灰降る空と青の荊棘

05.完全な世界(4)

 綿雲を抱いた、まだら模様の夜空を見上げる。レイは空と自分とを隔てる白い吐息を煩わしく思って歩き出した。
 子供の頃から歩き慣れた街並みは、レイに郷愁を抱かせない。それは街を離れたことがないからではない。たとえ住み慣れた街であっても、レイの郷愁はここにはないのだ。
 たとえば、アッズーロの二階からの景色や、実家の窓から眺めた夕日や、火傷するほど熱いピザや、ダリオの小言や……。
 レイは口元を押さえて立ち止まった。ひどい吐き気がした。さきほど飲み込んだ冷たいオリーブが、胃の中で増殖しているようだった。
「くそっ」
 粘ついた唾を吐き捨てる。濡れた唇がひび割れそうで、袖で口を拭う。血の、においがした。
 すでに夜が更けて長いが、街には喧騒の火種があちらこちらに転がっていた。考えがまとまらないときのように、街そのものがざわついていた。
 歩いてきた道を振り返る。ゆるやかな上り坂には普段よりも人影が多く、そのどれもが闇から闇を渡り歩いていた。この街にはこんなにも沢山の活動家がいたのかと、レイはいまさら驚いた。数字で聞いたことはあっても、それがどれほどの人数になるのか想像できていなかった。ましてや、その中に自分もいたのだと思うと、体の内側に雨が伝った。
 遠い。この街も、この空も、レイからはひどく遠い。それは今にはじまったことではない。ずっとずっと、遠かった。遠くても、知らない振りをして少しでも近づいていたかった。だから空を眺めて、店を持って、活動にも参加した。傷つかないように、いつだって何重にも壁を作りながら、傷つきあう手前まで身を寄せた。
 街並みに、ゆるゆると影が落ちる。見上げると、雲の隙間から月が出ていた。月明かりに晒されて、雲の切れ端が七色になる。
 足元に視線を戻すと、青灰色の石畳の上には黒い穴が開いていた。レイはそこに立っている。何もないところに、ただぽつんと浮かんでいる。定かな形を持たない雲のように、世界の中に佇んでいる。どこにも接することなく、誰にも知られることなく、誰かを生かすこともなく、ここに在ることをどうにも証明できずに生きている。
 冷たい風に、潮の香りも凍る。洩れ出る血のにおいは、徐々に熱を失っていく。目に映る街並みは月明かりの幻想に思えて、かすかに聞こえる犬の遠吠えはいつかの記憶と綯い交ぜになった。
 いま、ここに、自分はいるのか。
 疑い始めると答えがないことに気付いて、レイは身震いした。足を一歩後ろに踏み出す。足元の暗い穴は広がって千切れて、また靴先におさまる。
 レイは走り出した。
 寮までの道は目を瞑っていてもわかる。何もない世界を目にするのなら、はじめから何も捉えたくはなかった。レイは目を伏せて走り続けた。腕の痛みなどとうにわからない。確かなものなど、どこにもない。
 あるのは、フィオだけだ。
「フィオ……」
 名を口にすると、それだけで気持ちが救われた。自分は孤独の中にあったのだと、ようやく理解する。
 フィオに会いたい。
 ただその一念だけを胸の中で繰り返し、レイは目を開いた。その瞬間に、つま先が何かに引っかかり、前へつんのめった。かろうじて転ばなかったものの、壁に手をついて振り返る。
 そこには、片脚のない男が死んでいた。

