灰降る空と青の荊棘

05.完全な世界(1)

 幼い頃、浜辺で作った砂の城を思い出す。日が暮れるまで黙々と作り上げた城は、夕日を浴びてどんなに誇らしげにしていても、翌日には海に呑まれて消えていた。手をかけた城が無情に壊れていくたびに、新しい城を作る気概は日に日に失せた。
 だから、今ここに確かにあるものに固執していく。
 レイは腕に抱いたフィオの髪を撫で、薄いカーテン越しに夜空を眺めた。フィオの部屋から見える夜空は、どこの夜空よりも濃く、深く、何より煌めきに満ちている。
「包帯、替えようか?」
「ありがとう」
 レイは体を起こして、ベッドの端に座った。机の上に置いたままになっている包帯と消毒液を持って、フィオが隣に腰掛ける。
 謝肉祭から一週間が経った。
 腕の傷は深く、縫い合わせたあとも痛みが引かない。利き腕ではなかったため、日常生活に大きく響くことはないが、指を動かすことさえ難しい。医者は傷が完全に塞がったとしても、以前のようには動かないかもしれないと言った。レイは特に感慨もなく、はいと返事をした。
 フィオは慣れた手つきでレイの包帯をほどく。
「まだ少し、蒸れた感じがするね」
「塞がるまでの辛抱だな」
「この消毒液、効いてるのかなあ」
 手に持った茶色い小瓶を月明かりに透かして、フィオは片目を眇めた。彼には怪我の理由を、街で喧嘩に巻き込まれたと言ってある。もちろん、イレーネのことも話していない。
「大丈夫だよ、少しずつ痛みはひいてるから」
「本当に?」
「ああ」
「だといいけど」
 新しいガーゼに汚水のような色をした消毒液を染みこませ、フィオはレイの腕を引き寄せた。ガーゼを傷に近づけて、不意にとまる。
「どうかしたか」
 問いかけを待っていたように、フィオの青い眼差しがゆらりとレイを見上げる。背中を畏怖が這い上がった。レイは知っているはずのフィオの美しさに、思わず怯んだ。
「かわいそうなレイ……」
 小さく呟くと、フィオは形のいい唇から赤く尖った舌を差しだし、傷から滲む汁を舐めとった。
「フィオ」
「全部、僕が吸い出してあげる。痛みも熱も、なにもかも」
「やめろ、フィオ」
 レイはもう片方の腕でフィオの肩を押し返した。
「レイの傷、僕もほしい。ちょうだいよ」
 フィオの哀願は失敗を知らない。レイは拒絶を呑み込まざるをえなかった。肩を押さえていた手を離し、レイは顔を背けた。ややすると、傷の周囲を生温かくてやわらかな感触がたどった。ベルベットを逆さに撫でたときのようなざらつきが、濡れながら肌を舐めあげる。飢えた舌先は、やがて生々しい傷口へと触れた。
 レイは痺れるような痛みに思わず息を詰めた。傷口を馴らすようにフィオの吐息が掠める。体中を駆け巡る痛みは、欲情と紙一重だった。
「わがままして、ごめんね」
「……フィオ」
「約束したのにね。僕がレイを守るって」
 フィオは消毒液を染みこませたガーゼを、あらためてレイの傷口に貼りつけ、清潔な包帯を巻きつけた。生乾きの傷口に消毒液がよく沁みる。レイは痛みをごまかすように微笑んだ。
「大丈夫。守られてるよ。手当てまでしてもらってる」
「レイがそう言ってくれるなら、いいんだけど……」
 包帯の端を結び、フィオはその上に口づけた。軽く伏せられた青い瞳に星の影が落ちる。憂いの光が暗く輝く。
「ねえ、レイ」
 吐き出される声には、戸惑いが見え隠れした。レイは首をかしげて先を促した。フィオは音を立てて唾を飲み込み、レイを見上げた。
「本当はしてるんでしょ」
「してるって、なにを」
「反政府、活動……」
