the Dream Deliverer 夢屋

07.Dirge

 傷だらけの長銃をおさない妹や弟のように腕に抱えて、少年は部屋の隅の傾いた棚のかげでうずくまっていた。
 部屋といってもすでに屋根の大半は崩れ落ちている。かつて家族で食事を囲んだ居間にその面影はなく、妹や弟と寝転んで笑いあった象牙色の絨毯は血と泥で黒ずんでしまっていた。
 あちらこちらから響く銃声や爆撃音が、なにものにも遮られることなく鼓膜を震わせる。少年は胸ポケットに押し込んだ小壜を服の上からぎゅっと握りしめた。
 爆撃がはじまって、ひと月が経とうとしている。父は愛国軍へと参加し、母は近所の女性らとともに防空壕を掘った。少年はまだ幼い弟の面倒を見ながら、妹とともに母を手伝った。不安は大きかったが、それでも頑張っていればいつかまた、かつての暮らしに戻れるのだという希望がそのころにはまだあった。戦闘の合間をぬって、ときおり父が顔を見せに戻ってきてくれたし、なによりそばにはいつも母がいた。その表情はずいぶんくたびれて、弟のための乳も出なかったけれど、母の手が頭を撫でてくれるだけで少年はひもじさと恐怖をほんのすこしだけ堪えられるように思えた。神様は見ていらっしゃるからと、母はいつも祈りを捧げていた。少年も走り回ろうとする妹を抱きながら、妹のちいさな手を包むようにして祈った。
 半月ほど前に弟が亡くなり、立て続けに妹の姿が見えなくなり、探しているうちに母は敵軍兵士に連れていかれた。そして二日前、父の形見だという小壜が届けられた。なかには色とりどりの小さなガラス片が詰まっていた。食べられないが七色の飴玉のようだろう、と父の字でメモが添えられている。届けてくれた青年は腕に怪我をしていたが簡単に止血をしただけの状態で、歩くこともままならない危険地帯を抜けてきてくれた。彼は少年の手を握りながらお誕生日おめでとうと涙を流した。
 近隣のなじみの住人もすっかり姿を見なくなった。まだ何人かは生き残っているのだろうが、少年とおなじように息をひそめているしかできないのだろう。もう、いま生きるための息を吸って吐くだけで、せいいっぱいだった。
 弟を背負うために使っていた紐で、片手に長銃をくくりつけている。そうしておけば取り落とすことがないよと教えてくれた青年は、夜明けまでは他愛ない話をしてくれていたが、いまはもう絨毯の上に横たわったまま動かなくなってしまった。彼の背中には燦々と陽光が降り注いでいる。うなじの産毛が砂埃とともに輝いて、いままさに彼が神の御許へ召されているのだと少年には思われた。
 夜明け前、彼は言った。
 ぼくは寝顔を見られるのが苦手だから、もしぼくが寝返りをしそうになったら、きみのほうから顔をそらして、中庭のほうへ向かってくれ。
 そして後ろを振り返らずに、ずっとずっと街の外へ、きみの影が伸びるほうへ走るんだ。
 きみはきっと素敵なおとなになるだろうね。女の子ともうまくやれそうだ。うつくしい青い目をしている。きみのお父さんとそっくりの、やさしい眼差しだ、と。
 日が傾き、少年のつまさきのそばまで陽光が差し込むようになった。断続的に続いていた銃声が途切れるようになり、やがて街はしんと静まりかえった。
 数人の足音がして、おとなの男の話し声がした。かつて玄関のあった場所に、大柄な男の姿があった。少年は棚にあいた隙間から居間の様子を見つめる。男は仲間から気をつけろと声をかけられ、手をあげる。そうして青年の顔を覗きこみ、長銃の先で青年の背中をつつき、うつぶせの体を仰向けにしようとした。
 そのとき、少年の目に、青年のすらりとした鼻先が見えた。
 青年の寝顔が、そしてその胸の下に隠した地雷が覗く。
 少年は見つかるのも怖れず棚のかげから走り出た。
「おい! こどもがいるぞ!」
「逃が――」
 おそらく逃がすなと言いたかったのだろうが、その声は爆音にかき消された。
 少年の体も中庭へと吹き飛ばされる。だがかろうじて残っていた土壁が衝撃を防いでくれた。すぐに起き上がると、みずからの影が伸びるほうへ向かった。街を出て、背の高い草木に守られながら山へと走る。走って、走って、鬱蒼とした獣道へ分け入って、ついにみずからの影を見失うまで少年は走った。
 山には夜が訪れていた。暗闇に松明の灯がよぎる。
「無事だったか」
 少年には見覚えのない男だったが、男のほうは少年を知っているようだった。抱きかかえられ、山奥の洞窟へと連れられる。そこには少年と変わらない年頃の少年少女が集められていた。十数人はいる。
 先とは別の武装した男がこどもたちの前に立ち、ゆっくりと睥睨した。
「おまえたちは一度死んだ」
 男の声は高くもなく低くもなく、渇いた喉に染み渡る清水のように、少年少女の体へ染みこんでいく。
「だからもう死ぬことはない」
 こどもたちの目をひとりひとり見据え、男は拳をつきあげた。
「銃をとれ! 敵を殺せ! おまえたちは神に選ばれた戦士だ! われらを異教徒と蔑み虐げた罪びとたちを神への供物とするのだ!」
 肌が震えるような檄に、一瞬で恐怖が剥ぎとられる。これは神からの言葉に違いない、そう思うほど腹の底から勇気と憎悪がわいてくる。
 なにもかも奪われた。家族も、過去も、未来も。いまさらこの命を惜しむ理由もない。
 少年は片手にぶらさがっていた長銃をしっかりと手に持って天へと掲げた。
「おれたちは神の戦士になるんだ!」
 こどもらは揃って咆哮をあげた。

