灰降る空と青の荊棘

04.道化を忘れた道化師は……(3)

 街の方角から、楽隊の笛の音色が途切れ途切れに聞こえてくる。レイは応接間から続くバルコニーに出て、風に当たった。
 雑多な街並みの向こうには、青黒い海が涼しげに凪いでいた。冬の日差しが水面を舐めて、ときおり光る。頬に触れる冷たい風が海の吐息に思えて、レイは手のひらで頬を拭った。
 謝肉祭の初日になった。
 レイはほとんど寝つけないまま朝を迎えた。頭の奥には鈍重とした痛みがある。しかし心はそれほど暗鬱としていない。むしろ昂っている。
 眉根に落ちるわずかな影も見逃すまいと、一晩中、フィオの寝顔を見つめて過ごした。この穏やかな微笑をこの手で守るのだと思うと、軍団を任された騎士のように誇らしかった。
 煙草に火をつけて、胸の震えを煙とともに吐き出す。空には爪で引っ掻いたような雲が浮かんでいた。
 フィオが部屋の中から窓を叩いた。レイが気付くと、窓を開けてバルコニーへ出てくる。
「おはよう、レイ。早いね」
「ああ」
「謝肉祭、街へ?」
「悪いな、一緒に行けなくて」
「平気。レイもたまにはオーナーらしいことしなよ」
「ああ」
「ね、来年は一緒に行こうね、サーカス」
 ブランケットを肩にかけ体を丸めたフィオは、寒さに頬を染めてレイを見上げた。小さく頷いて、レイは目を細めた。
 予定よりも早めに、レイはイレーネとの待ち合わせ場所へ向かった。馬車を使えばすぐのところだが、ゆっくりと歩く。
 広場には多くの仮装した子供たちが走り回り、卵に見立てた毛糸玉を投げつけあっていた。近年の物価高で、卵は特に貴重になった。いくら謝肉祭とはいえ、投げつけるほどの余裕はない。
 人ごみの向こうに、明るい亜麻色の髪が見えた。すでにイレーネが来ていた。レイは軽く駆け足になった。
「ごめん、遅れたかな」
「おはよう、レイ兄さん。ううん、私が早く来すぎてしまって」
「それだけ楽しみにしてくれてたんだね」
 レイがイレーネの肩に手を置いて腰をかがめると、彼女は顔を真っ赤にして俯いてしまった。
「行こうか」
 そのまま肩を抱いて歩き出す。
「あ、あの、レイ兄さん。お友達は――」
「ねえ、イレーネ。その呼び方、変えよう」
「え」
 イレーネは驚いて顔を上げた。それを間近に見おろして、レイは自分を指差した。
「俺はイレーネの兄貴じゃないんだから、レイ兄さんっていうのはやっぱり変だよ」
「でも、ずっとこうだし……」
「そうだね。でもそれを変えちゃいけないなんて、誰が言ったの? それが今日で何か都合が悪いかな」
「そんなことは、ないけれど……」
「イレーネ。レイって呼んで」
 唇を寄せて、囁きで懇願する。イレーネはかたく目を瞑って立ち止まった。
「イレーネ」
 おそらくイレーネが聞いたこともないような甘い声で催促する。イレーネは崩れるようにして短く息を吸った。
「レ、レイ……」
 今にも消え入りそうな声でイレーネはレイの名を絞りだした。レイはいい子だと耳打ちをして、雛鳥のようにふっくらとした少女の頬へ口づけた。イレーネは頬を押さえてレイを見上げた。レイは彼女に微笑んで、肩を強く引き寄せた。
「さ、行こう。イレーネ」
 そのときレイが考えていたのは、いかにして被害者になるか。その一点だけだった。
 サーカスのテントは広場の半分を占めるほどの大きさで、中はすでに人いきれに包まれていた。子どもはもちろん、大人も期待に満ちた顔で開幕を心待ちにしている。すり鉢状になったテント内は、舞台がいちばん低い場所にある。レイは前から五列目の席に座り、イレーネは舞台のあれやこれやに目移りをしていた。レイはあまり見たことのないイレーネの興奮ぶりを眺め、次の機会には必ずフィオを連れてこようと決めた。
 入り口の布がおろされ、テント内が一瞬の薄闇に覆われる。驚いたイレーネが思わずレイの腕にしがみついて、彼女はそれにもまた驚いて小さく声を上げた。
