the Dream Deliverer 夢屋

06.Diva

 あなたが来てくれてうれしいわ。

 女は艶やかに微笑んだ。真っ赤なシルクのスカーフを華奢な首に巻き、ステージの上で羽のように両腕を広げて歌う。
 小さな酒場に男たちの歓声があがる。手拍子が起こり求婚の言葉が飛びかい、店全体が彼女に酔いしれる。
 沸き立つ店の隅から男はステージを見つめていた。週に一度の彼女の出番を楽しみに、日々休むことなく港で荷運びをしている。つらい仕事ではあったが、身寄りがなく学もない男には他にできることもなかった。毎日同じことの繰り返しで、肌を刺す太陽が疎ましくなる日もあった。それでも彼女のことを思うと乗り越えられるのだった。
 男は彼女と目があった気がしていた。否、たしかに通いあったと、男は胸を高鳴らせる。
「すてきな歌ですね」
 そばにいた若い男が呟いた。女のように白い肌をした、育ちのよさそうな青年だった。そのくせ不思議と場末の酒場にいても違和感がない。年若い服装や顔つきに似合わず、彼の眼差しは暗く黒い。光を排除したその瞳が、酒場に渦巻く日常の狂気とひどくなじんでいた。男は奇妙に感じて眉をひそめた。
「あんた、この街ははじめてか」
 男の問いに、青年はにこやかにうなずいた。笑うと八重歯がのぞいて急にあどけない顔になる。酒も手伝って、男の警戒心はすぐに取り払われた。
「いい歌だろ。彼女はディーバだよ。だれにも穢されない、歌姫だ」
 自分のことを褒められたように男は得意げに胸をそらす。
「へえ。彼女をあいしているんだね」
「この街の男はみんな、彼女の歌で女を知る。愛して当然だ」
「そんなにあいしているなら、自分だけの歌姫にしたいとは思わないの」
「なんだって」
 思わず酒壜を取り落しそうになる。男はあらためて青年を上から下まで見やって、鼻で笑い飛ばした。
「ばかなことを言うな。彼女は誰のものにもならねえんだ」
「ほんとにそう思ってる?」
「何が言いたい……」
 青年は暗い瞳を細めて口を歪めた。
「彼女と目があったでしょう」
 嘘やごまかしを知らない男は返す言葉なく黙り込む。酒でほてった背中に寒気が走る。その瞬間全身から力が抜けて、立っていられなくなった。持っていた酒壜が床で割れて、薬品のようなにおいが広がる。飲みすぎたのだろうか、体のどこかが悪いのだろうか、男は考えを巡らせるがどれも心当たりはなかった。
 視線だけを天井へ向ける。灯りが届かない薄汚れた天井は、夜の海のように暗く黒く揺れていた。その景色のなかに、青年がぬっと顔を出す。男は悪寒に震えながら青年へと腕を伸ばした。
「あんた……おれに、なにを」
 問いかけても、青年は人差し指を唇に当てて笑うだけだった。男の意識はそこでぷつりと途絶えてしまう。
 だがそれに気づくものはない。誰も青年の姿を気に留めない。
 まるで、そこには誰の姿もないように……。

