灰降る空と青の荊棘

04.道化を忘れた道化師は……(2)

 昨年の警察沙汰が響き、レイは学生代表という肩書きを失った。その引継ぎのために事務室を訪れ、すべての仕事を後継の生徒に託した。主席である事実は変わらないが、これまでの自分の居場所を失い、一抹の心細さがあった。
 廊下の窓から見える巨木は、葉を落とし、寒空に枝を広げて佇んでいた。一瞬、死んで骨になったかと錯覚する。注視して、息をとめる。そうすれば確かに生きているという静かな鼓動が、地面を介して伝わってくる。レイは足をとめて、壁の油絵を眺めるようにして外を見つめた。
 今まで、世界を美しいと思ったことなどなかった。この世に息づくものが、どれも等しく生きているなどと考えたこともなかった。
 フィオがレイの世界の色を塗り替えたのだ。彼がレイに、いのちの手触りを教えてくれた。フィオこそがレイにとっての神になった。
 覗きこんでいた窓に、ぼんやりと自分の姿が映りこむ。かつてはこの街に不釣合いだと思っていた灰色の瞳にも、もう疎外感を感じない。ここに在るからには、ここに必要なのだと思えるようになった。
 何よりフィオが、この灰色を好きだと言ってくれる。必要だと求めてくれる。それだけでレイには充分価値があった。
 授業の始まりを知らせる鐘が鳴り、ちらほらと庭にいた生徒たちが駆け足になった。レイもまた、窓から離れる。それと同じ頃合いで、背後にある資料室の扉が開いた。レイはそこに現れた人物を見て、思わず声をあげた。
「フィオ。どうしてこんなところに」
「あ、うん。少し、ね」
 フィオはレイと顔を合わせようとせず、横をすり抜けていこうとする。それを引きとめて、レイは強引にフィオの顔を覗きこんだ。
「顔色が悪い。体調がすぐれないんじゃないか」
「大丈夫だよ。ほら、今日は寒いせいかな」
 レイの手を器用に払いのけ、フィオは講義棟を指した。
「鐘、鳴ったよね。ごめん、レイ。次の授業は出ないとまずいんだ。これが終われば今日の講義は終わるから、戻ってゆっくり休むよ。だから心配しないで」
 そこまで言われては、レイにはもう一度フィオを引きとめることはできない。
「そうか。じゃあ、気をつけて」
「うん、ありがとう」
 駆け出したフィオは振り返って手を振った。レイはフィオの姿が見えなくなるまで、その小さな背中を見送った。
 背後に、かたい靴音がした。
「じつに美しい友愛ですね」
 粘ついた話し方に、首の後ろが総毛立った。レイはすぐに声の主に見当がつき、振り返って確かめた。
「ネスタ先生、講義はいいんですか」
「あいにく受講している生徒がほとんど帰省してしまってね。今日は休講なんですよ」
「そうですか。僕はこれから調べ物がありますので、これで失礼します」
 レイはネスタに軽く頭をさげて、踵を返す。
「ああ、待ってくれたまえ」
 ネスタはレイを呼びとめたが、レイは止まる素振りさえ見せない。失笑ともため息ともつかない吐息を、ネスタはこぼした。
「オルランド君、彼はどんな声でよがるんですか」
 歩き出した足がとまった。レイは肩越しにネスタを振り返る。
「なんの話ですか」
「とぼけなくてもいいですよ。私は知っていますから。君とフィオレンティーノ・デ・ヴィスコンティの関係を」
 ネスタは針金のように細い目をさらに細めて笑った。レイはネスタの顔と資料室を交互に見遣って、眉を寄せた。元気のなかったフィオの顔が思い出された。
「先生、僕とフィオはルームメイトですよ。それ以外にどんな関係があると?」
「それを私の口から言わせたいのですか。君も存外物好きですね」
 青白い顎をさすり、ネスタはレイに顔を近づけた。
「彼に咥えさせているんでしょう」
 レイは至近距離でネスタを睨みつけた。それを受けて、ネスタはさらに笑みを刻む。
「聞かせてくれませんかね。彼の欲情を」
「そんなものを聞いてどうする」
「野暮ですねえ」