「いいよ、そのままで」
 レイは離れようとするイレーネの手を掴んだ。働き者の彼女の手はなめらかさに欠けたが、指はフィオと似て細かった。
「危ないかもしれないし」
 ぼんやりとした視界のなか、イレーネの瞳を見つめ返す。少女は頷いてレイの手をかすかに握り返した。
 いくつもの松明が列になり、やがて舞台が照らし出された。大きな歓声が沸き起こり、期待を一身に集めた曲芸師たちが舞台の中央で礼をした。
 猛獣を巧みに操って炎の輪をくぐらせたり、象の背に乗って芸をさせたりして、曲芸師は同じ人の姿でありながら動物と言葉をかわせるようだったし、不安定な足場の上で逆立ちをしてみせたり、命綱もなしで細い竿の先端まで登りつめたりと、肉体の重みを一切感じさせない動きで観客を喜ばせた。
 しかしいちばん拍手が大きかったのは、派手な格好をしたピエロによる手品の数々だった。ピエロは動きだけで観客の笑いをとりながら、さりげなく鳩を出したり、撒き散らした紙ふぶきを一本のリボンに変えてみたりした。その動きはコミカルで可愛らしいものだったが、ひとつの無駄もなく洗練されていた。
 隣に座るイレーネは、小さな子どもと同じように笑ったり驚いたりしながら、ピエロに夢中になっていた。握っていた手をそっと離しても気付かない。レイは組んだ脚に頬杖をついて、舞台をぐるりと取り囲む炎を見ていた。
 ゆらゆらと不規則に揺れながらも、盛んに燃える炎の芯は微動だにしない。松明の先でしか生きられない、広がりのない、行き場のない存在なのだ。無理やり連れてこられた奴隷のように、息を詰めてただじっと油が切れるのを待っている。レイは松明の炎に、かつての自分を重ねて見た。
 たとえどんなに美しく燃えようとも、松明からは逃れられない。運命からは逃れられないのだ。絶望がさらに炎の色を深めようとも、それは誰にも気付かれることのない足掻きだ。
 だが今はそうではない。フィオから愛の息吹を注がれて、無限の世界を知った。自由とは自らのうちにあると知った。もう、流されることを善しとはできない。
 解き放たれることのない松明の炎が、レイには切なくてたまらなかった。
 一際大きな歓声に、レイは顔をあげた。ピエロは客席の右端に向かって両手で手を振り、体を揺らしていた。少し腰をあげて覗いてみると、小さな花束を持った子どもが、ピエロに手を振り返していた。
「あの花束、松明の陰から出てきたのよ」
 イレーネが小声で教えてくれた。
 舞台で踊るピエロは、大げさな化粧で表情がわからない。裂けそうなほど大きな口は笑顔に塗り固められ、目元の青い縁取りは息遣いを感じさせない。たとえピエロがこの観客に対して怒りを抱いていても、誰にも見抜くことはできない。だがもし、あの化粧が崩れることがあったなら、ピエロはピエロになることを恐れるだろう。絶対に剥がれない仮面が、この見世物を支えている。
 思考に落ちて、ぼんやりと舞台を眺めていたレイは、ふと鋭い視線を感じて我に返った。しかし目だけを動かして周りを見渡しても、こちらを向いている者などひとりもいない。みな、ピエロの指先に釘付けになっている。
 否、ひとりいた。
 レイは舞台の中央に向かって、目を眇めた。
 そこには極彩色のピエロがいた。どこを見ているのかわからない顔つきで、ピエロは袖口から新しい花束を取り出す。歓声が渦を巻き、ピエロが深く一礼をした。客席のあちこちから、花束を欲しがる声があがった。ピエロは照れるような仕草を見せながら、再びレイを見た。
「レイ、こっち見てるわ」
 上ずった声でイレーネが呟いた。
 ピエロは勝手にひとりで頷くと、レイに向かって手を差し出して唐突に花束を投げた。白いリボンで結ばれた花束は、淡い花びらを散らしながらレイの腕の中におさまった。レイはにこやかにピエロへ向かって手を振って、花束をイレーネに渡した。場内はあたたかな拍手に包まれ、それが合図だったかのように入り口の布が大きく開かれた。サーカスの幕切れは、思いのほかあっけないものだった。観客はすんなりと夢から目覚めて、出口へ向かってぞろぞろと歩き始めた。
