灰降る空と青の荊棘

03.亡骸の夜に(3)

 アッズーロの厨房に繋がる裏口を開けて、レイはフィオを手招きした。鍵がかかっていたので予感はしていたが、中にはもう誰もいなかった。そもそも今日は営業していたかも疑わしい。
 厨房にはいつものように残り物が置き去りになっていたが、食べる気にはならなかった。おぼろげに空腹は感じるが、食べることを考えると胸がむかついた。不意に死臭が思い出されて、レイはそこにあった余り物を紙袋に突っ込んで捨てた。
 椅子に座っていたフィオを促して二階へ上がる。いつも使っている休憩室へ入ると、月明かりが床に伸びていた。レイは制服の上着を乱暴に脱ぎ捨て、ソファに深く沈みこんだ。
 頭を後ろにもたせかけ、窓の外を見上げる。煌々と月が揺らめく夜空は、昼のうちに太陽が振りまいた光の残滓を粉々に打ち砕いて指でこすりつけたような、やわらかくしなやかな空だ。
「そこの灯りを消してくれないか」
「うん」
 テーブルの上に置いてあった灯りをフィオが吹き消すと、月明かりが鮮明さを増した。瞼を閉じれば、その中にまで光の粒子が降ってくるようだった。
「なあ、フィオ。どうしてあの場所がわかった」
「昔、レイが教えてくれたんだよ。何かあったらおいでって」
「そう……だったか」
 首をのけぞらせたままレイは笑った。生意気なことを言っておきながら、何かあったのはむしろ自分の方だ。低い笑い声は喉につかえて途切れた。
「レイ」
 思いのほか強いフィオの呼びかけに、レイはおもむろに頭を起こした。フィオはレイの正面に立って月明かりを一身に浴びると、レイの黒髪を優しく撫でた。
「ね、無理しなくていいんだよ。自分の気持ちに素直になって」
「無理? どうして俺が無理なんて」
「レイはすぐそんな風に平気ぶるけど、そんなことない。傷ついてる。深く深く、たった一人で、誰にも頼らないで傷ついてるんだ」
「まさか……」
 レイは鼻で笑って言い捨てた。だが胸のつかえが取れない。いつまで経っても死臭が消えない。これが傷だと言うのか。
 視界の隅で、一瞬光るものがあった。やがてじわりと服越しに脚が濡れた。レイはフィオを見上げた。
「泣いてるのか」
 青い瞳には、波が打ち寄せるようにして涙が溢れていた。フィオは首を横に振った。大粒の涙が海から千切れる。
「僕じゃない」
 フィオは自らの頬に指をすべらせ涙を掬うと、その雫をレイの頬にそっと浮かべた。
「泣いてるのは、レイだよ」
 頬に滲んだフィオの涙は、彼の指よりずっと熱く、レイは自らの肌の冷たさを思い知った。
「レイ。ほんとは約束のこと、覚えてないんでしょ」
 責めるわけでもないフィオの声に、レイは返す言葉をもたなかった。フィオはレイの手を取って続けた。
「僕は全部覚えてるよ」
「全部って……」
 レイは叫び出したくなるような羞恥心を押し殺して問うた。フィオはレイの問いに答える代わりに、両手で握ったレイの指先を口元に寄せ、妖艶に微笑んだ。
「あのとき嬉しかったんだ」
 レイの指がフィオの唇に触れる。それまで死臭に包まれていた薄暗い世界が、一気に噎せ返るような緑のテラスにすりかわる。薔薇の甘い香りが、指から腕を伝って這い上がってきた。
「レイとのことは、全部全部、僕の宝物なんだよ」
 匂いが絡みついてくる。レイは首の後ろに、抑えがたい衝動の気配を感じつつあった。フィオはそれを知っているのかいないのか、どちらともつかない眼差しで、レイの手のひらに頬を寄せた。
「お願いだよ、レイ。僕にもレイの傷をちょうだい」
 涙の名残など感じさせない懇願は、むしろ宣言のようだった。フィオは頬に寄せたレイの手を、指と言わず爪と言わず手首と言わずありとあらゆる場所を、小鳥のように啄ばんだ。隙を見つけて追い縋る死のかおりが、息の根を絶たれて消えていく。思わず肘が震えて、レイは強引に腕を引き抜いた。
「よせ……。よしてくれ、フィオ」
「レイ?」
「だったらどうして、どうしてあのときお前は、俺の前から消えたんだ」
 レイは腕に残る感触を消すように、もう片方の手で何度もさすった。フィオはそれを見つめて唇を噛むと、制服を脱ぎ始めた。
「フィオ?」
 突然の行動をとめようとレイは手を伸ばしたが、フィオの白い肌が月明かりに晒された瞬間、レイは動けなくなった。
 上着もシャツも脱ぎ捨てて、あらわになったフィオの体には、肩から胸にかけてひどい火傷の痕があった。皮膚が引き攣れ、一部は変色している。
「フィオ、それは……」
「あの日の夜、侍女にお湯をかけられた。レイのこと、好きだったんだって」
 おそらく、あの日テラスにいた侍女だ。レイは顔を思い出そうとするが、何度試しても制服の上にのっぺらぼうな頭が据えられているだけだ。
 フィオはレイの膝に乗って向かい合って座り、悪夢を見た子どものように、懸命にしがみついてきた。
「僕にはレイしか……」
 すぐそばにフィオの髪がかおる。レイは涙に震えるフィオの背中をそっと撫でた。女の体とは違った、しなやかさがあった。だが凝り固まらない、自由なやわらかさがある。まるで月明かりのような体だ。
「レイが僕の世界なんだよ」
