灰降る空と青の荊棘

01.夢で呼ぶ声(1)

 繰り返し見る夢がある。レイはまたか、と夢の中で呟いた。
 窓越しに見る景色のように、薄汚れて歪んだ視界には、霧雨のように柔らかな光が降りそそぐ。空は限りなく色を失い、石畳に残された水溜りまでが白く輝いた。
 そこは、庭だった。両脇の花壇には低木が植えられ、赤や白の花を咲かせている。夢の中のレイはまだ幼く、低木といえども向こうを見渡すことができない。不安と焦燥に掻き立てられ、レイは走り出した。庭は広く、迷路のようだ。
 やがて石畳はぷつりと途切れ、生い茂る木々のあいだを一本のあぜ道が貫いていた。レイはそこへ足を踏み入れる。日差しが丸い葉をすり抜けて肌に落ちる。さやさやと踊る風は冷たく、滲んだ汗はすっかり引いた。
 だが、鼓動だけが収まらない。
 走ったからではない。好奇心のためでもない。
 葉陰の向こうにテラスのふちが見えて、レイは足をとめた。息苦しさに体を折る。この先へ行かねばならない責任感と、行きたくない率直な願望とが激しくぶつかりあっていた。
 鼓動が鳴り止まないのは、強い拒絶のためだ。
「ねえ、約束だよ」
 すぐ近くから、自分より幼げな少年の声がした。レイは背中を木に預けて、辺りを見渡した。しかし人の姿などどこにもない。
「レイ、約束だよ。レイ、レイ」
(やめて、僕はそんなの知らない!)
 レイは叫びをあげようとするが、うまく声が出ない。もどかしくなって、両手で耳を塞いだ。それでも声は聞こえてくる。
「レイ、レイ」
 何度も自分を呼んでいる。切ないほどに求められている。
「やめてくれ、俺には応えられない!」
 栓が外れたように、声が出た。
 瞼の裏に光が溢れ、その濁流のなかに青い目をした少年が呑まれた。
「あっ」
 少年の名を呼ぼうとするが、思い出せない。
「レイ……、レイ……」
 残響のように声が散り散りになる。
「や、めろ」
「レイ・キーツ・オルランド! 釈放である!」
 野太い男の声が、耳に割って入った。レイは目をひらいて息を継いだ。見上げた天井は飾り気がなく、埃や煙草で汚れている。見慣れた寮の天井ではない。
 声がした方へ顔を向けると、黒々とした鉄柵の向こうに、制服を着た警察官が立っていた。レイは置かれていた状況をようやく思い出し、硬いベッドから起き上がった。
「朝から大きな声だな……」
「レイ・キーツ・オルランド。貴君は詮議の結果、釈放となった。よって速やかに出られたし」
「待ってくださいよ。まだ起きたばかりだ。まずは髭を落として顔を清潔にして、それから淹れたてのダージリンでも飲ませてください」
「飲みさしのカッフェならあるが」
「せめて剃刀だけでも貸してくれませんか。こんな不恰好な髭面で街を歩けば、王都大学の恥さらしだ。店の評判にも響く」
 レイは髭の伸びた顎をさすった。男は口を曲げて、ちらりと詰所を見遣る。
「五分だけ待つ。出たところの洗面を使え」
「ありがとう。恩に着るよ」
「キーツさんには昔世話になったからな。この仕事に就けたのもあの人のおかげだ。親父さんによろしく伝えてくれ」
「ああ、わかった」
 レイは腰かけていたベッドから立ち上がり、錠の外された鉄柵をくぐった。男は背を向けて仁王立ちになり、洗面所へ向かうレイを大きな体で隠した。
 ペンキのはげた扉を閉めて、レイは陶器の洗面台に両手をついた。小窓から差し込む光は、無神経なほど明るい。
「会う機会があれば、な」
 レイは顔を上げて、くもった鏡を覗き込んだ。鏡の向こうで、灰色の瞳が暗く笑った。

 三日ぶりに警察から解放された。
