灰降る空と青の荊棘

06.いばらを踏む(1)

 失くした仮面はどこへ行ったのだろう。砕けたのか、落としたのか、それとも誰かに奪われたのか。今のレイにとって仮面は不要のものとなった。だがずっと、後ろ髪を引かれるような感覚が消えない。
 アレッサンドロ・デ・ヴィスコンティ襲撃事件から数日が経ち、混乱に陥った政府中枢もようやく平常を取り戻しつつあった。
 結局、ヴィスコンティは命を繋いだ。多くの反政府組織が彼にとどめを刺さんと画策したが、どれも失敗に終わり、十数人が逮捕された。しかし、ヴィスコンティに深手を負わせたのは一体誰なのか、それは組織の人間なのか、だとしたらなぜ声明文が出されないのか。謎は未だ多く残っていた。
 王都大学内にも、多数の活動家が潜んでいるとされ、警察による捜査が連日続いた。レイは以前より片腕を負傷していたため早々にリストから外されたが、当日の行動が定かでない者に対しては執拗に取調べが行われた。さすがに警察署まで連行することはできず、聞き取りは講堂を借り切ってのものとなった。それもようやく終了し、学内は静けさを取り戻したはずだった。
 登校すると、昨日まで講堂前にいた制服警官が、大学の出入りを制限していた。門のそばでは事務方の男が学生に説明を繰り返している。
「どうかしたんですか」
「ああ、オルランド君。すまないね、私の口から詳しいことは話せないんだ。だが明日いっぱいまで大学は閉鎖だよ。そのあともどうなることか」
「はあ……」
 そのあと、登校してくる他の生徒への説明をいくつか聞いたが、やはり同じものだった。レイはすんなり帰る気にもならず、入り口を塞ぐように立つ警官に歩み寄った。
「何があったんです」
「説明はできない。学内は立ち入り禁止だ。帰りたまえ」
「その様子では、ヴィスコンティ卿襲撃の犯人が捕まった、という感じでもありませんね」
「話はできないと言っている」
「あんたの顔、どこかで見たことがある。そうだ、ルッソ警部補の直属だ。なら、警部補がここへ来ているのか」
 警官は口をへの字に曲げて答えようとしない。レイはそれを肯定と受け取った。
「警部補に話がある」
 レイは口を寄せて、警官の制服に折った紙幣を押し込んだ。
「通してくれないかな。君のことは言わないから」
「ふん。あまり目立つなよ」
「気をつけよう」
 灰色の瞳を細めて、レイは警官の横をすり抜けた。
 構内は思いのほか静かだった。出入りを制限しているため、当然人も少ない。レイは情報を求めて事務室へ向かった。その途中、廊下で話す神父と事務員の話を聞いた。
「まず祈りをと申し上げたのですが、警察の方はまったく見向きもせず、持ち物を漁りはじめたんですよ」
「犯人の証拠なんて、そうそうないでしょうに」
「本当に、むごい仕打ちです」
「いや、しかし、まさかネスタ氏が殺されるなんて……」
 レイは耳を疑った。たまらず二人の会話に割って入った。
「本当ですか、ネスタ先生が亡くなられたというのは」
「君は、オルランド君。学内は閉鎖だよ、寮へ戻りなさい」
「待ってください。先生は、先生はどこに! 殺されたって、どういうことですか。せめて少しでも先生のために祈りを……!」
「オルランド君、寮へ――」
 事務員を手で遮って、神父が前へ進み出た。
「おそらくまだ、山手の庭に。どうか、祈りを」
「はい、ありがとうございます」
 レイは神父に礼をして、学内の斜面に作られた庭園へと走った。
 ネスタが、死んだ。
 レイは何度も心の中で繰り返して、喝采をあげた。
 駆ける足は羽が生えたように軽やかで、皮膚の引き攣れた腕は痛みなど感じられない。走る速さはどんどん上がって、それでもまだ足りないと思う。知りたい。はやくこの目で確かめたい。本当にネスタが死んだのか、死体を見るまで安心できない。
 校舎を抜けて、庭への石段を駆けあがる。一段飛ばしにのぼっていると、本当に飛んでいるような気分になる。
 二十段ほどの階段をやり過ごすと、それまでの静寂をかき消すような喧騒が満ちていた。斜面を切り開いた庭の中心には、苔色の水が張られた泉があり、それを取り囲むように人の輪ができていた。学生の立ち入りは禁止されているものの、早朝に登校した者や学内に泊まり込んだ生徒らが、遠巻きに泉を眺めている。レイは人垣の隙間に体を滑り込ませ、最前列まで割って進んだ。
 泉の脇には、濡れそぼった人の体が横たえられていた。一見して、それが生きていないことはわかった。動かないからではない。ネスタが死んだと聞いたからでもない。ただ、その人からは生きている息遣いが感じられなかった。血抜きした鶏が、生き物ではなく食料になるように、その人も肉の塊になっていた。
 頭は水を吸って大きく膨れ上がって、ほとんど原形を保っていない。顔は変色していて、泉の底を覆う苔のような色をしていた。これではあれが本当にネスタかどうか、わからない。レイは無意識のうちに、野次馬を睨み下ろす警官を押しのけようとしていた。
「おい、お前」
 上から降ってきた声に、我に返る。
「これ以上は入れん。下がれ」
「少しでいいから、お願いします」