 頬をすり寄せたかと思うとレイから離れ、フィオは正面からレイの顔を覗きこんだ。両手をレイの手にそれぞれ絡ませて、強く握りしめる。手のひらが蒸れて、やがて泥を踏んだときのような音を立てる。フィオはレイの額に額を合わせて、鼻をこすりあわせ、それから掠めるような口づけをした。
「フィオ……」
 レイの中で過去の罪悪感が喘ぎ声をあげた。フィオは美しく微笑みながら青い瞳を閉ざして、さらに深く口づけた。レイは反射的に顎をひいたが、フィオがいっそう強く唇を押しつけてきた。
「フィ……」
 隙間から名を呼ぶと、フィオは目を開いて、目顔で首を振った。
「いいんだよ、レイ」
 互いの唇がこすれながら、言葉が二人の間に落ちていく。
「何がいいんだ。こんな罪深いことを……」
「罪深い? 僕にとって罪深いのは、レイとのキスじゃない。ずっと偽り続けてきたことだよ」
 汗ばんだ手を離して、フィオはレイの薄い頬を両手で包み込んだ。
「レイと、ずっとこうしたかった」
 大切に紡がれた告白は囁きよりもずっとか細く、だからこそレイの体に染み入った。頬に感じるフィオの手は、あの日のようにかすかに震えている。ならばあの日、彼は喜びのため打ち震えていたというのか。
 レイの中で脈打っていた罪悪感が、たまらず叫びを上げた。
 赦してくれるのか。
 この罪悪感を、殺してくれるのか。
 無意識に呼吸が揃う。それほど間近にフィオを見つめる。透き通るような青い瞳に、月の影が落ちる。月を浮かべた水面には一切の歪みがなく、疑う余地もない。
 ずっと続いた罪の意識が解放されていく。レイは目の前にいる美しい少年に神を見た。
「フィオ、本当か」
 愚かな男の問いかけに、神は静かに微笑んだ。レイは耳の底に、罪悪感が砕ける音を聞いた。罪業の足枷を外し、内側が空っぽになる。目に見えない過去という怪物に、怖れることはもうない。
 何もない。感情ですら蒸発していく。
 レイはここにいることを確かめるように、頬に触れるフィオの手を握った。フィオの指がひとかたまりになるほど強く握ると、レイの内側に新しい息吹がふきこまれた。
 あるのは体だけで、あるのは今だけで、あるのは蝶のように美しいフィオだけだった。首の後ろで渦巻いていた衝動が救済に芽吹く。レイはフィオの体を抱き寄せて、彼の形のいい唇をしゃぶり尽くすように口づけた。
 重なり合った唇が、離れていた時間を埋めようとして執拗に互いを求める。欲しくて、もっと欲しくて吐息が洩れる。
 指先にいびつな肌が触れて、レイは薄く目を開いた。フィオの火傷を手のひらでなぞる。気付いたフィオが目を開いて、笑った。
「僕の、勲章」
 唇が触れ合ったまま、吐息だけの言葉をおとす。
「レイのこと、大好きだよ」
 そう言ってまた笑うフィオがいとおしく、レイは舌先でフィオの唇を舐めた。フィオから生み出されるものは、どれも取りこぼしたくなかった。すべてこの舌で、唇で、指先で、掬い取って舐めつくしたかった。
 レイは唇を離し、火傷の痕に舌を這わせた。口づけて、吸って、咬みついて、母猫が子猫にするように優しく舐めあげる。
 月光をまとうフィオの肌は青く透けて、神を写し取った彫像のようだ。犯しがたい聖性を保ちながら、どこまでもこちらを誘惑する。神がフィオに触れることを禁じていたとしても、レイにはもうこの衝動をとめることはできない。理性ですら、フィオを求めてやまない。
 生も死も、罪も愛も、男も女も、すべての垣根を乗り越える。
 手で触れて、視線を絡めて、吐息で語って、ただただ、ひとつの存在となって交わりあう。魂をわかちあい、余白を埋めあって、肉体を繋ぐ。レイはソファの上に四つ這いになったフィオの背中を見おろして、情愛の手触りに心が震えた。獣のようにお互いを求め合いながら、満たされていく。何も生み出さない情交こそが、もっとも人間的なのだと知った。
 奥歯を強くかみしめて、さらに深部の手触りを求める。体のどの部分も自分のものではないようでありながら、どこまでも敏感に世界を捉えていた。
「レイ……、レイ」
 フィオが肩越しに振り返り、苦しげに呼んでいた。レイはフィオの髪に手を伸ばし、彼の頬に流れる汗を拭った。
「フィオ、フィオレンティーノ」
 レイはフィオの腰を抱えて、肩を強く引き寄せた。繋がりあった部分から隙間が消えて、互いの熱で塞がれる。
「レイ、ずっと……ずっと」
「ああ」
 声を絞り出して、果てをこらえる。不意に、幼いときのフィオの声が聞こえた気がして、レイは息を呑んだ。
『ねえ、約束だよ』
 夢の中で何度も聞いたフィオの声だ。
『レイはすごいね。なんでも知ってるんだ。僕はお外のこと、なんにも知らないのに』
『だったら俺が教えてあげるよ。フィオに外の世界の色んなお話をしてあげる』
『ほんとに?』
『もちろん』
『じゃあね、じゃあね、僕はレイのこと守ってあげる』
『フィオが? 俺の方がお兄さんなのに』
『うん。僕がレイを絶対に守るから。悲しい思い、させないから』
 ――だからずっと、ずっと一緒にいてね。
 軽い目眩がして、欠けていた記憶がようやくよみがえった。その瞬間、レイはフィオの中に愛を吐き出していた。
「約束だよ、レイ」
 ソファに仰向けに寝転がったフィオはレイの腕を掴んで引き寄せ、レイの濡れた指先を咥えて気高く微笑んだ。