 レイは取り上げられていた荷物を受け取ると、早速紙巻き煙草に火をつけた。久しぶりの煙草を、体が貪欲に求めていた。乾いた大地が水を吸い上げるようにして、心地よさが全身に行き渡る。思わずため息がこぼれた。
 不意に、深い森の香りがした。パイプ用の刻み煙草にあるにおいだ。
「生意気な真似をするようになった」
 しわがれた声が背後から上がった。振り返ると、見知った男がいた。
「ルッソ警部」
「まだ警部補だ」
「ああ、すみません。ルッソ警部補殿」
「はん。嫌味ったらしいところは、健在だな」
「おかげさまで」
 レイは場違いなほどにこやかに微笑む。小柄だが恰幅のいいルッソは、目を鋭くしてレイを見上げた。
「これで何度目になる。いい加減、尻尾を出したらどうだ。お前が反政府運動に関わってることは、火を見るより明らかなんだがな。うまく立ち回りやがって」
「反政府なんて言い方をすると、あんたも奴らから粛清されるよ」
「イタリア統一運動だと? それこそ今度は国に首を刎ねられちまう」
「それもそうだ」
 うっすらと笑って、レイは煙草をふかした。ルッソは呆れて肩で息をつく。
「どうなんだ。お前さん、やってるんだろ」
「直球だなあ」
「回りくどいのは嫌いなんだ。正直に告白したら、三日間住み慣れた部屋に今からでも戻してやるぜ」
「まるで確たる証拠があるみたいなことを言って。どうせ、お得意の勘だろう」
 警察署の前を横切る大通りは、馬車や行き交う人でごった返していた。だが街の喧騒はそのためだけではない。
 三日前よりも明らかに荒んだ街の姿に、レイは目をすがめた。
 道端には、襤褸切れのような浮浪者が転がっていた。職にあぶれた男たちが、役所の前に座り込み、物を売る女たちは、誰もが売春婦のような目つきをする。
 空は清々しいほどの快晴だが、地上は腐臭に溢れている。
 レイの眼差しの先を盗み見て、ルッソは声を低くした。
「教会が妙なことを言い始めた。やつら革命の英雄を気取るつもりだ。王政府だって操れると思っていやがる」
「聖なる農民軍再び、ですか。どれだけ真面目かわからない分、たちの悪い狂言だな。もはや教皇の力でどうにかなる段階じゃないだろうに」
「そのとおり。おかげでこの有り様だ。口車に乗せられた近隣の小作人が大挙してきたってのに、教会は何の慈悲も示さないときた」
「なるほど。つまり警察は大忙しだ」
 レイが鼻で笑うと、ルッソはばつが悪く額を掻いた。
「ありがたくない話だよ。そんなこんなで、お前への詮議も保留ってことになっちまった。今は、証拠の揃わない学生を吊るし上げるより、街の治安を守るべきなんだと。まったく、いい迷惑だ。大人しく神様に仕えていてりゃいいのによ」
 ルッソはよく使い込まれたパイプをくわえて、レイの手元からマッチを奪った。物珍しそうに眺め、何度かつけようと薬頭を箱にこすり付けていたが、火は一向につかなかった。
 レイは灰色の、雨が降る前の空にも似た瞳をわずかに細めた。
「あんたは神を信じないのか」
「お前に言われたくないな、レイ・キーツ」
 マッチの火を諦めたルッソは、蒸気汽船が吹き上げるような濃い煙を吐き出して静かに笑った。しかし叩き上げの刑事の、街を見つめる眼差しに笑みはない。
 レイは襟元に指を差し入れて、タイをゆるめた。
「俺はもう、キーツ姓じゃない」
「そうかな。お前さんからは今でも島国の香りがぷんぷんするぜ」
 ルッソはレイを見上げて黙り込んだ。中年男のはれぼったい瞼の奥が、引き絞った弓のようにしなる。まるで獲物を待ち構える蜘蛛のようだ。
