灰降る空と青の荊棘

05.完全な世界(3)

 ふと背中に寒さを覚えて、レイは目を覚ました。長椅子に座ったまま、眠ってしまっていたらしい。不自然な姿勢で寝ていたせいか、体中が古い蝶番のようにぎしぎしと鳴った。テーブルの向こうを見ると、暖炉の炎が小さくなっていた。
 床やテーブルには『アッズーロ』の面々がいびきをかいて眠っている。外に耳を傾けると深海のように静かで、弱々しく揺れる炎はあまりの静寂に窮しているようだった。
 薪を足そうと立ち上がると、長椅子が軋んで大きな音を立てた。レイはそのまま立ちつくし、息をつめた。ダリオが腕を組んで椅子に座り、レイを見つめていたのだ。
「おはよう、レイ」
「ああ、おはよう」
「とは言っても、まだ夜中なんだがな」
 ダリオは時計を指差してやわらかく微笑み、膝に手をついて勢いよく立った。
「ダリオは、いつから……?」
「俺も、いま」
「急に冷えてきたからな」
「まったくだ。よく平気で寝ていられるよ、こいつらは」
 二人で新しい薪をくべて、正面に陣取る。かじかんだ指先が、命を繋いだ炎によって溶かされていく。久しぶりに血の通う感覚があった。ダリオは火箸で薪の位置をずらし、新しい空気を炎に吹き込んだ。そのたびに、歓喜の火の粉が飛ぶ。
 炎を受けたダリオの横顔は、どこまでも穏やかであたたかい。だがそれは、炎の赤みがあるからかもしれない。
「なあ、ダリオ。イレーネは」
「まだまともに口もきけない。暗闇をひどく怖がってな、母はずっと付きっ切りだ。しかし母自身も随分と心労で……。うちはもう父親がいないし、俺が二人を支えていかないと」
「そうか……。犯人に関して覚えていることは、すべて警察に話したよ。せめて犯人が捕まれば、母上の心も和らぐだろうに」
「そのことなんだがな、レイ」
 ダリオの静かな声に、レイは息を潜めた。冷たく響いたありがとうが思い出される。
「本当にそんな人相の奴らがいたのか」
「え」
「だってそうだろう。他に誰も見ていないなんて、おかしすぎる。確かにあの辺りは、普段から人通りが少ないかもしれない。でも、たったの一人も目撃者がいないなんて不自然だ」
「俺が、やったと……?」
「そうは言ってない。だが、何か隠していることがあるんじゃないのか。お前に不利なことなら、警察には言わない。だが俺には教えてくれ」
「で、もし俺が隠していたら? お前はそれを聞いてどうするつもりだ」
「もちろん、探し出してイレーネの仇を討つ」
 膝の上で握りしめた拳をさらにきつく絞る。押し殺した声は、ダリオのものとは思えないほど尖っていた。レイは前髪の隙間からダリオを窺い、その迫力に圧された。
 どんなときもダリオは誰より穏やかで、おそらくここにいる誰も、彼の激情など見たことがない。反政府活動の一組織をまとめていることも、街の誰が信じるだろう。彼はおよそ荒々しさとは程遠い場所にいる。ダリオはいつも身を引くばかりで、付き合いの長いレイでさえ、喧嘩になったことがない。
 そのダリオが、怒りという、そして憎しみという激情のただ中にいる。
「じゃあ、その中に俺がいたら、お前は俺を討つか」
「冗談はよせ。俺はなにもそこまで――」
「同じだよ」
 鼻で笑い飛ばして、レイは横柄に脚を組みなおした。
「なあ、ダリオ。どうしてさっき諦めなんて言葉を口にした」
「それは……」
「諦めたなら、なぜ俺を疑う」
「俺だって本当は疑いたくなんかない。だからお前が何もないと一言いってくれたなら、それでいいんだ。頼む、わかってくれ」
「わかりたくもない。いいか、お前のそれは諦めでもなんでもない、ただの偽善だ!」
 全身からどっと汗が噴き出る。傷口が疼いて、包帯の濡れる感触があった。傷がひらいた。レイは痛みに息を呑んだ。
「大丈夫か、レイ」
「触るな」
 レイは心配そうに伸ばされたダリオの手を、容赦なく払いのけた。ダリオは知らなくとも、その優しさは誰も救わない。大きく温かいダリオの手の先にあるのは、すべての元凶なのだ。
「やめてくれ。俺を恨むなら恨め。責めるならジュリオのように真正面から責めてくれ。いくらでも俺は恨まれてやる。逃げも隠れもしないさ。だが、そんな冷たい目で俺を赦さないでくれ。歩み寄ろうとなんて、しないでくれ」