 真っ直ぐ見上げてくるフィオを見つめ返して、レイは言葉を詰まらせた。視線を逸らすこともできない。
「それは……」
「いいよ。僕に嘘はつかないで。通報したりしないから」
 フィオはレイの体にしがみついた。肩が小さく震えている。怯えている。レイはフィオの髪を撫でて、華奢な体を抱きしめ返した。
「そうだ」
「もうずっと?」
「ああ。出会った頃から、似たようなことをしていた」
「じゃあ、この傷もそのせい? 街で喧嘩に巻き込まれたなんて、嘘?」
 腕の中でフィオが顔をあげた。違うと言っても聞き入れられそうにない。レイは静かに頷いた。フィオの端整な顔が、みるみる悲しみに歪む。レイは体の内側が縮んでいくような心地がした。フィオの頭を強引に自分の肩に押しつけて、レイは彼の首筋に顔をうずめた。
「嘘をついて、すまない」
「違う。そうじゃない。そうじゃないんだよ」
 フィオはレイの胸を押して体を離し、何度も躊躇いがちに視線を逸らした。
「だったら、僕はレイの敵?」
「え」
「僕はヴィスコンティの人間だよ。反政府活動って、つまり僕の父上を……、アレッサンドロ・デ・ヴィスコンティを引きずり下ろすってことでしょ」
 レイはとっさに違うと否定することはできなかった。なぜならそれはどこまでも正しかったからだ。
 黙りこむレイを見上げて、フィオもまた口を噤んだ。
 活動家の敵は富を牛耳るもの、権威を振りかざすもの、名声をほしいままにするものだ。今この国において、それはアレッサンドロ・デ・ヴィスコンティ、つまりフィオの父を指す。
 わかっていなかったわけではない。フィオがヴィスコンティの人間である限り、レイが反政府活動を続ける限り、二人の住む世界は永遠にすれ違う。だが明らかにならないうちは、すべて今のまま続けられると思っていた。
 フィオは使い終わった包帯を床に放り投げ、消毒液を机に置くため立ち上がった。
「ねえ、レイ。もしも僕の父上がいなくなったら、レイは活動をやめたりする?」
 声はむしろ明るい。だがフィオの背中は寒さに震える雛鳥のようだった。その心細い姿に、返すべき言葉が死んでいく。
「フィオ――」
「ごめん、訊いてみただけ」
 振り返ってフィオが微笑む。レイは弾かれたように立ち、フィオを抱きしめた。腕の中のフィオはいつだって壊れてしまいそうで、けれども何より確からしかった。
 脆く強く、儚く常しえで。
 一瞬でも気を抜けば、フィオとレイを結びつける繋がりは切れてしまいそうで、だが繋がっている間は確かにそこに永遠があった。
 絶対に波に呑まれることのない、砂の城があったのだ。
 月明かりからも、世界からもフィオを覆い隠したかった。誰にも彼を渡したくない。見せたくない。彼は自分だけのものなのだ。そしてレイも彼だけのものになる。
 互いが互いの存在する意味になる。ここに繋ぎ合う。
 この想いは愛や恋という言葉では表しきれない。存在の証明だ。
 もしフィオがここにいなければレイはなく、二人がいなければ世界もない。抱きしめて、口づけて、舐めあって、そうして皮膚を越えて互いの体に踏み込んでいく。その間だけ、祭りの夜のように世界が闇に浮かびあがった。
 知り尽くしたフィオの体を、いつだって初めてのように貪る。組み伏しながら、跪く。そうやって神と交わり、世界に溶かされていく。涜神的な行為であるほど寝台は浄化され、レイの吐き出した愛を浴びるほどフィオは月より清かに輝いた。
 自分の体を見失いそうになりながら、命懸けでフィオを抱く。明日が来なくてもいいと本気で思う。今だけが二人のすべてになる。
 世界は、月明かりの部屋で完結した。