 レイはついと視線をそらす。
「まあ、確かに。朝はダージリンと決めているくらいだ。否定はできないな。警部補は当然、行きつけのバールでカッフェでしょう」
 レイは片眉をあげて、ルッソを見おろした。
「そりゃ、まあな。生まれたときからあの香りで育ってきた」
「つまりそういうことです。俺だってそれで育ってきた。とは言っても、俺にとっての祖国は紅茶でしかない。正直、祖国がどうなろうと俺にはどうでもいい。栄えようと衰えようと、関心はない」
「生まれも育ちもこっちとはいえ、よくもまあ自分の国をそこまで言えるもんだな。お前さんには神だけでなく愛国心もないのか」
 嘲笑に弛んだルッソの口元を見ても、レイは顔色ひとつ変えない。ルッソは唾を吐くように短く息を吐き出した。
「怒れよ、レイ・キーツ。俺はお前を侮辱してるんだぜ」
「そう言われても」
「相変わらず、すかした顔をしやがる」
「別に」
「ガキの頃から変わらねえな。俺が納得いかないのは、お前のそういうところだ。活動家ってのはな、もっと無駄に熱いもんだ。良くも悪くも、腹の底に石釜くらい堅くて熱いものを持っていやがる。それがあるから、片っ端からあいつらを潰そうとは俺には思えないんだが……。しかし、お前は別だ。どうにも多くの活動家とそぐわない。お前の腹には冷えた石釜すらない。何もない。だからこそ、上の連中もお前に執着をしない。どこかでお前はシロだと思ってるんだ」
「だったら、シロなんでしょう」
「いや、違うな」
 短い指でパイプを持ち、ルッソは小さく首を振った。
「それはお前の仮面だ。レイ・キーツ」
「仮面……? なるほど。役者、似合いますかね」
 レイは煙草をくわえて、あいた両手で上着の襟を広げた。
「はぐらかすんじゃねえ。ばれてないとでも思ったか。お前の仮面はたしかに完璧だ。男でも女でも、ころっと騙されちまうだろう。だが俺をなめるな」
「まるで宣戦布告だ」
「それも悪くないが、本音を言えば忠告だ。その仮面をつけ続けたいなら、もう少し隙を作ることだな。計算された隙じゃない、自然な姿をたまには見せるんだ。あんまり完璧すぎるものは、この世のものじゃねえ。かえって不自然だ」
「完璧、ね」
 繰り返すように呟いて、レイは笑みをこぼした。
「これでも結構、力を抜いて、楽にさせてもらってるんだけど」
「そんなのは慣れだ。麻痺しちまってるんだ」
「そうかな。俺はね、執着だと思ってますよ。執着を持たないことへの、執着だとね」
 レイは煙草を踏みつけ、喉に残っていた煙をゆるゆると吐き出した。お節介もたいがいに、と言いかけてレイは口をつぐむ。街に沁みついた潮の香りが、レイの心を鬱々とさせた。
 指に吸いつかない、さらりとこぼれる黒髪をかきあげ、レイは警察署前の階段を一段おりた。
「レイ。ひとつだけ答えろ」
 足を踏み出したまま立ち止まり、レイは振り返った。ルッソは広い額にまで渋面を浮かべ、低く唸りながらため息をついた。
「ここ最近続いてる誘拐事件だが、お前も一枚かんでるのか」
「そんな物騒な話、知るわけがない」
 弛めていた襟元を締めなおし、レイは冷たく笑った。
「俺はただの学生ですよ」
「とぼけるな」
「ああ、そうですね。ナポリ一のリストランテ、アッズーロのオーナーでもありますね」
 レイは軽快に指を鳴らした。
「警部、……おっと、失礼。警部補もよかったら一度来てください。うちで出している魚料理は絶品ですから」
「おい、レイ・キーツ」
「お待ちしていますよ」
 レイは胸元に手を当て、優雅に礼をすると、上着をひるがえして階段をおりていった。