 獣の爪のような三日月が浮かぶ夜だった。
 街いちばんの歌姫は姿を消した。

 * * *

 陸と海の交易路を結ぶ港街は、昼夜を問わず人であふれかえっていた。大小さまざまな商船が港に並び、蟻の行列のように荷が運び出されていく。多くの商館がひしめきあい、さまざまな言語で取り交わされるやりとりは何かの呪文のようだった。
 逞しい男や威勢のいい女が行き交うなかに、ひとり異なる風情で佇む少女の姿があった。黒い服に身を包み、日よけの傘を白い手で差し、涼しげな眼差しでじっと海を見つめていた。荷運びをする少年は、真っ黒に焼けた自分の肌と見比べながら、まるで人形のようだと思った。
 少女は小さな口をすぼませて、ひとつため息をついた。少女は迷っていた。
 つい先ほどのことだった。旅の連れは道端へ小壜を並べながら言った。
「ねえ、君の願いは故郷へ帰ることだったね。この港から船に乗れば、半月かからないけれど、どうする?」
「そうね、はやく帰れるのは嬉しいわ」
「うん、だったらここでお別れだね」
「どういうこと。あなたは来てくれないの」
「ああ」
 フードを目深にかぶってしゃがみ込んだ夢屋の顔は、少女からは窺えない。彼の声は煙のように儚く、声だけでなく姿まで街の喧騒に掻き消されてしまいそうだった。
「僕は、ここから離れられないから」
 夢屋はそう言って、海のように青い目をやわらかく細めた。
 しばらく考えさせてほしいと告げて、黒のドールはひとり港へ向かった。そしてぼんやりと動く景色を眺めている。
 故郷へ帰りたい。その思いは嘘ではない。目の前に広がる海原は郷愁をいっそう強くする。だがいつしかドールにとって、夢屋と過ごす日々もまた捨てがたいものとなっていたのだ。突然どちらかを選べと言われても、そう簡単に答えは出ない。
 ここから離れられないと彼は言った。ここ、とはどこを指すのか。いくつもの街を通り過ぎてきた。街や国を指すものとは思えない。彼はドールに海を見せると、故郷へ行こうと言ってくれた。出来もしないことを約束するようなひとではない。
 目眩のようにぐらりと、信じたい気持ちが揺らぐ。ドールは足元に落ちる影を見つめた。
「ここ、って……?」
 出港する船が汽笛を鳴らす。そのときドールはすぐ隣に誰かが立っていることに気づいた。その気配に夢屋かと思い顔をあげると、人違いだった。
 落胆が顔に出たのか、隣に立つ男は困ったように微笑った。
「すみません、驚かせてしまいましたね」
「え、ええ。わたしのほうこそ、連れと勘違いしてしまい」
「悪いのはぼくのほうです。レディの隣に無言で立つなんて無粋なことをしました。許してください」
 青年は中性的な笑みを見せ、かぶっていた帽子をわずかに傾けた。ドールとおなじように黒い髪が陽の光に濡れている。
「誰かを待つふうではなかったので、気になってしまって。でもあんまり美しいから声をかけていいものか迷ってしまい……、そうこうしているうちに結局あなたに気づかれてしまった」
 話してみると、見た目よりずっと若々しく親しみやすい人物だった。笑うと愛らしい八重歯がのぞく。
 小さくなっていく船影を眩しげに見送りながら、青年は聞いてもいいですかと訊ねた。
「なにか思い悩んだ様子でしたが」
 ドールは恥じらいを押し隠して静かに返す。
「よくわかるのね」
「そんな、怒らないでください。あなたのように美しい人を見つめてあれこれ思いを巡らせるのは男の楽しみのひとつなのです」
 こほんと小さく咳払いをして青年は続ける。
「こうやってお話をしていただけているということは、その、ある程度期待をしてしまうのですが」
「けれどあなた、別にお困りではないでしょう」
「そういえば先ほどお連れがいらっしゃると」
「わたしの話を聞いていて?」
 呆れたドールは傘をあげ青年を見上げた。それを待っていたように、青年は笑窪を見せる。
「どんな方なのですか。あなたほど美しく聡明な女性が選んだひとだ。きっと素敵な紳士なんでしょう」
「紳士……。どうかしらね」
 先ほどまで胸を占めていた不安が苛立ちをつれてよみがえってくる。
「とは?」
 青年の心地よい声に促され、ドールは短く息をついた。
「とても優しいひとよ。誰に対しても等しく親切で慈悲深くて、心から尊敬してるわ。身なりに無頓着ですこしだらしないところはあるけれど、それも愛嬌に思えるくらい。でも時々、彼がなにを考えているのかわからなくなる。それにわたし、彼のことはなにも……」
 ふと喋りすぎたことに気づいてドールは口を噤んだ。いくら気持ちが沈んでいたからとはいえ、行きずりの話し相手にするようなことではない。
 いや、行きずりだからこそ気持ちが緩んだのかもしれなかった。
 日傘の縁、視界の隅で輝くものがあった。見やると青年が七色の小壜をかざしていた。
 よく見知った、夢の小壜だ。
「先ほど街で見かけましてね。夢が詰められているそうですよ。子ども騙しだとしても、素敵でしょう」
 青年が小壜を差し出す。受け取ろうとすると互いの指が触れて、ドールはとっさに手をひいた。はずみで小壜が落ちて割れる。
「ごめんなさい」
 薄い硝子は星屑のように粉々になり、七色の光は霧散して跡形もない。まるではじめからなにもなかったかのようだ。ドールは夢屋もまたおなじように自分の目の前から消えてしまうように思われた。
「ああ、もったいない」
 青年がしゃがみこんで小指の爪ほどの破片を拾いあげる。足元に腕が伸びてきて、ドールは思わず後ずさった。
「お怪我はありませんか、レディ」
「ごめんなさい、わたし……行かないと」
 どうにかそれだけを言い残して、ドールは駆けてその場を去った。
 膝や裾についた砂埃を払い、青年は立ち上がる。ドールの姿を目で追うが、やがて人混みにまぎれて見えなくなった。
 夜の海のように暗い瞳をゆっくり細めて、彼は指先につまんでいた硝子の破片を手のなかに握りこんだ。血と、七色の光がこぼれてくる。それらを洩らさず飲みこんで、
「ほんとうに、もったいないことをするなあ」
 どこまでも朗らかに誰にともなく呟いた。

