灰降る空と青の荊棘

05.完全な世界(2)

 店からの使いが寮へ来たのは、謝肉祭から二週間が経った日のことだった。その日はちょうどフィオも実家へ戻っていたので、寂しさを紛らわせるためにも二つ返事で承諾して部屋を出た。
 病院へ立ち寄って布で腕を吊ってもらう。痛みはほとんど引き、傷口も良好だったが、やはり指先の動きはぎこちない。そのときはじめて、顔なじみの医者ははっきりと口にした。もう元に戻ることはない、と。それでもレイは、はいと答えるだけだった。
 夕方過ぎに店を訪れたが、客の姿がまったくない。このところ店の業績が良くないことは聞いていたが、ここまで悪いとは思っていなかった。テーブルを拭いていたアントンがレイに気付いて、苦笑とも失笑ともつかない笑みを見せた。
 二階へあがる扉を開けると、階段の手前にはダリオと料理長がいた。二人はレイに気付かず、店のことについて厳しい顔つきで話している。レイは二人に声をかけず、扉を閉めた。
 長椅子に座り、片手で器用にマッチをこすって煙草に火をつける。吐き出したひとつめの紫煙は、むしろため息だった。すっかり薄暗くなった店内の天上を見上げて、体から力を抜く。
 イレーネはあれからずっと行方が知れないと聞いていた。一度警察が寮まで話を聞きに来たが、レイもまた被害者であることから深く追及されることはなかった。ダリオとも顔をあわせていなかった。しばらく見ない間に、ダリオの四角い顔はさらに四角くやつれていた。
「オーナー、夕飯どうしますか」
 人数分の皿を並べながら、アントンが言った。レイは鼻をすんすんと鳴らした。
「ピッツァか」
「はい。あ、もうすっかり暗くなりましたね。灯り持ってきます」
 アントンは並べた皿を数えると、厨房へと戻っていった。久しぶりに嗅ぐ店の料理の香りは、どこか懐かしさを覚えるものだった。体が素直に空腹を訴えた。
「俺も食べるよ」
 灯りを携えて戻ってきたアントンに、レイは小さく笑って言った。アントンは燭台に火を移して、元気よく返事をした。
「アントン、ところで今日は……?」
「あれ、聞いてないんですか。イレーネが助け出されて、ダリオさんも少し落ち着いてきたから、そのお祝いを『アッズーロ』でしようって」
「イレーネは、無事だったのか」
 レイは背もたれから体を起こした。アントンは静かに頷いた。
「一週間くらい前だったかな。東部の農村にあった古い小屋で見つかって。だいぶ、その、酷い目に遭ったみたいですけど……」
「そう、か」
「イレーネにしてみたら、死にたいくらい辛かっただろうけど、でもやっぱり生きていてくれて本当に良かったです。本当に」
 小柄でいつまでも幼さの抜けないアントンだが、眉を寄せながらイレーネを語る面差しは、ひどく大人びていた。レイは初めてアントンのイレーネへの気持ちを知った。
「オーナーも、腕、大丈夫ですか」
「あ、ああ。俺は大したことないよ」
「それなら安心しました」
 子どものように無邪気なアントンの微笑みが、今のレイには重苦しかった。
 外がすっかり暗くなると、ぽつぽつとメンバーが集まり始めた。最後にジュリオが駆け込んできて、椅子は埋まった。
 アントンは開店時のように給仕に精を出し、場を少しでも盛り上げようとしたが、イレーネの無事を、大手を振って喜ぶことは誰にもできなかった。
 呷るように酒を飲んでいたジュリオが、やがてふらりと立ち上がり、レイの隣に腰を下ろした。
「この席からは、俺たちがよく見えるんだな」
「それが?」
 レイは煙草を吸いながら、ジュリオの横顔を見遣った。
「あんたはいつだって、高みの見物か」
 ジュリオは肩を揺らして笑い、レイに顔を寄せた。
「なあ、あんたほんとに怪我してるのか。大仰に布で吊ってるが、触ったって、痛くなんかないんだろ」
「何が言いたい」
 レイは自制が利かず、ジュリオを睨み返した。すぐ近くに見るジュリオの濃色の瞳が、灯りと怒りで揺らいだ。
「わかんねえなら、はっきり言ってやるよ。どうしてイレーネを命懸けで守らなかったんだ。たかが腕の怪我くらいで、なんだってあの子の手を離したんだ!」
 ジュリオは持っていたグラスを床に叩きつけると、レイの襟首を掴んで強く引き寄せた。
「ジュリオさん!」
 アントンが椅子から立ってジュリオの肩を引いた。しかしジュリオはアントンを払いのけ、レイに向かって牙を剥いた。