 ネスタは痙攣したような声で肩を揺らして笑い、レイの全身を舐めるように見た。
「君のように恵まれた人にはわかりませんよ、私のような性癖は」
「人の行為を覗き見て興奮するって?」
「そう言いますがね、私はもう使い物になりませんから、実際は君が思っているよりずっと精神的で、ずっと崇高な行為なんですよ」
「それは結構なことですね。でも他を当たってください。俺にはあんたの妄想に付き合う義理はない。もちろんフィオを晒しものにするつもりもない」
 レイは鼠のように貧相なネスタを冷たく一瞥して、立ち去りかけた。
「レイ・オルランド。君はマルコ・ピエリが退学してもいないのに、突然ルームメイトが変わって不思議に思わなかったか」
「え」
 思わず立ち止まった。ネスタはそのまま続ける。
「学生代表をしていた君のことだ。事務手続きに関しても精通しているだろう。この事態が異例だということはわかっていたはずだよ」
 ネスタの言うとおりだった。だがレイはフィオとの再会で、少なからず冷静さを失っていたのだ。
「それが今、何の関係があるんです」
「彼だよ。フィオレンティーノ・デ・ヴィスコンティが、私のところへ頼みに来たんだ。レイ・オルランドと同室にしてくれとね」
 挑発的なネスタに対し、レイはじっと押し黙った。その話が真実だとしても、フィオに即座に落ち度があるとは断言できない。特にマルコの場合は、ことがことだ。学校側も目立って反対はしなかっただろう。
 問題なのは、フィオがネスタに対して、何を見返りにしたかだ。ネスタが無償で働く男でないことは、レイにはにおいでわかる。
「金をもらったなら、受け取ったあんたも同罪になるぞ」
「ふふ。金になんて興味はありませんね」
 ネスタは黄ばんだ歯を覗かせて、糸を引くような笑みを見せた。レイはとっさにネスタの襟を掴み、壁に押しつけていた。
「フィオに何をした!」
「私は何も」
 息苦しげに顔を歪めながら、ネスタの口元には余裕と嘲笑が浮かんでいた。レイはあいた方の手をきつく握りしめた。ネスタは知っているのだ。フィオの体を、彼の体の傷までも見ているのだ。
「だったらなぜ、フィオのことを聞きたがる。もう、愉しんだんじゃないのか」
「それがねえ。残念なことに、彼はまるで人形みたいだったんです。欲しがるでもないし、嫌がるでもない。声のひとつも出さず、眉すら歪めずに終わってしまった。それが本当に残念でね」
 先ほど部屋を出てきたときのフィオを思い出す。どこか元気がなかったのは、再び迫られたからか。
「フィオはもう、対価を支払ったはずだ。あんたが満足できないのは、フィオのせいじゃない」
「しかし彼は私を愉しませると言ったんだ。正確には支払われていないんだよ」
 レイには返す言葉がなくなってしまった。力を抜き、ネスタから手を離す。
「……フィオでないと、駄目なのか」
「君が代わりに抱かれるとでも? 悪いが趣味じゃない」
「じゃあ、誰だったら」
「彼が駄目だと言うのなら、そうだな、いつだったか君の所へお嬢さんが来ていましたね」
「お嬢さん?」
「そうそう。ほら、亜麻色の髪をした」
「ああ……」
 イレーネのことだ。
「もし彼女を紹介してくれるなら、私もこの一件から手を引きましょう」
「本当だな」
「それはこちらの言葉だよ、レイ・オルランド。いいのかい。あのお嬢さんはずいぶん君を頼っていたようだけど、裏切ることができるのかな」
 レイにも若干の罪悪感がないではない。ずっと妹のように可愛がってきた。だがそれでフィオを救えるのなら、迷いはなかった。
「謝肉祭の初日、俺とイレーネを襲え。そのあとは好きにすればいい」
「へえぇ。わかりました。手筈はこちらで整えましょう。場所はまた後日お伝えしますので」
「たがえるなよ」
「ははは」
 ネスタはレイの肩をたたき、事務室の方へと歩き出した。
「君の方こそね」
 立ち去っていくネスタの背中を睨みつけ、レイは舌打ちを洩らした。