 * * *

 河口近くの土手には、南から運びこまれた材木が並べられていた。良質で需要も多く、高値で取引される。商人らは人を雇って夜のあいだも警備させたが、大の男が十人二十人がかりで運んだ木材が万が一にも盗まれることはない。彼らは酒場の喧騒を遠く聞きながら、樽に腰をおろしてカードに熱中した。
 そのため、彼らは橋の下から聞こえる奇妙な音に気づかなかった。
 ざ、ざざざと、なにかが崩れる音がする。それは橋の下から聞こえていた。街灯の明かりも届かない暗がりで動くものがある。男だった。彼は土手の草地に座りこみ、手で土を掘っていた。両手の爪はほとんど割れて、手首まで泥と血ですっかり汚れていた。それでも男は掘ることをやめない。
 臭いを嗅ぎつけた野良犬がどこからかやってきて、男の背に向かって鋭く吠えた。低い声で唸りながら、いまにも男に飛びかからんとする。だが男が手をとめて振り向いた瞬間、犬ははじかれたように逃げ出した。
「どこだ……どこへ行った……。おれの、おれだけの……」
 口のなかで呟いて、男はふたたび土を掘る。
 走り去っていく犬の後ろ姿を見送って、夢屋は橋のたもとへと視線を向けた。潮と土と草の青いにおいのなかにかすかに腐臭が感じられる。夢屋は男のそばまで歩み寄り、顔をしかめた。
「いとしい、ひとしいひと……。誰にも、おれにも、手出しはできない。おれだけが、……ああ、いとしいひと……」
 譫言のように繰り返し、男は土を掘り返す。土のなかに何があるのか、男の体が邪魔をして夢屋からは見えない。だが息詰まるような、暑くもないのに汗がふきだすような、嫌な予感があった。目を細めると、煙のように揺らぐものがある。暗がりに慣れた目にも捉えづらい、暗いもやであった。波間が光るように、時おり闇が輝いた。まばたきにも見えるし、呼吸のようでもあった。
 夢屋は息をのんだ。もやは生きていた。それらはぶくぶくと肥え太った夢のかたちだった。
 男は掘る。土を、夢を、掘り続ける。とめなければと、夢屋が一歩踏み出したときだった。
 ひときわ強い風が吹きつけて、歩みを妨げるように夢屋の外套を乱した。びょうびょうと風が鳴る。砂から目を守ろうとして顔を伏せると、すぐそばに何かが寄り添う気配を感じた。
「きみにいったいなにができるというの」
 若い男の声だった。品の良い笑みを含んで、軽やかな春風のように囁く。
「ぼくらに救えるものなんて、なにひとつないんだから」
「なにを……」
 振り返るがそこには誰もいなかった。やがて風がぴたりとやむ。土を掘っていた男の姿はなく、黒いもやもすっかり消えていた。
 夢屋は穴を覗きこむ。血の臭いが濃い。だがそこには何もなかった。夢も、その残滓すら跡形なく、ただ暗い穴だけがあいていた。

