少ない夢を侵食していく。
「渡すものか」
 膝をつき、砂を掻く。共に光を目指していた夢が、断末魔の叫びを上げる。海に突き出した崖は、もがき苦しむ世界の爪にも見えた。
「俺が救うと約した夢だ」
 首筋を伝う汗が、砂に落ちた。太陽が握りつぶされるように光を絞られていく。流れるように空に漂う雲の腹は、強すぎる輝きに色を奪われた。
 息は途切れ途切れになり、空が次第に光を無くしていくように、男の意識は波にさらわれた。

 戦火の街を少年は走った。手には少しの金貨と銃を握り締めていた。方々から火の手が上がり、街はほとんど死んでいた。右手からの断続的な銃声に少年は崩れた壁に身を隠す。短い悲鳴があって、銃声はやんだ。金貨を握る手は、冷たく濡れていた。
 地の底から沸き起こるような戦車の地響きがあった。少年は這いながら瓦礫に潜り込む。息をとめて頭を抱え、戦車が行き過ぎるのを待つ。だが振動は近付いていた。細かい砂礫が肩に落ちる。すぐそこにいる。声が聞こえた。兵士が叫ぶ。街を焼き払え、と。膝が小刻みに震えた。少年にはそれが恐怖によるものか戦車の地響きによるものか、わからなかった。

 頭の奥で鳴り響くざわつきに、目を覚ます。青空の見える窓から、潮騒が漏れ聞こえていた。一息ついて、夢を見ていたことを悟る。
「気がついたみたいですね」
 不意の女の声に、男は寝台から飛び起きる。だが、ひどい頭痛がして、そのままうずくまった。
「急に動かない方がいいですよ」
 女の手が伸びてきて、そっと寝台に押し戻される。ぼやけていた視界が、徐々に像を結ぶ。すぐそばには、褐色の肌の女がいた。
「ここは」
「南の端です。あなた、倒れていたんですよ。あの砂浜に」
 女は窓の外を指差した。
「驚きました。馬も車もなしに」
「君が助けてくれたの。ありがとう。ここまで運ぶの大変だったでしょう」
 青く透徹した瞳を細めて、男は言った。
「あの、ごめんなさいね。引きずって、服が少し傷んでしまったみたい」
 壁には、ぼろ布に近い服がかけられていた。男は苦笑した。
「いいや、あんまり変わらないよ」
 男はゆっくりと起き上がり、寝台に腰かけた。目の前に立つ女を見上げる。布の少ない服から伸びた腕や脚はしなやかに引き締まり、胸元まで濡れたような黒髪が垂れていた。眉は濃く、麦色の瞳には彼女の意志の強さが窺えた。唇は厚く肉感的で、笑うと頬が窪んだ。
「君の名前、聞いてもいいかな」
「サーシャ。あなたは」
「そうだね。夢屋、とでも言っておこうかな」
「夢屋……変わった名前ですね」
 サーシャは白い歯を見せて笑った。夢屋は、彼女につられて微笑んだ。心の底の眼差しが、サーシャの夢と闇を探る。だが、そのどちらも、彼女の中には見出せなかった。思わず夢屋の表情が凍る。
 部屋の中はこぎれいに整理されていて、むしろ殺風景なほどだった。
「サーシャは、一人で暮らしているの」
「ええ。あ、でも遠慮しないでください。お客様をおもてなしするくらいの用意はありますから」
「でも僕、あまりお金持ってないよ」
 夢屋が恥じ入る様子なく告げると、サーシャは落胆を持て余した。夢屋は寝台のそばに置かれた自分の荷物を見遣る。彼女が手をつけた形跡はなかった。その潔さをよしとする。
「ねぇサーシャ。一人だと大変なこともあるんじゃないかな」
「え」
「ほら、たとえば力仕事とか」
「そう……ですね、そういうこともありますね」
 サーシャは夢屋と目を合わせようとしない。夢屋は寝台から立って、彼女に顔を近づけた。
「文無しでも、君への感謝は変わらないよ。何か、手伝わせて」
 すぐ間近で見る夢屋の整った笑顔に、サーシャは言葉を奪われた。陽に灼けた頬が淡く染まる。彼女はそれまで、これほど美しい顔の男を見たことがなかった。
「あの、えっと」
「いいよね」
 夢屋はサーシャの手を取った。
「あ、はい」
 反射的に頷いて、サーシャは笑みをこぼした。
「見かけによらず、強引なんですね。そんなにしてまでお礼したがるなんて人、初めて見ます」
