灰降る空と青の荊棘

06.いばらを踏む(2)

 夢を、見なくなった。
 そのことに気付いたのは、不意に目覚めた夜中のことだった。
 深い眠りはレイの心をすっかり静めてくれたが、グラスに薄く張りついた曇りのように不安が残った。
 以前に比べて、時の境目が曖昧になった気がする。何があったか思い返そうとすると、昨日という夢を見ていたかのような錯覚に陥る。昨日と今の繋がりを見いだせなくなる。昨日も自分は自分であったかの確証が持てない。自分の人生は目覚めたこの瞬間から始まったのではないかと思ってしまう。
 レイは冷えた顔を両手でこすり、隣を見遣った。しかしそこにいるはずのフィオがいない。レイは半身を起こして、部屋の中を見渡した。
「フィオ……?」
 試しに呼んでみても、彼が扉の隙間から姿を見せることはない。レイは寝台からおりて、フィオの部屋を出た。念のため自室を覗いてみるが、長らく使われていない部屋は埃っぽいだけだった。
 椅子にかけた上着から煙草を持ち出し、バルコニーへ出る。冷たい風が体に沁みるが、不思議と心地よい。
 見おろす街は、まだ眠りの中にある。月の光が海面に真白い道を作り、夜からあぶれたものを待っている。夜空の闇は地上の闇ほど黒くはなく、空の自由さを感じさせた。
 煙草に火をつけて、ゆっくりと煙を吐き出す。喉の奥に残る苦みと、鼻に抜けた香り、髪を撫でて溶けていく煙を眺めて、唾を押しこむ。このまま煙のように消えることができたなら、幸せだろうに。
 レイはバルコニーの欄干に腕を置き、頭を沈めた。
 ただフィオがいないだけで、こんなにも不安になる。どこにも行き場がなくなってしまう。それがまた不安を呼んだ。
 フィオと繋ぎあったこの命は何より誇らしい。誰にも邪魔などさせない。だがそうすることでしか生きられない不自由さを、レイはひたひたと感じはじめていた。
 顔を上げて夜の海を見つめる。空の闇より濃く、街の闇より輝いて、揺れ動くからこそ、見るものの目を離さない。抱かれているような安心感を覚えるのは、その大きさと深さと、この世界で初めて聞く音によく似ているからだ。
 それは胎動。母と重ねた命の音だ。
 すっと息を吸って、呼吸をとめる。耳を澄まして、潮騒を聞く。
 目を閉じると、暗闇が波に揺れた。