 * * *

 早朝、まだ陽ものぼりきらないころ、仕事帰りの夜回りが酒を片手に歩いていると、さほど酔ってもいないのに足をとられてつまずいた。振り返ると女物の靴が片方、道に落ちている。不審に思って辺りを見渡すと、側溝に対の靴を見つけた。途端に彼は悲鳴をあげた。靴は落ちているのではなく、履かれていた。狭い側溝に体はぴったりおさまり、余った腕がはみ出て、大きく広げているようにも見える。首に巻いた赤いシルクのスカーフが、時おり風にそよいだ。
 街いちばんの歌姫は、もう歌わない。

 一角に人だかりができているのを見つけて、ドールは立ち止まった。話し声から誰かが亡くなったのだとわかる。ドールは集まった人々をひとりひとり確認して、やがて輪からすこし離れたところに探し人を見つけた。
 隣に立つと、青年はやあと帽子をあげた。
「ぼくになにか用かな」
「昨日、小壜をだめにしてしまったから、そのお詫びがしたいの」
「律儀だね」
「小壜の商人はわたしの連れなの。おなじものはないかもしれないけど、彼ならきっと良いものを選んでくれるはずよ」
「紳士かどうか、疑わしいのでは?」
 からかわれて、ドールは眉を寄せた。
「そうね、そうだったわ。ではわたしが選びます」
「それは頼もしい」
 青年は片方の肘をかるく張った。ドールはそこに手を添えて歩き出した。
 青年からは煙草や酒のにおいがしない。それだけではなく、体臭というものが感じられない。ドールは彼の顔立ちが自分と似ていることに気づいた。胸の奥がかすかに華やぐ。
「あなたも東から来たの」
「そうだよ。もうずいぶんこちらにいるけどね」
「戦場が近いから?」
「どうしてそう思うの。東にも、戦場に近い町はたくさんある」
 町の名前をいくつも挙げて指を折る。ドールは小さく首を振った。
「だってあなたからは、においがしないから」
 青年はドールを見下ろして、目を眇めた。
「へえ、そう?」
「むかし聞いたことがある。生来香りを持たない人々を集めて、中央は諜報部隊を作っていたって」
「よく知ってるね」
「幼いころに祖母から……」
「ぼくもその話は聞いたことがあるよ。でもそういった部隊があったのは、もう百年以上むかしの話らしいよ」
「そうなの?」
「きみのおばあさんだって、そのさらに上のおばあさんから聞いたような話のはずだ」
 青年は腰をかがめてドールの顔を覗きこむ。
「きみにはぼくがいくつに見える?」
 ドールは困惑を隠しきれず黙した。
「百歳以上のおじいさんに見えるかい?」
「見えないわ」
 よかったと、青年は胸を撫で下ろす。
「ぼくが国に帰らないのは、ただ帰りたくないからだよ」
 常に朗らかに話していた青年の声が、ドールには一瞬とても冷たい氷のように感じられて、帰りたい気持ちを話すことは憚られた。