 そう言って破顔するサーシャにも、やはり闇と夢は見えなかった。
「お腹すいていませんか。食事の用意しますね」
 彼女は水を汲みに、上機嫌で部屋を出る。確実に扉が閉まるのを待って、夢屋は寝台に倒れこんだ。彼の鞄から、七色の微かな光が染み出てくる。
「俺はどうしていつまでも、こう無力なんだろうね」
 犠牲になっていく夢の欠片に詫びながら、夢屋は外から聞こえる波音に聞き入った。

 家の屋根にのぼり、傷んだ箇所に新しい板を打ち付ける。
「大丈夫ですか」
 下からサーシャの声がした。夢屋は釘を咥えていたので、手を上げてそれに応える。釘を全部打ったあとも、口の中に鉄の味が残った。
 崖の上に建つだけあって、屋根の上はさらに風が強かった。だが夢屋は屋根の修理が終わった後も、なかなかそこから降りようとはしなかった。南国の派手やかな陽射しを受けた海原は、青を飛び越えて白く輝いていた。空との境界では一層濃い青が連なり、重い綿のような雲が生まれ出ている。振り返ると、遠く霞む国境の山際まで、森と街が交互に眺められた。
「きれいでしょう」
「ああ。とても」
 夢屋は工具を片付けて、屋根から降りた。
「街までは少しあるんだね」
「ほんの少しね」
「不便じゃないの」
 サーシャから借りた服の袖で、汗を拭う。生成り色の服は、夢屋の白い肌にはあまり似合わなかった。
 彼女は街のある方を見遣って、小さく首を振った。
「ここは海からの恵みが豊かだし、森に入れば木の実もあるから。そんなに苦労はしないの」
「そうか」
 話すほどに、彼女の悲しみがすぐ横をすり抜けていった。それは夢屋には癒しきれないような、深い悲しみであった。だが、彼女には闇がない。その理由を見極めようとするが、きっかけすら掴めなかった。
「夢屋さんは、世界中を旅しているの?」
「この身なりだと、東にはなかなか行けないけどね。それ以外はだいぶ」
「私、ここから出たことがないの。世界って、どんな所? この海のように広いのかしら」
「難しい質問だな」
 地面には僅かに屋根の影があった。二人はそこに並んで座って、海に向き合う。
「世界は君が思っているほど、広くないよ。どこへ行っても同じようなことで争い、傷つけあい、憎しみあっている」
 目を閉じると、かつて訪れたことのある街の景色がいくつか浮かんだ。どれも今は存在しない街ばかりだ。夢屋は立てた膝を抱え、空と海の狭間を見据えた。
「ひどいものだよ。こことは別世界だ」
 知らず、拳に力が入る。夢屋は内なる闇に飲まれないよう、深呼吸をした。
 サーシャは風に乱れる黒髪を手で押さえた。
「ねぇ、夢屋さん。楽園の伝説をご存知」
「楽園って、なんだい」
 彼女を振り向くと、微かな闇の陰があった。だがそれは彼女から滲む闇ではなかった。
「この地方に古くから伝わる話よ。よく晴れた満月の夜に海の端の向こうへ渡れば、そこには神様が暮らす楽園があるの」
「神の、楽園」
 繰り返し呟いて夢屋は、それがこの世の話ではないと勘付いた。そうでなければ、神は決して楽園などに暮らすはずがないし、そもそも神の存在も曖昧だからだ。海の向こうにあるのは楽園ではない。無だ。
 少なくとも夢屋が知る神は、楽園ではなく戦場にいた。
「私の兄と妹が楽園に向かったの。もしもたどり着けたなら、神様の御慈悲を頂いて帰ってくることが出来るのよ。一年後の満月に」
 そう語るサーシャの横顔は、明るく希望に満ちていた。彼女には夢がもつ危うさがなかった。
「どうして君はここに残ったの」
 ひたひたと迫る絶望を感じながら、夢屋は彼女に話をあわせた。サーシャは肩を竦めて首を傾げた。
「私がいないと、みんなの帰ってくる場所がなくなるから、かな」

 夜空はけたたましいほどの星の輝きに覆われていた。黒と見紛う夜の深さは神々しい満月に遮られ、砂浜は白く浮かび上がっていた。世界は血潮にも似た波音に満ちていた。
 寝台に座って、窓から海を見下ろす。夢屋は氷のように冷えた眼差しで世界を望む。一所に定まれば、闇はすぐにも心に入り込んでしまう。