「ならん。下がれ」
 頑として動かない大男を見上げて、レイは舌打ちした。他の場所から死体へ近付くため警官に背を向けた瞬間、視界の隅に見知った顔を見つけた。向こうもレイを見ている。レイはとっさに足を速めた。だが人垣の中を走ることはできない。
 ようやく人の輪を出たところで、待ち伏せをされていた。レイは奥歯を噛みしめた。
「ルッソ警部補……」
「ふん、やっと覚えやがったか」
 琥珀色のパイプを片手に、ルッソはにやりと笑った。レイも合わせて微笑む。
「物騒な事件ですね、学内で人が死ぬなんて。警部補が担当ですか」
「ああ、前から追ってた事件の犯人でな」
「犯人?」
「レイ、お前にも関係ない話じゃないんだぜ」
「はあ」
「確かずっと前に、お前さんにも訊いたはずだがな。あれは、そう。警察へ泊りに来た時だ」
「そういえば」
 半年前、警察から釈放されたときに、尋ねられた記憶がある。
「誘拐がどうとか……」
「そうだ」
 ルッソは短い首をコートの襟に引っ込めてパイプをくわえた。
「シスモンド・ネスタは、ここ一年ほど続いていた誘拐事件の犯人だ」
「先生が?」
「心当たり、あるんじゃないのか。レイ・キーツ」
 鋭さだけではない、底の知れない瞳でルッソはレイを見た。レイは小さく笑って視線を逸らす。
「イレーネのことですね。そうか、あの事件も……」
 体の横で拳を固めてみる。眉間に皺を寄せてみる。レイは被害者として、自然な寂しさ、そして悔しさを唇に浮かべる。
 突然、ルッソが大きな笑い声をあげた。レイは驚いて肩を震わせた。
「何がおかしいんです」
「これが笑わずにいられるか! まさかお前さんが、そんなしみったれた芝居をするとは思わなかった」
「芝居、だと。俺がイレーネのことでどれだけ悔いたか知らないで、よくそんな無礼な――」
「おい、あの完璧すぎる仮面はどこへ行った」
 レイの言葉になど興味を示さず、ルッソは子供のような無邪気さでレイの灰色の瞳を覗き込んだ。レイは思わず押し黙った。
「なあ、レイ・キーツ。少し前のお前なら、俺から目を逸らすなんてことはなかったぜ。どんなに際どい質問だって、お前は俺の視線を受け流して、まったく涼しい顔をしたはずだ。だが目を逸らせば、真実はどうであれ、負けしかない」
「勝ちだとか負けだとか、今は関係ないでしょう」
「本当にそう思ってるなら、余裕の笑みってやつを浮かべてりゃいい。そうだろ。誰よりお前自身がいちばんわかってる。違うか」
 勝ち誇った笑みのルッソを前にして、レイは片眉を歪めた。
「あんたは、俺から一体何を聞きたい」
「わかってるはずだ。どの事件もネスタがひとりでやったとは思えない。共犯がいたんだ。それはおそらく、お前さんを襲ったっていう数人組だろう」
「その話なら、何度もした」
「ああ。だがまだ足りない。なあ、レイ・キーツ。奴らが持ってたナイフってのはどんな代物だった。医者の話では、お前の傷は多少深手だが、ずいぶんきれいな傷口だそうじゃないか。そんなに切れ味のいいナイフを、お前が話したような下っ端が持ってるとは、俺には思えないんだよ」
 どこまでも穏やかに、ルッソは過去を懐かしむような口ぶりで言った。レイは心の中で舌打ちをして、さあとこぼした。
「警部補の思い過ごしでしょう。犯人がネスタ先生で確かなら、それを早くイレーネや家族に伝えてあげてくださいよ」
 ため息混じりにそれだけを言って、レイはルッソに背を向けた。
「待て、レイ・キーツ!」
「レイ!」
 人垣の中からフィオが飛び出してきて、レイは数歩進んだところで足をとめた。フィオと呼ぼうとして、ふと思いとどまる。フィオはレイに駆け寄って、腕が触れ合うすぐそばまで体を添わせた。
「レイ、こんなところにいたんだね。探したよ」
「ああ……。でも、もう戻るよ」
「どうしたの。ずいぶん疲れた顔してる」
 フィオは整った顔を曇らせると、背後にいたルッソを睨みつけた。
「あなたですか。レイに何を」
「いや……」
 言葉を濁らせるルッソに、フィオは力強い足取りで近づく。
「警察の人ですね。あまり横暴な捜査をなさると、痛い目をみるのはそちらですよ。目に付いた人物を犯人に仕立て上げるのは、あなたたちの常套手段ですが、そのようなことは王も法も、そして神だって許していない。その意味がおわかりですか。反逆ですよ。神と国家への」
「捜査なんて大それたもんじゃないよ、坊ちゃん。俺はただレイ・キーツに話を聞いていただけだ。昔からの馴染みなもんでさ。……な、レイ」
「え、ああ、まあ……」
「ですが、今後レイに話があるときは、僕にもぜひ同席させてください」
「そんな義務はこっちにはないんだけどなあ」
 ルッソは広い額を撫でてフィオを見おろした。穏やかさとは程遠いルッソの眼差しを、フィオは冬の海さながらの冷たさで睨み返す。
「レイを傷つける人間は、容赦なく僕が排除する。命が惜しければ、あなたも気をつけることです、警察の人」
 フィオはレイの腕を掴み返し、行こうと言って走り出した。レイは肩越しにルッソを振り返ったが、背後に積み重ねられていく階段がすべてを遮った。