「それは、お前がそうやって救われたいだけだろう、レイ。一体……お前は一体どこまで傲慢なんだ!」
 口にしてから、ダリオは顔を歪めて後悔を見せた。レイはそれを見つめて、どこか安心していた。言葉でどんなに言い繕っても、ダリオの中には確かにレイへの憎しみがある。それを確かに感じて、レイは落ち着いた。
 レイはこの罪が明るみに出ないことを願いながら、罪を罪として誰かに断罪して欲しいと願っていた。ダリオの言うとおり、そうやって救われたかったのだ。
 背中を椅子にもたせかけて、黒い天井を見上げる。すでに皆の起きている気配がはっきりと感じられた。夜陰に紛れて動き出す鼠のように、物音を立てないように息を潜めている。
 レイは口元に冷たい笑みを浮かべた。
「だったらこれを最後にしよう」
「レイ……」
「何もかも終えよう。そして、もう、構うな。この店の権利もお前に譲渡する。好きにしろ。『アッズーロ』のことも、俺は――」
 レイの言葉を遮るように、店の扉が乱暴に叩かれた。
「誰か、誰かいないか!」
 いまにも小窓が割れてしまいそうな勢いだった。レイとダリオが立ち上がるのに先んじて、ジュリオが扉に張り付いた。
「何の用だ! こんな時間に」
「あんたら、『アッズーロ』か。とにかくここを開けてくれ!」
 若い男の声だった。床で息を潜めていたアントンも起き上がる。ジュリオはダリオを振り返って、無言で対応を問うた。
「知らない声だな」
「ああ」
「僕も、心当たりは……」
 アントンは倒れていた椅子を起こして隅に寄せ、裏口への退路を確保した。
「開けてやれ」
 ダリオの声に頷いて、ジュリオがそっと扉の鍵を外した。外から、声のとおり若い男が転がり込んできた。起き上がろうとしたところを、ジュリオがすかさず上から押さえつける。
「誰だ、てめえ。どこのもんだ」
「お、俺は『カルボナリ』だ。いたたた。あんたらに聞きたいことがあるんだ。頼むから、手を離してくれ」
「ジュリオ、少し緩めてやれ」
 ダリオは男のそばに膝をついて、アントンから灯りを受け取った。それを男に近づける。
「名前は」
「リナルド、リナルド・ソンニーノだ。糸屋の生まれで、親父の店はこの道をずっと海側へ行ったところにある」
「糸屋のソンニーノか。マルコから聞いたことがある。それで、糸屋がうちに何の用だ」
「率直に聞くが、アレッサンドロ・デ・ヴィスコンティをやったのは、あんたらか」
 ざわめきが起こる余裕さえなかった。あまりにも非現実的な問いに、誰もが返答を躊躇った。男はそれを見遣って、さらに言葉を重ねた。
「今夜、ヴィスコンティを襲ったのは――」
「襲った? 奴は死んだのか!」
 ジュリオは大声をあげ、勢いあまってリナルドを強く押さえつけた。
「いたい、痛いよ」
「お、おお、すまん」
「それは一体、どういうことだ」
 ダリオはジュリオからリナルドを解放してやり、椅子に座らせた。リナルドは埃っぽい帽子をはたいて礼を言い、誰の飲みさしかわからない水を一気に飲み干した。
「この様子じゃ、あんたらでもないみたいだな。いや、つい数時間前のことなんだが、アレッサンドロ・デ・ヴィスコンティが邸宅で刺された」
「本当のことなのか」
「嘘だと思うなら、表に出てみなよ。山の方は大騒ぎだぜ」
 リナルドの言葉を受けて、ジュリオと数名が店を飛び出した。大通りまで出れば、山が見える。
「誰がやったんだ」
 呟きのようなダリオの問いに、リナルドが大きく頷いた。
「それを俺らも今、必死で探ってる」
「カルボナリでないなら、青年党は」
「それはない。元々そっちからの情報でな。こっちも今のあんたらみたいに泡食ったわけだ」
「しかし、それなら誰が……」
「確かに山の方は松明の灯りがちらちらしてやがる」
 店に戻ってきたジュリオが一段と白い息を吐きながら言った。
「街がこんなに静かなのが気持ち悪いくらいだぜ」
「あ、あの、いいですか」
 アントンが新しい水差しを持ってきて、弱々しく切り出す。