 視界の隅に、舞台から立ち去るピエロが見えた。ついさきほどまで夢の粉を振りまいていた道化師は、喝采と注目から切り離されて道化の皮を剥ぎ取られていた。その横顔に、素顔が透ける。
 不意に、ピエロに笑われた気がした。
 お前の仮面はどこへ行ったのだ、と。

 サーカスの人込みを抜け、レイはイレーネを連れて路地に入った。表通りと違って人気がなく、街は閑散としていた。灰色の石畳には色とりどりの紙ふぶきが、水を含んで張り付いていた。その中に、祭りにそぐわない真っ黒な紙ふぶきを見つける。
「ねえ、これからどこへ行くの?」
「友人から評判のいいリストランテを教えてもらったんだ。調査がてら、どうかなと思って」
「嬉しい。私、アッズーロ以外のお店には行ったことがなくて」
「それはよかった。でもあまり期待しないでいいよ」
「どうして?」
「だって、どうせうちには敵わないから」
「まあ」
 イレーネはサーカスでもらった花束を大事そうに抱えて、くすくすと笑った。レイは曇り空の瞳を細めてそれに応えた。
 道は次第に細くなり、馬車一台がやっと通れるほどの道幅になった。近道をするとは言ったものの、普段あまり踏み入れない界隈に、イレーネは明らかに怯えていた。もしこれがリザだったなら怯えないだろうし、嫌なものは嫌と言っただろう。だがイレーネは、レイの後ろを健気にもついてくる。
 背後から、数人の男がついてきた。レイはイレーネの手をひいて、足を速めた。
『朝いちばんのサーカスを見終えたら、広場から西の路地へ。目印に黒い紙ふぶきを撒いておきます』
 足元の紙ふぶきが途切れる。それでもまだ道なりに路地を進むと、前方では幌馬車が横付けになって道を塞いでいた。
 レイは足をとめた。背中にイレーネがぶつかる。
「レイ兄さん……」
「逃げ場はないみたいだ」
 レイは男たちを振り返り、イレーネを背後にかばった。数歩先で男らも足をとめた。人数は五人。レイが思っていたより多かった。ネスタにいかに信用されていないかがわかって、レイは思わず口元をゆるめた。
「なに笑ってんだ」
 一団の真ん中に立っていた男が、声を荒げた。男は背丈こそ低いが逞しい体つきをしていて、顔や手には無数の傷跡があった。はおっている上着は袖や襟が擦り切れ、わずかに覗いたシャツも垢だらけになっていた。ただ、首に巻いた朱色のスカーフが、浮世離れした鮮やかさで揺れていた。
 レイは目顔で男に広がれと指示をして、さらに一歩下がった。
「ついてないと思っただけさ」
「余裕だな。気に食わねえ」
 それは男の本音であるようだった。できれば演技は少ない方がいい。
 レイたちを取り囲もうとして、一団は徐々に広がっていく。レイはそれに合わせて、少しずつ下がった。イレーネの手を強く握り、引き寄せる。
「イレーネ、よく聞いて」
 肩越しに振り返り、レイは口早に言った。
「俺が合図をしたら、馬車の方へ走るんだ。下に隙間があるだろう。君だけなら通れるはずだ。そこから抜けて、誰かに助けを求めてきてくれ」
「で、でも、レイ兄さんが」
「いいから。それに、俺は兄貴じゃないよ」
 念を押すと、イレーネは黙り込んだ。レイはそれを了解と受け取る。二人の会話を行儀よく待っていた男に向き直り、レイはイレーネから手を離した。
「今すぐにここから立ち去ってくれるなら、君たちの人相は誰にも言わないでおこう」
「何を企んでいやがる」
 思いがけない提案に、男は歯並びの悪い口元を歪めた。聞いていた話と違うとでも言いたげに、レイを睨みつけてくる。レイにはその程度がちょうどよかった。ぬるいやり方では、イレーネの意識を塞ぐことはできない。
「何も。俺はここから無事に逃げ出したいだけだ」