 夜明けには晴れていた空も時間が経つと薄雲が広がり、やがてその雲は厚みを増して色濃くなった。
 フィオは、朝になっても帰ってくることはなかった。レイはあれから寝付けずに、朝に溶ける夜を部屋の窓から眺めていた。待つなどという気持ちはなかったが、結果的にはそうなった。まさか自分が誰かを待つようになるとは、思いもしなかった。
 レイは茫洋とした思考を嫌い、講義に出るため支度をして部屋を出た。
 ネスタの一件で数日封鎖された大学も、昨日からは通常に戻っていた。学内はどこか白々しく、誰もがネスタのことを噂したがったが、たとえ罪人だとしても死者を無碍に冒涜するものはいなかった。死ねば誰しも聖人になるようだ。
 午前の授業に少し遅れて出席し、老教師のしわがれた声を聞いていると、不意に大学へ入学した頃のことを思い出し、レイはとても清新な気持ちになった。貪欲に学び、そのことに喜びを覚えていた毎日が、記憶の中で鮮やかによみがえる。当時から特別に真面目な生徒だったわけではない。心の中にはいつだってまわりを見下すような傲慢さがあった。それでもあの頃の自分には、ささやかながら未来が見えていた。店のことや『アッズーロ』のことを真剣に考えて、それがまた楽しみにもなっていたのだ。
 レイは眩しさに目を細めた。過去の自分が、街角で懸命に働く少年と同じに思えて、微笑ましかった。
 気がつくと、講義はいつしか終わっていた。レイは人気のなくなった教室を後にして、あてもなく学内を歩いた。多くの学生は食堂へ行ってしまったようで、廊下や教室に人の姿はほとんどない。レイは閑散とした校舎を抜けて、庭へ出た。普段は学生たちが輪になって歓談しているベンチにも、風が吹く。
 ベンチの前には、小路を挟んで薔薇の花壇が連なっている。今は花がないが、咲けば夜道を照らす街灯のように艶やかで華やかになる。
 いつだったか、部屋に手折られた薔薇が飾られていたことがある。あれはここの薔薇だったのだろう。
 赤み走った緑の葉は、見た目ほど頑丈ではない。引っ張れば、すぐに千切れてしまう。だが不用意に手をのばして、奥をまさぐれば、すぐさま蔓に絡めとられる。蔓は葉や枝の間を蜘蛛の巣のように埋めて、剥き出しの棘で侵入者を待ち構えていた。レイはわざと蔓を鷲掴みにして引き千切った。拳に巻きついた棘が皮膚を薄く切りつける。傷は浅いが、よく砥いだ刃物で切るよりずっと痛い。
「おいおい、正気か」
 声に顔を上げると、ルッソがいた。いつも持っているはずのパイプは見当たらず、両手を上着のポケットに突っ込んで立っていた。
「今日は何の用ですか」
 レイは声を低くして問うた。手に纏わりつく蔓を払い落し、ルッソに向き直る。
「俺を逮捕しに来ましたか」
「そうしてやりたいところだが、今日用事があるのはお前さんじゃないんだ」
 ルッソは被っていた帽子を押さえつけて口を歪めた。
「レイ、こないだ一緒にいた坊やはどうした」
「え」
「勇ましくお前をかばってくれた子だ。忘れるはずねえよな。なんせ部屋だって同じなんだろう。坊や……いや、フィオレンティーノ・デ・ヴィスコンティと」
 レイは頷くことも笑い飛ばすこともできず、立ちつくした。ルッソは帽子を押さえる腕の隙間からレイを見上げて、投げやりな笑みをこぼす。
「お前さん、とんだ裏切りをしていたものだな」
「別に、裏切りなんて。フィオと同室になったのは偶然だ」
「だがそれを利用しようともしなかった。レイ・キーツともあろう男が、ヴィスコンティの息子を組織から隠し続けた」
「まるで見てきたかのような口振りを」
「一体どんな見返りだ。政府の要人にでも取り立ててもらえるように、仲間を売ったか。それともその上手な口で手なずけたのか」
「鎌をかけているつもりですか。はっきり言ったらどうです」
「……だったら、お言葉に甘えようかな」
 咳払いをして、ルッソは肩で息をついた。
「ヴィスコンティ卿が襲撃されたとき、卿がいる場所を知っていたのは、同じ会議場にいた長男と二男、それから連絡を託された早馬と、屋敷の執事だけだった。つまり外部の人間に卿を襲うことは不可能だったんだ」
「視野の狭い捜査ですね」
「いや、警察の警護が解かれてから襲撃を受けるまで、ほんの一時間ほどしかない。とてもじゃないが、情報が漏れる暇なんてものはない」
「だから?」
 続きを催促するレイに対して、ルッソは暗い目をした。
「犯人は、フィオレンティーノ・デ・ヴィスコンティだ」
「は……?」
 レイはあからさまに不快を表した。
「ルッソ警部補。あんたはいつもご自分の妄想に頼りすぎですよ」
「妄想なんかじゃない。侍女にどうにか口を割らせたら、屋敷で珍しく三男の姿を見たと言ったんだ。ヴィスコンティが襲われたのは屋敷の手前にある林道だ。それもいちばん道幅が狭くなる場所を狙われてる。犯人は、ヴィスコンティがその時間にその場所を通ると知っていて、待ち伏せていたんだ。そのとき長男と二男は、少し遅れて屋敷へ戻っていた。御者の証言もある。執事の年齢ではあれだけの凶行は不可能だ。女なんてもってのほかだよ。確かにフィオレンティーノは女みたいに細っこいが、そうは言っても男だ。若さもある。わからないのは、あの瞬間どこにいたのか、それだけだ」
 静かに語られるルッソの言葉に、誇張は感じられない。それでもレイは黙っていられなかった。
「だからってフィオが犯人だなんて、どうして言い切れる。早馬は、まだ早馬の使用人がいるでしょう」
 レイは声を荒げながら、頭の芯はひどく冷めていた。ルッソの鋭い眼差しが、レイの動揺を見抜く。
「ご執心だな、レイ。だがその慣れない執着があだになったんだ。もしお前が坊やを利用してりゃ、ここまでのことはさせなかっただろう。お前は案外、甘いところがある。いちばん汚いことは自分でする男だ」
「買い被り過ぎですよ。俺は、人を信用できないだけで……」
 言葉が最後まで続かない。レイは口元を手で押さえて、眉をひそめた。
 感情はとっさにフィオをかばおうとする。
 あの日、フィオは実家へ行くと言ったが、嘘をついていた可能性もある。本当は屋敷になどいなかったかもしれない。侍女の証言など、どこまで当てになるものか。
 だが理性がその手綱をひいた。
『ねえ、レイ。もしも僕の父上がいなくなったら、レイは活動をやめたりする?』
 いつかの夜のフィオの言葉が思い出された。背筋をぞわりと悪寒が走った。
「警部補……、このことは他に?」
「まだ、お前だけだよ。さすがに相手が悪い」
 丸い肩をすくめて、ルッソは失笑した。
「しかし、ヴィスコンティ卿も犯人の顔を見ているだろうに、いつまで経っても何も言わないってのは、まあ……、そういうことなんだろう」
「なるほどね……」
 決定的だ。レイはそう思った。
 おそらく、このことが明らかになることはない。だからこそルッソは、わざわざレイに聞かせたのだ。
 ルッソはレイの確信に対して、ひとつ頷いた。
「本人と話がしたかったんだが、こうやってお前と話していても、今日は来てくれないみたいだな。仕方ねえ。俺も暇じゃないんだ。悪いが、今日はこれで失礼するぜ……」
 そう言って背を向ける中年男の横顔に、拭いきれない躊躇いが見える。
「ルッソ」
「警部補をつけねえか。相変わらず生意気なガキだな」
「これから、どこへ?」
 レイの問いかけに、ルッソは口を開きかけたが、言い淀んで俯いた。
「できれば、言いたくねえなあ」
「言えよ。どこへ行くんだ。もしかしてフィオの居場所を――」
「とある反政府組織を潰してくるんだよ。密告があったんでな」
「反政府、組織……?」
 ねじ込まれた記憶が、体を硬直させる。月明かりをまとって、神が微笑んだ。
『レイを苦しめるものは、僕が全部排除してあげる』
「場所は、リストランテ・アッズーロ」
 ルッソのため息がやけに大きく聞こえる。
「お前がかつていた場所だよ、レイ・キーツ」
 棘の引っ掻いた傷口が、ぴりりと震えた。