 人々が忙しく行き交う道の隅で、夢屋はいつものように小壜を広げていた。時おり子どもらが冷やかしにきて、七色の光に目を輝かせる。そうしているときの子らを見ているのがなにより幸せだった。
 外套のフードを目深にかぶり敷物の端を見つめていると、小さな黒い靴がそこに立った。
 顔をあげると、隣には見知らぬ青年がいた。
「やあ。きみがお客さまを連れてきてくれるなんて、珍しいこともあるもんだね」
「昨日、彼の小壜をわたしが割ってしまったの。だからお詫びがしたくて」
 ドールは青年を紹介しようとするが、なにかに気づいて口を閉ざしてしまった。青年はドールに微笑みかけ、その笑顔のまま夢屋に手を差し出した。
「事情により名乗らぬ無礼、お許しください。よろしければ母の実家が帽子屋でしたので、ぼくのことも帽子屋と」
「わかりました。では、ぼくのことは夢屋とでも呼んでください」
 夢屋はフードを払い、青年の手をとった。その瞬間、背筋がぞくりと震えるような悪寒が走る。ドールの手前、穏やかに振る舞いながら、夢屋は昨夜聞いた声を思い返していた。帽子屋はすべて見透かすように首を傾げて微笑った。
「昨日はどんな小壜を渡したの?」
 ドールは敷物のそばにしゃがみ込み、小壜をひとつひとつ丁寧に見比べた。ドールにはどれもおなじように見える。
「そう、だね」
 夢屋が昨日手放した小壜はたったひとつ、花籠を持つ少女に譲ったものだけだった。それがなぜ帽子屋のもとにあったのか、夢屋には知るよしもない。様子を見るためにも、ドールに話をあわせることにした。
「時おり淡いオレンジが強く輝く、この街の日差しによく似た光だったと思うよ」
 おなじ人間が存在しないように、おなじ小壜も存在しない。夢屋は比較的似た小壜をいくつかドールへ渡す。そのなかからひとつ選んで、ドールは帽子屋に差し出した。
「どうかしら」
 受け取った小壜を目の高さに掲げて、帽子屋は満足げにため息をつく。
「ああ、これはいい」
「ほんとう?」
「昨日の小壜よりずっといいものだよ」
「よかった」
 ドールはほっと胸を撫で下ろし、夢屋に向き直る。
「ありがとう」
 日ごろ表情の薄いドールの頬に、はっきりと喜びが浮かんでいた。夢屋は彼女のささやかな笑顔に眩しさを覚える。
 帽子屋は小壜を陽に透かすようにして見つめていた。壜のなかの夢が光を受けていっそう輝く。だがその輝きが強すぎることに夢屋は気づいた。帽子屋の口が小さく動く。言葉は聞き取れなかったが、そのとき夢屋には夢の悲鳴が聞こえた。思わず立ち上がり、帽子屋の手から小壜を奪う。
「なにをしている。この子になにをした!」
 道行く人々がなにごとかと振り返るのも構わずに、夢屋は声を荒げた。掴みかからん勢いで詰め寄る。ドールははじめて目にする夢屋の激情に戸惑っていた。夢屋をいさめることも、ふたりのあいだに立つこともできず、呆然と彼らを見ているしかできない。
 帽子屋は夢屋にしか聞こえないような小声で低く笑った。
「なにって、ほんのすこし挨拶しただけですよ。きれいだね、って」
「そんなはずない。それでこんなに怯えるはず……」
 夢屋は絞るようにそれだけを言って、続く言葉を噛み殺す。
 通りがかりの恰幅のいい男が夢屋の肩に手を置いた。
「兄さんら、その辺でやめときなよ。かわいいお嬢さんがすっかり怖がっちまってるぜ」
 夢屋は陽に焼けたぶ厚い手を見やって一歩さがり、申し訳ないと目を伏せた。
「悪かったね」
 ドールの手をかるく握って、夢屋はため息をつくように力ない様子で微笑んだ。ドールは自分が思いのほか強く傘を握っていたことに気づかされるばかりで、微笑み返すこともできない。すぐに夢屋の手は離れていき、彼はまたいつものように敷物の端に腰を下ろした。フードを目深にかぶってしまうと、海のように青い瞳がなにを思っているのか、うかがい知ることはできなかった。
 重苦しい沈黙をものともせず帽子屋は、そうだと声をはずませた。
「これから広場のサーカスを観に行こうと思うんだけど、きみも一緒にどうかな。チケットが一枚余ってるんだ」
 小壜をジャケットにしまい、代わりにチケットを取り出した。ひらひらと振って、無邪気に微笑む。
「あ、わたしは……」
 ドールは意見を求めるように夢屋を振り向いた。だが夢屋は顔をあげない。
「ねえ、夢屋」
「きみは自由なんだ。きみのしたいようにするといい」
「だけど……」
「サーカスを観たことはあるかい?」
 夢屋の問いに、ドールは首を振る。夢屋はようやく顔をあげて、やわらかく微笑んだ。
「行っておいでよ。いい思い出になる」
「よし決まった。では行こう」
 帽子屋はドールの手を引いて広場へ向かって歩き出す。ドールは大きな歩幅に合わせて小走りになりながら、何度も後ろを振り返った。夢屋はいつものように小壜のそばに片膝を立てて座り、石のようにじっとしていた。
 傘の柄を握りしめて、前を向く。いまにもひび割れそうな彼の笑顔がまぶたの裏に焼きついて離れなかった。

