灰降る空と青の荊棘

04.道化を忘れた道化師は……(1)

 罪悪感は情愛への第一歩だ。強引に引き金を引かれれば、なおさら後戻りはできない。レイの罪悪感は、いまやフィオへの渇望へと生まれ変わった。
 年が明けた。
 激化した反政府活動のため大学の授業は休講が増え、寮に残る生徒の数も半分ほどになった。そのことをどこからか聞きつけたらしく、このところダリオからの呼び出しが多い。レイはそのほとんどを断ってきたが、今日は王宮へ料理人が呼ばれているというので、仕方なくアッズーロへ出た。ところが予定は突然取り消され、まったくの無駄足になった。
 二階の休憩室は、窓からしみこむ冷たい空気にリザの零す熱い吐息が混ざって、肌寒くもあり蒸し暑くもあった。リザはレイよりも白い息を吐き出しながら、レイの体を舐め上げる。彼女の舌はあぶったベーコンのように熱かったが、その熱がレイに波及することはない。レイはじっと黙って彼女の頭を見おろして、首や背中が冷えていくのを感じていた。体がふたつに裂かれるようだった。
 手のひらがソファの布地を撫でて、レイは父が死んだ日のことを思い出した。だが心に浮かぶのは、父の死臭や、実家の壁に残る傷や、姉の怒声ではない。
 あの日、レイは愛を覚えた。
 月明かりに染められたフィオは、どんな生き物よりも清廉で美しく、何より淫靡で執拗だった。今また同じソファに座って目を閉じれば、はっきりとあの日のフィオの姿態が浮かび上がる。昂ぶりが喉を圧す。レイはひとつ息をついて、緩慢な動作で煙草を取り出した。
 首を逸らして見上げた空は、青みの薄い晴天だった。空も、冬は寒くて凍るのだろう。マッチの火を煙草に移したあと、レイは素早く火を消した。空が溶け出しては困る気がした。
 リザが服をたくしあげ、レイの上にまたがった。
「寒いから、着ていてもいい?」
「どっちでも」
 紫煙を空に向けて吐いて、レイは低く答えた。リザはレイの返事を待たずに、もうすでに声を上げていた。
「だったら訊くなよ」
 レイは呆れてリザを見上げた。彼女はだらしなく口を開いて、レイの言葉を聞いている風ではない。レイは舌打ちを洩らして、彼女を睨みあげた。
 なぜ。その一言が水面に波紋を作る。
 なぜ、ここにいるのがフィオではないのだろう。
 なぜ、こんな女を抱かねばならないのだろう。
 そう思うと、体がすっと冷えていった。途端にリザが夢から覚めたように目を何度か瞬かせた。
「え、なに。どうして」
「ごめん、もうお前のこと抱けない」
「ちょっと待って。そんなの突然すぎるじゃない」
 リザは焦燥を隠さずにレイの上からおり、再び床に膝をついた。レイは顔をうずめようとしたリザの肩を掴んで引きとめた。顔をあげたリザは、何も言わないレイの顔色を読んで、眉をひそめた。
「好きな人ができたの?」
 問いかけは、やはりレイの答えを待っていない。リザは床に座り込んで、じっとレイを見つめてきた。見定めるような責めるような眼差しは、居心地のいいものではない。レイは乱れた服を整えて、床に煙草の灰を落とした。
「それでもいいって、私、前に言ったわ」
「ああ」
「なのに、どうして? それは私への誠意? それとも彼女への?」
「どっちでもないよ」
「じゃあ、本気ってこと」
 リザは真っ直ぐレイを見上げて言った。レイもまたリザを真っ直ぐ見おろした。それが答えになる。
「すごい興醒めね」
 ため息混じりに言い捨てると、リザは脱いだ靴下をはいて、おくれ毛を撫でつけた。
「私、レイはそういう人じゃないって思ってたのに。だから好きだったのに」
「すまない」
「謝らないで」
 冷たい声とともに、リザはレイの頬を打った。派手な音はしたが、大して痛くはない。レイは鈍い眼差しでリザを見上げて、この女はまだ自分のことが好きなのだと思った。
「リザ、もっと痛くしていいよ」
「うぬぼれないで! もうたくさんよ」
 リザは履いていた靴を片方投げつけて、部屋を出ていった。レイは残された靴をソファに置いて、前かがみになる。