「いいか、イレーネをあんな目に遭わせたのはお前だ。涼しい顔して被害者におさまりやがって。気に食わねえ」
「俺はお前の気にいるように生きる義理はない」
「ふざけんな。イレーネはな、イレーネは、もう歩けないかもしれないんだ。もう結婚だって出来ないかもしれないんだ。その意味がわかってるのか」
「だったら俺がイレーネを、つ――」
「レイ」
 ダリオの短い呼びかけに、レイは口を噤んだ。ダリオはジュリオの手をレイから剥ぎ取ると、アントンに割れたグラスの処理を指示して、長椅子のそばにしゃがみ込んだ。
「レイ、腕はどうだ」
「大したことないよ」
「嘘をつけ」
 眉を寄せて苦笑して、ダリオはレイの手を握った。
「さっきから、こっちの手を使ってない。マッチをつけるのにも随分と難儀してるじゃないか」
「こんな風に腕を固定されると使いにくいものだよ」
「だいぶ深かったんだろう、傷は。警察の人から聞いた」
 目を伏せて、強く手を握る。やがてダリオは長い息を吐き出して、おもむろに立ち上がった。
「みんな、聞いてくれ」
 張りのある声を聞かせ、ダリオは全員の顔をぐるりと見渡した。
「今日はイレーネのために集まってくれてありがとう。本人はとても外出できる状態じゃないが、みんなの気持ちは俺が責任を持って伝えておくよ。本当にありがとう。知っていると思うが、イレーネは謝肉祭の日に暴漢にかどわかされて、つい先日、奇跡的に生きて帰ってきた。兄である俺がこういうことを言うのはどうかと思うが、本当に、ただ生きて帰ってきただけだ。ただ命があるだけなんだ。行方知れずの間は命だけでもと祈ったくせに、いざ生きていてくれたら、そんなことはすっかり忘れてしまって……」
 ゆっくりと話すダリオの顔は悲しみにも怒りにも濡れず、店を仕切るときのように淡々としていた。それがかえって、ダリオの心の奥を想像させた。
 レイは真横に立つダリオを見上げて、動かない指先に力を込めた。正確には、込めた気になった。
「ダリオ……」
「あの日、一緒にいたレイを責めるのも、わからなくもないさ。だが……」
「そうだろうよ!」
 床に座っていたジュリオは、ふらつきながら立ち上がり、レイを指差した。
「こいつが不甲斐ないせいで、イレーネは……!」
「ジュリオ」
 ダリオは珍しく冷たい声でジュリオを諌めた。
「だがな、レイだって被害者なんだ」
「人が良すぎるぜ、ダリオ! あんたが責めなきゃ、一体誰にこいつを責められるんだよ」
「だからこそ、俺はレイを責めたりはしないんだ!」
 一瞬で、店の中が静まり返った。レイもダリオの激昂を初めて目にして、唖然とした。
 ダリオは咳払いをして、再びレイの横にしゃがんだ。
「レイ、その時の話をしてやってくれ」
 見慣れた笑顔で頼まれては、レイにも断りきれない。レイは小さく頷いて、警察にも話したように襲われたときのことを話した。
「これが、傷だ」
 上着を脱ぎ、シャツをめくりあげ、包帯を外す。傷口は薄い皮で塞がりかけていたが、まだ痛々しさの面影がある。周囲は消毒液の色素に染まって、黒ずんでいた。
 ほどいた包帯をダリオが巻きなおして、彼はありがとうと呟いた。
「レイもイレーネと同じ被害者なんだ。もしレイの傷が治ったなら、きっとイレーネも元気になるときが来る。俺は家族として、そう信じているんだ。だからレイのことも責めない。レイを責めることはイレーネを責めると同義だ。そうでなければ、すべての気持ちが嘘になってしまうだろう」
「甘いな……」
 我知らずレイは呟いていた。ダリオはレイを見ずに苦笑した。
「さあ! イレーネとレイのために、みんな食べてくれ、飲んでくれ!」
「新しいワイン開けますよ」
 地下室から戻ってきたアントンが、両手のワインを掲げて陽気に歌った。それにつられて、ひとりふたりと、即興の音楽に合わせて踊りはじめる。ふてくされていたジュリオも輪の中に入って、大声で笑った。
 レイは片手でマッチを擦ろうとしたが、箱を思わず取り落とした。拾おうとしたその先に、ダリオの手があった。
「甘さ、ではないんだ。せめて諦めと言ってくれ」
 ダリオは掠れて消えてしまいそうな声で口早に告げて、火をつけたマッチをレイの煙草に近づけた。
 さきほど脱いだ上着を肩にかけ、レイはアントンが運んでくれたグラスに口を付けた。
 頭の中には、ありがとうと言ったダリオの冷たい声が響いていた。