 * * *

 夕景が潮のように引いていく。砂粒のような星が紫色の空に灯りはじめる。夜の波はもうそこまで寄せていた。
 小さな家の裏手から、潮騒にも似た、ざざ、ざざざと土を掘る音がする。夢屋はそちらへ足を向けた。
 それほど広くない庭だったが、地面という地面すべてが掘り返されていた。黒々とした土の下には、なにが埋まっているわけでもない。
 明かりのない暗がりで蠢く影がある。橋の下で見た後ろ姿だった。あのときとおなじように、あたりには暗いもやが漂っている。
 夢屋は掘るひとの背後に歩み寄り、肩に手をのせた。
「もうやめたほうがいい」
「はなせ、はなしてくれ……。おれは、おれの歌姫を……」
 黒いもやが時おりきらめいて、熟れすぎた実のようにはじけて消える。
「きみの夢は、もう息絶えようとしている。このままでは彷徨うことになるぞ」
 強く肩を掴んで揺さぶる。その肩がぐにゃりと歪む。夢屋はとっさに手を離した。
「おれだけのものにしたんだ、彼女はおれだけを見た……。あのときたしかに、たしかに……」
 そう話す男の声が水のなかで聞くようにぼやけていく。すぐにも男は言葉を失い、ふたたび掘るばかりになった。
 黒いもやに手で触れる。夢屋は思わず舌打ちをもらした。もう、間に合いそうにない。
 強い風が庭木を揺らす。
「あなたが来てくれてうれしいわ」
 すぐそばから、若い男の声がした。聞き覚えのある声だ。夢屋は振り返り、彼をきつく睨みつけた。
「帽子屋」
「歌姫の決まり文句だったらしい。なんとも陳腐だね」
 昼間とは打って変わって闇になじむ黒い軍服を着て、帽子屋は青白い肌で微笑っていた。
「なにをした。彼になにを」
「それを知って、きみになにができるというの。言ったろう? ぼくたちに救えるものなんてないと」
 帽子屋は夢屋の隣に立ち、口を歪めた。
「夢を売る夢屋、か。ふざけたことを」
 帽子屋が指を鳴らすと、男の体から黒い炎が吹き出した。夢が断末魔の悲鳴をあげる。耳を塞ぎたくなるほどの声だった。夢屋は声から逃れるすべを持たない。ただじっと耐えるしかなかった。
「我々は回収係だ。すこしでも多くのいのちを回収することが目的だろうに、きみはなぜ小さな光のまま壜なんかに詰めて人へ渡してしまうんだ。こうやってなにもかも燃やし尽くせば、何倍、何十倍もの力を得られるというのに」
 帽子屋の手には黒い塊があった。人の頭ほどの大きさをしている。はじめは綿のようにふわふわとしていたが、次第に石のように硬く凝縮していき、拳に収まるほどになった。帽子屋はそれを嬉しそうに飲みこんだ。
「歌姫を自分のものにできたらいいのに。ぼくはその願いを叶えてやった。それのなにが悪い」
「だが一歩間違えれば彼の夢は狭間で彷徨い、生きることも死ぬこともできなくなるところだった」
「そんなへまはしないよ。もうすっかり慣れたからね」
「あれほどまで追い詰める必要がどこにある」
「そのほうが夢は肥える。人間の夢も欲も、際限がない。あれが叶えば次はこれ。これが叶えば、……あんただってよく知ってるだろうに」
 夢屋は黙るしかできない。帽子屋の言うとおりだった。それでも、という一言がこみあげてくるものの、言葉にするには至らない。
 男の体は泥人形のように輪郭を失い、みるみる崩れていく。黒い炎はやがて空を映した青へと変わり、実体のないまま草木に広がった。庭木は立ち枯れ、花は凛としたまま色褪せていく。
「戦争で多くのいのちが散っている。そのすべての夢を回収することは不可能だ。だが死者の数に見合うだけの夢を集めなければ、この世界は争いに呑まれてやがては滅びるだろう。人が生きて夢を抱く限り、ぼくらが死に脅かされることはない。これは共存共栄の道だよ」
 あたりはすっかり青い炎に包まれていた。異変に気付いた人々が家のおもてに集まりはじめる。帽子屋はその様子を察して、つまらなさそうにため息をついた。
「じゃあ、そろそろ行こうかな。また会える日を楽しみにしてるよ、先輩」
 もう一度指を鳴らすと、青い炎が実体を得て赤くなる。あたりは一瞬で火の海になった。
「きさま……!」
 それまでこらえていたものが堰を切ったようにあふれてきて、夢屋は声を荒げた。
「無理やり奪うだけでなく、こんな使い方をして許されると思うのか!」
「だったらあんたがあのドールを守るために行使した力はどうなんだ。ぼくとどう違うっていうんだ」
 突風が帽子屋を押し包み、どこかへ連れ去ろうとする。
「ああしなければ彼女を守れなかった。だが貴様はただ壊しているだけだ! いのちのある世界を、……おれたちにはもう決して望むことができない世界をいたずらに掻き乱しているだけだ!」
 風と炎が重なって唸りをあげる。外套がばさばさと音を立ててひるがえる。夢屋はフードの縁を掴んで熱風から目を守った。薄くひらいた視界の先で帽子屋の口が動く。一段と強い風が上空へ吹き上げて、それとともに帽子屋は姿を消した。
 残された夢屋は帽子屋の唇をなぞって呟いた。
「偽善者、か」
 乱れた外套の前をあわせて、夢屋もまた煙のようにその場をあとにした。