「ぬかせ」
 男は訛りを丸出しにして唾を吐き捨てると、勢いよくレイに掴みかかった。レイは男の手を上から掴み、深く瞬きをして殴れといった。振り上げられた拳を見上げて、レイは歯を食いしばる。直後、骨と骨のぶつかる音がして、レイは衝撃で壁にぶつかった。すぐに腹を蹴り上げられる。やりすぎだと思ったが、挑発したのはレイ自身だ。咳込みながら痛みに耐える。
「さっきまでの威勢はどうしたよ! この貴族風情がっ」
 さらに二人が加勢して、意識がイレーネから離れた。残る二人もレイと仲間に気を取られ、彼女の方を見ていない。レイは相手の力が弱まった隙を狙って、声を張り上げた。
「行くんだ、イレーネ!」
 声に驚いた男たちが我に返ってイレーネを振り返る。彼女はすでに馬車へ向かって走り出していた。
「おい、待て!」
 外周にいた男二人が、慌ててイレーネを追いかける。追っ手に気付いたイレーネが後ろを振り返って、声にならない悲鳴をあげた。男の粗暴な腕がイレーネの亜麻色の髪を引っ掴む。イレーネは痛みに呻いて足をとめた。
「イレーネ!」
 レイは正面にいた男に肩からぶつかって、ともに倒れこんだ。体が重なった刹那に、隠し持っていたナイフを握らせる。
「俺の腕を切れ」
 相手にしか聞こえないような小声で言って、レイはふらつきながら先に立ち上がった。すぐさま服を引っ張られ、ぐらついた隙に腕を切りつけられた。ナイフの冷たさが体を掻き切って、すぐに熱がふきだした。
「ぐっ」
 血がすぐに出るように、傷口を押さえる振りをしながら逆に傷を広げる。レイは石畳に膝をついて体を折った。
「レイ兄さん! レイ……!」
 ひび割れそうなイレーネの声は、助けを求めてのものなのか、それともレイを心配してのものなのか、レイにはわからない。
「行くぞ」
 男の声がして、足音が遠ざかっていく。腕の傷は思ったよりも深い。腕は痺れて、首や額からは冷たい汗が落ちた。
「離して! レイ兄――」
 ぷつりとイレーネの叫びが途切れて、麦の入った袋を投げ捨てたときのような鈍い音がした。すぐに馬が嘶いて、道を塞いでいた幌馬車が走り去った。レイはそれを、石畳に落ちる汗を見つめながら聞いていた。
 路地に静寂が戻った。レイは腕を押さえて立ち上がり壁伝いに歩いたが、やがてずるずると座り込んだ。
 大通りからは、楽隊の鳴らす管楽器が洩れ聞こえた。地鳴りのような太鼓の音も、空気の壁を揺らしている。レイは足を投げ出して座り、向かいあった壁を見つめていた。
 寒さで鈍った鼻先を、かすかな血のにおいが掠める。見ると指先までが真っ赤に染まっていた。嘘のような鮮やかさがサーカスで見たピエロのようだった。
 幌馬車の停まっていた場所に、違う馬車が車輪を軋ませながら横付けした。
 深い緑色の扉が小さく開き、隙間から杖が差し出された。
「思ったとおり、周到な男だね」
 杖の先が石畳の上に落ちた花束にかかる。器用に引っ掛けて持ち上げると、男の手が花の間に何かを挟みこんで、レイの方へと投げ寄こした。
「偽造した書類だ。私が手を回した証拠は他にはもうない。心配ならば調べてみるといい。それから、もし書類の欠損が明らかになったとしても、調査が行われることはないから安心したまえ。あらためて現状に合わせた書類が作成されるだけだからね。これで、フィオレンティーノ・デ・ヴィスコンティは晴れて君のルームメイトだ」
 レイは顔を上げて、扉の隙間からかろうじて見えるネスタの黄ばんだ歯を一瞥した。あれほど感じた疎ましさも、今は凍えてしまってわからない。
「彼の喘ぎ声が聞けないのは残念だが、まあ、君のそんな姿を見られることも、そうないだろう。これはこれで楽しませてもらったよ」
 ネスタは沸き起こる笑いを抑えるように、低い静かな声で言うと、扉を閉めて馬車を出した。