「それで、ヴィスコンティはどうなったんですか。刺された……って。もしかして」
「まだ死んではいないみたいだが、次の朝日は見られないだろうって噂だ」
 神妙なリナルドの口ぶりに、店にいた者たちの顔つきが変わった。
「じゃ、じゃあ……」
「まだとどめを刺すことはできるわけか」
 ジュリオやアントンは仲間と目を見遣り、誰からともなく頷きあった。我先にと、店を出て行こうとする。
「待て!」
 ジュリオが扉を開けたところで、ダリオが呼びとめた。
「大将! なんだって、とめるんだ!」
「お前たち、ヴィスコンティを殺しに行くのか」
「今やらないで、何のための反政府活動だよ!」
「だが、これが罠だとしたら、どうする。反政府組織をあぶり出すための芝居かもしれないんだぞ」
 落ち着いたダリオに対して、ジュリオは言い返す言葉を持たなかった。先頭にいたジュリオが黙ってしまうと、まわりも同じように沈みこんでしまった。
「あー、いや、話に横槍出して悪いけど、それはないよ」
 暗闇のように重い沈黙を、間の抜けたリナルドの声が掻き消した。
「なぜそう言える」
 ダリオはリナルドを振り返って、口調を強めた。リナルドはアントンが注いでくれた水を、喉を鳴らして飲んだ。
「警察の動きを報告してくれた仲間によると、上へ下への大混乱だってさ。どうやらヴィスコンティは当初の予定を取り消して、警察による警護も解いていたらしい。おかげで奴らも泡食って、まだまともに統制もとれていないくらいだ。だからこそ俺たちも、こうやって自由に動けてるわけだけど」
「しかし」
「それに、もしもこれが罠だとしたら、そろそろ警察が乗り込んできてもいいと思わないか」
 リナルドの言うことも、もっともだった。ダリオは思わず押し黙った。
「水、助かったよ。ありがとう」
 グラスをテーブルに戻して、リナルドは腰をあげた。
「俺も戻って新しい情報が入ってないか、聞いてくるよ。そうだ、ついでにうちのボスんところへ挨拶にくるかい、『アッズーロ』の大将」
 リナルドからの突然の申し出に、ダリオは思わずレイを振り返った。ひとり椅子に座ったままのレイは、色のない眼差しを返す。ダリオは腕を組んで考え込み、小さく首を振った。
「あとで追いつく。場所だけ教えてくれ」
「そうか、わかった」
 リナルドはダリオに隠れ家の場所を耳打ちし、店を飛び出していった。
「俺たちはヴィスコンティの屋敷に向かうぜ」
 そう言って、ジュリオらもリナルドに続いて店を出た。
 嵐が過ぎ去った後のように、店の中は急に静まり返り、薪の爆ぜる音が妙に大きく響いた。鍵のかかっていない扉はすきま風に押し戻され、冷たい風が店の中を通り過ぎていった。
「ダリオ、早く行った方がいい。ジュリオの言うとおりだ。今こそ動くときだ」
「レイはどうする」
「俺か……」
 開いた傷口を服の上から手で押さえると、生温い手触りがあった。見た目には上着が黒いせいでわからないが、汗や酒のにおいとは違った生臭さが、暖炉の熱に煽られていっそう濃くなる。
「俺は抜けるよ、『アッズーロ』から」
 レイは椅子を軋ませて立ち上がった。テーブルの上に残っていたピザから、オリーブだけをつまんで食べた。オリーブはすっかり冷めて、味も食感もわからない。飲み込むと、喉の奥に痛みを感じた。
 ダリオはじっと黙り込んでレイを見つめ返し、かたく引き結んでいた口元をようようひらいた。
「店のことはまた話し合おう。そんな大切なことを、こんなふうに決めるべきじゃない。『アッズーロ』は、お前がそう言うなら仕方ない。すぐには無理だろうが、新しい集会場所を探しておくよ。これまでずっと、世話になったな」
「何度話し合っても、俺の気持ちが変わることはないよ。でもダリオがそう言うなら」
 レイはダリオの太い腕を軽くたたき、扉に手をかけた。ダリオの息を吸い込む音が、焦りに似た優しさを伴って聞こえた。
「レイ。たぶん、イレーネはお前のことを今でも……」
「じゃあな、ダリオ」
 レイは曇り空の瞳を細めて、静かに微笑んだ。そうすればダリオはもう何も言わないとわかっていた。そのとおり、店を出るレイにかけられたのは、じゃあの一言だけだった。