 それから十五年、帝国山間部では激しい内戦が続いた。
 青い目をした少年は青年となり、はじまりの聖戦唯一の生き残りとして多くの少年兵を率いる立場となっていた。
 多くの敵兵を殺した。多くの仲間が殺された。殺し合い、奪い合った先のことは青年にもわからない。わからないけれど、それでよかった。敵をひとり残らず目の前から消すこと、それだけを彼は黙々と遂行した。檄をとばし、指示を出す。食べられるときに食べられるだけ食べておく。そのために口があった。笑うことも、怒ることも、泣くこともしない。人としての感情はすべて故郷に置いてきた。そう、思っていたはずだった。
 銃撃の続く廃墟に、雷鳴のように赤ん坊の泣き声が響いた。そんなことはよくあることで、あの洞窟の夜以降たったそれっぽちのことに青年が気をとられることなど一度もなかった。
 それなのに、なぜか。
 青年にはそのとき、その泣き声が、ずっとむかしに亡くしてしまった弟の声に思えて、呼ばれるように一歩、二歩と、物陰から歩き出した。
 機関銃の音がいやに遠く聞こえる。そう思ったときには、前後から撃たれて蜂の巣のようになっていた。
 地面に広がっていくみずからの血をじっと見つめていたのは、もう、顔も目も、自分の思うようには動かせないからだった。その血だまりのなかに、小さなガラスの破片が散らばっていた。胸ポケットに入れていたはずのガラスの小壜が、いのちの色をした血とともに零れ落ちている。
 お誕生日おめでとう。そう言ってくれたのは父ではなかった。けれど父の声がして、笑顔が浮かんだ。隣には弟を抱いた母もいた。肩車をねだって妹が両腕を広げている。青年は妹の髪を撫で、彼女の軽い体を高く抱き上げた。そうして家族みなで祝祭の歌をうたった。
 両のまつげに、視界を遮るようにして何かが触れたようだった。何かがすぐ近くにいる。その気配だけがある。だがこちらから触れることはできない。水面を揺らす風のように、言葉として聞き取ることのできないその存在の声が胸に響いた。それはたぶん、もっとずっとむかしに欲しかったものだったはずの……。
 気がつくと、青年は見知らぬ街の路傍にうずくまっていた。
 襤褸の外套をはおり、つばの大きな帽子をかぶり、手にはガラス製の小壜を持って。

***

 あたたかい茶を淹れて、暗い部屋へ戻る。窓ににじむ街灯の明かりが、ベッドに腰かける男の輪郭をやわらかく浮かび上がらせていた。
 黒のドールは男の隣に腰をおろし、神へ祈るように丸められた背を撫で、握りしめて冷たくなった手にあたたかなカップを差し出した。
 ぬくもりに気づいた夢屋が、はっとして顔をあげる。
「どこまで話したかな」
「あなたが撃たれたところまで」
「ああ、そうだ、そうだったね。……あたたかいな。ありがとう」
「つらい話をさせてごめんなさい」
 夢屋の肩にそっと指を添えて、黒のドールは絞り出すように言った。
「わたしの好奇心のために、あなたが苦しむ必要は……」
「好奇心なんて言わないで。きみを不安にさせてしまったぼくに非がある。もっとはやくに、きみに話しておくべきだった」
 夢屋は首を傾け、俯いた姿勢のまま黒のドールを見上げた。悪いことをしたねと目を細めるけれど、こわばっていて微笑みには至らない。
「ぼくは、夢を届ける存在なんかじゃない。むしろ逆だよ、みんなの夢を、……いのちの残滓を喰らう存在で、いのちを刈り取る死神のようなものだ」
 夢屋は黒のドールの指先を手繰り寄せるようにして掴んだ。すこし乾いた手は、かすかに震えている。ドールは夢屋の手を握り返した。だが、かける言葉は見つからない。彼の青い眼差しに凍てつきそうなほどの怒りが蠢いているさまを、ドールは息を殺して見守る。
「そしておそらく、あの男も」
 突風が窓を叩き、街路樹の葉を揺らした。部屋へ洩れいる街灯が枝葉に遮られてまだらになる。
「ぼくはみんなの夢を喰らって生きている。だからこそ、ぼくはぼくだけのために生きてはいけないのだと思っている。夢を夢のかたちのまま、送ってあげたい。その夢が望むなら、誰かの夢の一部になることも叶えてあげたい。そのためならぼくは、どんなことも厭わない」
 日焼けした夢屋の頬に、ひび割れたガラスにも似た影が落ちる。
「そう、どんなことだって」
 たしかに彼の声であるのに、ドールには別人の声のように聞こえた。これまでにも、どこか人ならざる気配を感じたことはある。はじめて彼に出会い、手をひかれて路地を駆けたときにも不思議なちからに守られていたし、ドールが悪夢から目覚めるときにはいつだってそばに彼のぬくもりがあった。それはたとえば幼いころ、母の腕に抱かれて眠ったときのような、安らかで、絶対的に信頼できるものだった。
 いまさら彼が人と異なる存在であることに、驚きはない。
 だがドールははじめて彼を恐れた。
 故郷へ帰るなら夢屋とわかれて海路をゆくのがよいのだろう。そうとわかりながらそうしないであろう自分の心を、ドールはどこか面映いような気持ちで見つめる。
 深く澄んだ青い夜明けを、歪んだ窓越しに迎えて、ドールは告げた。
「陸路を進みたい」
 夢屋はドールの黒い瞳を掠めるように一瞥して、そうかと呟いた。
 そうしてドールのやわらかな手を、強く握った。