 手を伸ばして、花束を引き寄せる。純白だったリボンは砂埃にまみれて灰色になり、茎は折れて汁を垂らし、花びらは老人の歯のようにまばらになっていた。そこにまたレイの血が落ちて、花束は色までも見失った。
 リボンに挟まれた紙を抜き取る。留め金を外して中を確認し、レイは石畳の上に腕を下ろした。
 頭を壁にもたせかけ、長い息を吐く。白い吐息は紫煙よりも重たげに空に消えた。
 レイは口を歪めた。声になりきらない笑いが、息になって洩れる。耳の底にはイレーネの必死の叫びがこだましていた。レイは持っていた紙を握りしめ、肩を揺らして笑った。
「ふ……ふ、う」
 歯の隙間から声が零れ落ちる。それがどうしてか自分の声には思えなかった。これでフィオを救えたのだと何度言い聞かせても、みるみる心が凍りついていく。他人をどんなに傷つけようとも痛まなかった心が、今は凍りつきながら膿んでいく。これがイレーネへの情愛なのだと気付いても、もう後戻りはできないのだ。彼女がこれからどんな目に遭うのか、レイにはわからない。知りたくもない。だがピエロの手品に夢中になって、大事そうに花束を抱えていた少女が帰ってくることは、もうない。それだけは明らかだった。
 イレーネはこの日のことをどう思い出すだろうか。繋いだ手を思い出してくれるだろうか。レイと呼んだときの恥ずかしさに頬を染めてくれるだろうか。それとも――。
「イレーネ……」
 それとも、すべてを嫌悪するだろうか。
 憎むだろうか。恨むだろうか。
 嫌われるならそれでいい。忌まわしい記憶として封をされるなら、それもまた受け入れられる。
 だが彼女がレイに対して罪悪感を覚えたなら……。
 たとえ彼女がレイの関与を知らずとも、レイ自身は知っている。それがレイを罪の渦へと突き落とした。
 ダリオの穏やかな顔が浮かぶ。四角い顔は悲しみには似合わない。だが脳裏に浮かんだダリオの眼差しは、切ないほど何も映さず、無のうちから悲嘆の陰をにおわせた。彼は一緒にいたレイを責めないだろうが、それがいっそう心苦しい。
 手の中にある紙の手触りに、ぬるりとした血の感触が割ってはいる。自分自身の血のはずが、妙にあたたかい。このあたたかさは、ここにあるべきものではない。これは、神である彼の中にあるべきぬくもりだ。
『レイ、ずっとずっと一緒だよ』
 街を洗い流す雨のように、フィオの澄みきった声がレイの痛みに降りかかる。全身を包まれて、癒されて、撫でられて、愛されていく。
 そうだ。フィオがいる。
 暗闇の中で一条の光に出会ったように、レイはフィオの存在にしがみついた。そしてその光が広がって闇が払拭されていくように、レイの心を締めつけていた罪の鎖がほどけていく。
 腹の底から、笑いがこみ上げた。何を思い悩んでいたのだ。今さら罪などに怯えてどうする。自分は神を救ったのだ。この手で、この身を捧げて、あの美しい神を護ったのだ。
 一体どんな不満があるというのか。
 レイは握りしめていた書類を手離し、取り出したハンカチで腕を止血した。
 はやく、はやくフィオに会いたい。会って、強く抱きしめたい。
 ただその一心で、口に挟んだハンカチの端をきつく引く。ほんの一瞬でも、彼を抱く腕に不足があってはいけない。自らに与えられたすべての力を賭して、フィオを抱きしめる。
 レイにはもう、フィオを愛することしか道がないのだから。
 上着のポケットからマッチを取り出し、おぼろげな手つきで火をつける。冷たかった指先に炎の熱がかすめて、レイは書類の上にマッチを投げ落とした。炎に触れた部分はすぐに黒くなり、風にあおられて空に舞い上がっていく。小さかった炎は紙を飲み込んで膨らみ、貪欲に次を求めて舌を伸ばした。
 灰が空への道半ばで粉々に砕けていく。見上げていると、地上から吹き上がったのか、天上から降ってきたものかわからなくなった。
 血に濡れた花束を、まだ残っている炎に添える。
 炎にあおられ千切れた花が、その身を灰へと貶めながら、空で踊った。