 楽園の話を聞いてから、夢屋は考えていた。どうすればサーシャを守ることが出来るか。どうすれば海の向こうに憧れた夢を全て掬い上げることが出来るか。だが、答えは出なかった。多くを求めれば、たとえ夢であっても魂を喰われてしまう。残る希望は、夢が夢屋を求めてくれることだけだった。
 窓のすぐ下には、サーシャがいた。大地の縁から海を臨む彼女は、灯台の明かりのようだった。
 冴え冴えとした月明かりが、霧雨のように地上に降る。窓から腕を出すと、肌に光の粒子が舞い降りた。
 サーシャが短く声を上げた。
「見て。海の際に、何かあるわ」
 夢屋がそちらへ目を向けると、水平線を越えてくる光があった。海に映る星でなければ、月明かりの揺らめきでもなかった。明らかに異質な存在だった。
 すぐに直観した。夢屋にはそれが夢だと。
 部屋から飛び出ると、サーシャは砂浜へ下りる道へ走っていた。夢屋は彼女を追って走る。砂に足を取られ、思うように進めない。走り慣れたサーシャは夢屋からみるみる離れていき、その勢いのまま海へと踏み込んだ。
「サーシャ! 待つんだ!」
 夢屋は最後に残っていた夢の小瓶を握り締めた。中に押し込められていた光が息を吹き返し、七色に輝く。煌きは溢れ出し、夢屋の体を包んだ。
「ごめんね。無駄にはしない」
 駆ける足は軽やかになり、風のようにサーシャに追いついた。腰の高さまで海を突き進んでいた彼女の体を、後ろから抱きとめる。
「行ってはいけない。呑まれるぞ」
「離して。みんなが、みんなが帰ってきたのよ。私が迎えてあげないと、誰が抱き締めてあげられるの」
 サーシャは力任せに夢屋の腕を振り払おうとするが、彼女が思う以上に彼の腕は頑丈に出来ていた。夢屋はサーシャを抱きかかえて、砂浜まで戻った。倒れこんで砂まみれになる。腕の中の麦色の瞳が、夢屋を睨みあげた。
「どうして邪魔をするの」
 闇が滴っていた。夢屋は彼女の体を覆う闇を手で払った。
「迎える者が行ってはいけない。待ってあげるんだ」
「だけど」
「そうしないと、彼らは道を見失ってしまうんだよ」
 強い口調で言って、夢屋はさきほどまでサーシャがいた黒い海を指差した。そこだけに、異様なほどの光が集まっていた。サーシャは息を呑んだ。
「いつまでも漂流者のままだ」
 夢屋は立ち上がり、サーシャに手を差し伸べた。彼女は過ちに恐れながら、夢屋の手を取った。夢屋は立ち上がった彼女の肩を抱いた。
「呼んであげて」
「そんなことで、本当に」
 不安げに夢屋を見上げる。夢屋は彼女の唇についた砂を指先で払った。
「大丈夫。あとは僕がやってあげるから」
 そう言って、夢屋は無邪気に目を細めた。彼の至純の笑顔に、サーシャは背中を押された。頷いて、夢屋の腕に掴まり立つ。言葉を口にしようとするが、涙ばかりが溢れて声が出ない。何度も息を飲み込んで吐く。
「みんな、おかえりなさい」
 サーシャの声が海に響いた。行き先を見失い漂っていた光が、さらに輝きを増して駆け寄ってくる。彼女が大きく腕を広げると、光が彼女の体を覆いつくした。まるで彼女自身が輝いているようだった。
「伝わる、伝わるよ。みんながいる」
 流れる涙を拭うことなく、サーシャは光を抱き締めた。夢屋はそんなサーシャを抱き締めた。
「一緒に世界を見よう」
 夢の光は夢屋の存在をいぶかしんだ。不規則に瞬き、激しく動き回る。
「約束する。見捨てたりなんかしないよ。ほら。神様に、近付こう」
 輝きが弱まる。夢は揺れていた。
「大丈夫。消えたりしないよ。僕は君の夢だから」
 夢屋に近いところから、波紋が広がるように光が七色に映えた。海を漂いようよう帰ってきた夢は、どれも冷たく濡れていたが、同じくどれもが研ぎ澄まされた生命と夢を保っていた。彼らは海と結ばれ、海に散った。その残滓だ。最期に残された夢の清々しさに、夢屋はサーシャの兄弟が穏やかに世界と一つになったことを確信した。
「きれい。きっと神様からのご褒美ね」
 サーシャが恍惚として呟いた。夢屋はさらに強く彼女を抱き締めた。
 砂浜から海の果てまでを、七色の眩耀の一線が貫いた。