 食事を終えて部屋へ戻ろうとしていたところ、火事だという叫びにドールは足をとめた。男たちが駆けつける先を見やると、煙があがっていた。
 つられてそちらへ歩き出す。近づくほどに胸の奥まで煤けるような臭いが鼻についた。
「危ないから下がってろ」
 そう言われて、他の男より一回り細身の男が輪から押し出された。薄汚れた外套が重たげに揺れる。ドールははじかれたように駆け寄り、腕を支えた。
「ああ、きみか」
 ありがとうと言い添えて、夢屋はすぐにドールから離れる。よく見ると髪は汚れ、顔や手はかるい火傷を負っていた。
「けがを」
「そうだね」
 夢屋はため息をつくように微笑んで、傷をそっと撫でた。指のあいだから七色の光がこぼれて、次の瞬間にはもう火傷はすっかり消えていた。
 前にもおなじようなことがあったとドールは思い出す。あれは彼に助けられた日のことだった。あのときも彼の体からは七色の、小壜に閉じ込められたものとおなじ光が舞い散っていた。
 ドールはその光景を美しいと思う。同時に、胸に秘めていた問いが口をついた。
「あなたは誰。何ものなの」
「ぼくは……」
 夢屋はその先を言い淀み、ドールから視線をそらした。冷たい寂しさを秘めた目で燃える家を見つめて、平板な声で言った。
「ぼくは夢屋だよ」

 翌朝ドールは夢屋に陸路を行くと告げた。夢屋はその決断に、そうかと小さくうなずくだけだった。