 胸が痛むのは、リザが投げた靴のせいだ。それ以外、痛むところはどこにもない。同じように、リザとの関係に終止符を打って清々したとも思わなかった。
 吸わないままの紙巻きの、生まれくる灰を見つめる。火が触れるものを灰にするのに、理由などない。それと同じだと思った。
 リザのことが好きだったわけでも、嫌いになったわけでもない。これまでと何も変わらない。だが体は知っている。リザが火つけにはならないと。たとえどんなに熱くても、ただ熱いだけでは火はつかない。それが火種そのものでなければ、この体はもう燃えて灰になろうとはしない。レイはそのことを今はじめて知った。
 父が死んだ日にはじめてフィオを抱いてから、二人は毎晩のように体を重ねた。時間を埋めて、孤独を埋めて、傷を埋めて、隙間なく互いを通わせた。
 フィオはレイに抱かれるたび美しさを極めた。毎夜レイの腕の中で羽を震わせるフィオは、昼間の溌剌とした少年らしさからは想像もつかないほど、貪欲で、清らかで、猥雑で、華やかで、傲慢で、どんなに犯されても穢れない神気をまとっていた。
 そう。神気だ。
 それは、神との契りだった。神により齎された快楽だった。
 いつまでだって繋がっていたかった。朝が来ても、離れたくはなかった。レイはもう長い間、自分の部屋で寝ていない。ずっと二人で寄り添って過ごしていた。フィオと貪る時間は、どんな花園よりも鮮やかで、生々しいにおいに溢れていた。
 すきま風のせいか、部屋の扉がきぃと鳴いた。
 レイは手から力を抜いて煙草を床に落とし、靴で軽く踏みつけた。以前は何でもなかったひとりきりの時間が、今は長く退屈でたまらない。
「レイ兄さん?」
 すぐ近くで声がして、レイは肩を震わせた。顔をあげると、イレーネが眉を寄せてレイを窺っていた。
「ああ、イレーネ」
「大丈夫? ずいぶん顔色が悪いみたい」
「心配しないで。何もないから」
「それならいいんだけど……、あら」
 イレーネはソファの靴に目を遣って、首をかしげた。
「それ、リザの靴」
「ああ、そうだ。返しておいてあげて。忘れていったから」
「靴を片方忘れていくなんて、そんな嘘、私だって騙されません」
 得意げに腰に手を当て、イレーネは小さく笑った。レイはつられて目を細めた。
「それもそうか」
「リザと、喧嘩を……?」
 イレーネはレイの顔を覗き込み、自分の唇の端を指差した。手の甲で拭うと、わずかに血が滲んでいた。
「喧嘩じゃないよ。俺が彼女を傷つけたんだ」
 レイはイレーネが差し出したハンカチを断り、もう一度親指で血を拭った。今さらじんじんと痛みが疼く。
「彼女のプライドを」
「大丈夫よ。きっとまた、仲直りできると思うの……。だって、リザはレイ兄さんのことを、とても……」
「ありがとう」
 肩から力を抜いて微笑むと、それを見たイレーネは途端に耳まで真っ赤になった。何か言いかけようとして、何度も言葉を呑み込む。
「どうしたの、イレーネ」
「あ、あのね。リザがいたら言わないでおこうと思ってたんだけど……」
「いいよ、言ってごらん」
「来週、謝肉祭で広場にサーカスが来るらしくて」
「へえ」
「それで、もし、もしもレイ兄さんの都合がよかったら、一緒にどうかしらと思ったんだけど……」
「俺と?」
「えっと、他に予定があるならいいの。迷惑、だよね。お勉強も大変だろうし、お友達とのお約束とか、えっと、あの……」
 イレーネは胸の前で祈るように手を組み合わせ、雷が行き過ぎるのを待つように、ぎゅっと目を瞑った。彼女の必死さが、子供のようで可愛かった。
「いいよ」
 レイはイレーネの腕を軽くたたいて言った。
「ほ、ほんとに?」
「ああ、いいよ。そのかわり、この靴をリザに渡してくれるかな」
「もちろん! あ、そうだ。お友達も一緒にどうかしら。ほら、こないだレイ兄さんと一緒にいた……」
「フィオ?」
「ええ、そう。フィオさんも一緒に。きっと大勢の方が楽しいから」
 レイはあまり気が進まなかったが、イレーネの笑顔を見ていると断り切れなかった。
「そうだね。誘ってみるよ」