 息を切らして寮棟の扉を開く。すっかり静まり返った寮内に、冷たい風音が響き渡った。レイは氷のような取っ手から手を引き剥がすと、自室へ向かってさらに走った。
 絨毯は闇の中で黒く濡れ、よく磨かれた床はレイの足音を高くはじいた。部屋の前に立ち、呼吸を整える。ふと今日はフィオがいなかったことを思い出す。いつ帰ってくるのかなど、聞いていない。もしかしたら、まだ帰ってきていないかもしれない。それでも、この扉を開けないわけにはいかない。レイにはもう、ここしか帰る場所がないのだ。
 レイはもどかしさをこらえて、静かに扉を開いた。
 中から研ぎ澄まされた花の香りがした。フィオのにおいだ。レイは部屋の奥へと急いだ。
 フィオは、応接間の窓際に佇んでいた。レイの気配に気付いて振り返る。
「おかえり、レイ。今日は帰らないかと思ってた」
 高すぎず低すぎない、フィオの声が体の隅々まで染みこんでいく。レイは歩み寄り、言葉もないままフィオを抱きしめた。
「どうしたの、レイ」
 腕の中のフィオは驚きながらも、吸い付くようにしてレイに抱かれた。あたたかい。凍えきった体が、フィオのにおいと声と温もりで息を吹き返す。生きているのだと拍動する。
「フィオ、フィオ……」
「大丈夫? 何かあった? ねえ、血のにおいがする」
「ああ。傷がひらいて……」
「そんな、せっかく塞がりかけてたのに」
 フィオはレイの腕からすり抜けようとしたが、レイはそれを許さなかった。
「レイ、駄目だ。手当てしないと」
「そんなことはいい。あとでいい」
「でも……」
「頼む、フィオ。今こうしていないと、俺には明日なんて来ない気がするんだ。明日どころか、今だって消えてしまいそうだ」
「レイ……」
「俺がここにいると、確かめさせてくれ。お前の世界で生かしてくれ」
 抱く腕に力を込める。痛みは気持ちを試す障害にすらならない。満たされた世界を、完全な世界を求める気持ちが、痛みを凌駕していく。フィオはレイの懸命さを知って、傷について何も言わなくなった。
 唇を重ねると、フィオがわずかに顎を引いた。
「レイの唇、つめたい……」
 吐息だけの言葉が、どこにも洩れず舌に触れる。レイは構わずフィオに口づけた。押しつけあった唇は体温を同じにし、やわらかく歪んで密になる。通わせた舌がこすれあうたびに、体に重みが戻ってくる。もっとずっと、生きている心地が欲しくなって、枯れることないフィオを吸い上げる。吸って、舐めて、咬んで、愛を呑みこむ。
「泣かないで、レイ」
 くぐもったフィオの言葉に目を開く。頬に手をやると、冷たさの残る肌に一筋の涙の痕があった。唇を離して、フィオの青い瞳を見つめる。
「俺は……」
「悲しいの?」
 レイは首を振った。
「じゃあ、嬉しい?」
 黙って眉を寄せる。それも何か違う気がしたのだ。レイは口を開きかけたフィオを無視して、抱きしめた。耳にフィオの髪が触れる。くすぐったさも、愛しかった。
「わからない。わからないが、もう、何もいらないと思える」
「レイは、僕といられて幸せってこと?」
「……そう、だな」
 言いよどんだのは、幸せに至らないからではない。幸せという言葉では言い足りないほど、レイが満たされていたからだ。
「俺にはもう何もない。でもフィオがいる。それだけで、俺の世界のすべてが成り立つ。完全な世界がここにある」
 一言口にするたびに、涙がこぼれた。フィオの首筋をレイの涙が伝っていく。
「俺は……、これで本当に良かったのか。なあ、フィオ。俺は何もかも失くしてしまったのに、本当に俺でいられるのか」
 レイはフィオを抱きしめたまま、その場に崩れた。フィオの脚を掻き抱いて、嗚咽を洩らす。
 ずっと顔に貼り付けてきた仮面は、いつしかなくなっていた。仮面があったからこそ、生きてこられた。だが仮面があることで息苦しさを覚えていたことも否めない。
 仮面を剥ぎ取り素顔を晒して、これがレイ・キーツ・オルランドだと、果たして誰がわかってくれるのだろう。自分自身ですら、広がりゆく自分を捉えられずにいるというのに。
 指先に触れたフィオの足を強く掴む。これが最後の命綱だ。
「かわいそうなレイ」
 フィオはしゃがみ込み、レイの頭に手を置いた。優しく、優しく髪を撫でる。
「ねえ、何があったの。教えて。誰にひどいことされたの」
「俺にはもう、店も、『アッズーロ』もなくて……」
「うん」
「イレーネを傷つけて、ダリオも苦しめて……」
「そう。レイはそんなことしたくなかったのにね」
「ああ、そうだ。ネスタが……、あいつがお前を苦しめようとするから、俺は……」
「じゃあ、全部僕のためだ」
 フィオはレイの両頬を手で包み、顔を上向かせた。
「……フィオの、ため」
「そうだよ。レイは僕のために傷ついて、傷つけて、そして苦しんでる。ありがとう、レイ。すごく嬉しい」
「フィオ」
「大丈夫、怖がらなくていいよ。僕がいるから。だってほら、約束したよね、僕がレイを守るって」
 頬に残る涙の痕を舐めとって、フィオは微笑む。レイはその笑顔を見つめて、あまりの美しさに言葉を忘れた。
 フィオはレイの首に抱きついて、体をすり寄せた。
「レイを苦しめるものは、僕が全部排除してあげる」
 耳を犯す囁きは、もはや神の啓示にも近い。フィオはレイの背中を絨毯に押しつけて、その上に馬乗りになった。
「大好きだよ、レイ」
 噎せ返るような血のにおいの中で、二人は閉ざされた夜に落ちた。