灰降る空と青の荊棘

01.夢で呼ぶ声(2)

 役所周辺は人で溢れていたが、それを過ぎると、街は平穏と日常に包まれていた。
 両シチリア王国の首都ナポリは、空と海からもたらされる恵みに今日も賑わっていた。
 王政復古を遂げて、もうすぐ二十年になる。それ以前、この国はフランスの統治下にあった。さらにその前にはいくつもの小国にわかれ、国としての体裁を保っていなかった。今も王政を謳ってはいるが、実質はお飾りの王政にすぎない。
 ただその実情は厳しいもので、体制を整えるために大規模な官僚粛清が行われたあと、人手不足が響いてどの政策もままならない。不平等な関税のせいで物価は跳ねあがった。是正をしようにも、大地主との折衝は遅々として進まない。産業を保護するための税制も、恩恵を受けるのは外国の企業ばかりで、国内生産者はますます苦しく、さらなる増税に恐怖した。当然貧富の差は広がり、いつしか農村は中央から見捨てられ、通達のひとつも届かないようになった。くわえて都市には地下組織がいくつも結成され、治安は悪化した。
 宰相の努力はすべて空回りして、ただの悪足掻きでしかない。いま政府が戦っているのは、活動家や貧困などではない。それは本質には違いないが、砲撃の的にはならない。すでに敵は国内にない。立ち向かうべきはフランスであり、スペインであり、オーストリアであり、イギリスだ。
 だが、ローマ帝国の呪縛に長く囚われ続けたこのイタリア半島に、列強をはねのけられるような知恵はない。船底にあいた穴は塞ぎようがない。ただゆっくりと沈んでいくしかない未来だ。
 惜しげもなく降り注ぐ日差しのなか、街には明け透けな日常が広がっている。夏をすぎても、この街はいつだって真夏のきらめきを忘れない。毎日が特別で、毎日がカーニバルのようだ。この青空に、この潮風に、この街並みに愛着を持つものは多いだろう。だが国を統べる血統に、もはや誰も興味を持っていない。
『お前さんには神だけでなく愛国心もないのか』
 さきほどのルッソの言葉を思い出す。その通りだと、レイは素直に認めた。
 フェルナンド・ルッソ警部補は、レイが幼い頃からの顔見知りだ。
 レイは子供の時分から口数が少なかったが、頭の回転は誰よりも速かった。特に嘘のつじつまを合わせるのは得意だった。状況に合わせて表情まで変えてみせれば、どんな澄まし顔の大人も籠絡できた。
 だがルッソだけは、レイの嘘やごまかしを見抜いた。周りの大人が騙されれば騙されるほど、ルッソは疑心を深めるような目つきを示した。レイはルッソがいつ口を開くかと怯えたが、彼がその嘘を糾弾したことはなかった。あたかも情けをかけるかのように、ただ、にやりと笑いかけるのだった。
 もしもあの時に、ルッソがレイの嘘を暴いていたなら、レイの人生は変わっていたかもしれない。その意味で、レイはルッソに感謝しながら疎ましくも思っていた。
 嘘で塗り固められ、体ばかりが大人になった。足を前へと出すたびに、空っぽの体は枯葉を踏むような音を立てた。
 すべての嘘があの頃のように他愛のないものなら……。
 ふと、そう思うことがあった。レイは何度か覚えた虚しさを、一片の感慨もなく道端に捨てた。
 カフェの小さな窓に、黒い姿が映りこむ。いつまでたっても街にそぐわない自分を突きつけられ、レイは俯いて失笑した。
 光に染まらない黒髪も、冷たさに偏った面差しも、愛を知らない唇も、何もかもが街に不似合いだった。
 だが、何よりも相容れないのは、目だ。
 まるで雨が降る前の、沈んだ灰色の瞳が、かたくなに街を拒んでいた。奔放さなど低俗だと侮蔑していた。
 交叉する道を、馬車が横切っていく。ごとりごとりと、足に車輪の振動が伝わってくる。レイは角で立ち止まって、空を見上げた。
 青い。どんな画家が描く絵画よりも、鮮やかで透明感のある青だ。
 馬列が去り、行き過ぎるのを待っていた人々が動き出す。けれどレイは空を見つめたまま佇んだ。
 レイは口の中で、愛国心と呟いた。
 もしも国を愛したなら、国というものは自分を愛してくれるだろうか。その愛は報われるだろうか。
 立ち尽くすレイを、何人もの人が追い越し、すれ違っていく。風に運ばれてきた潮の香りが肺に溜まっていく。レイは眉を寄せた。
 そもそも愛するとは、なんだろうか。
 わずかに開いた口元から、ため息まじりに笑いがこぼれた。レイは手に残った煙草のにおいを嗅いで、肺に忍び入った海を外へと追いやった。
「やあ、レイ!」
 突然肩を叩かれ、感傷は瞬時に息をひそめた。嫌悪感を隠しながら振り返ると、王都大学の制服をきた男が、笑顔を浮かべて立っていた。顔には見覚えがあったが、名前が思い出せない。
 レイは何度か瞬いて、穏やかな笑みを浮かべた。
「驚いた。どこかの帰りかい」
「ああ。兄の結婚が決まったから、その顔合わせにね」
「それはおめでとう」
「君こそどうしたんだ。ぼうっと突っ立ったままで」
「いや、目にごみが入ってね。痛くて」
「それで空を見上げるなんて、変わった人だな。いや、この青空に恋をして、ごみの方から去ってくれるかもしれないか」
「そういったところだね」
 灰色の瞳を、ゆるやかに細める。こうすると自分の顔が映えることを、レイはよく知っていた。断りもなく隣を歩き始めた男は、レイの期待どおり、日に焼けた顔を綻ばせた。
「レイ、ところで君は? 今日は新入生の入寮日じゃないのか。主席の君は案内役だと聞いていたんだけど」
「僕は、ほら……。噂になっていないのか」
「え」
「ルームメイトのマルコが、反政府活動の容疑で逮捕されただろう。そのとばっちりで僕も連れて行かれたんだ。さっき、無実が認められて釈放されたんだけどね」
「ああ! あの騒ぎは、そのせいだったのか」
「意外と広まっていないんだな」
「どうなんだろう。あの騒ぎが起こったとき、僕はもう寮から出て家へ向かうところだったからね。何かあったことはわかったんだけど、馬車を待たせてあったから急いでいて」
「そうか」
 頷きながら、レイは男の名前を思い出す。たしか、エンリコ・マルケッティだ。彼の父は裁判官をしていて、雑誌などに記事が載ることも多い。兄もまた裁判官だと聞いたことがあったが、レイはいまだその人物を知らない。社交的な性格で友人も多く、気安く誰とでも喋りたがる。彼から噂が広まることも多い。
「それで、マルコは?」
「どうだろうか。警察では彼と一度も会わなかったから。少し話がしたいと頼んでも、聞き入れてもらえなかった。まだ、あの冷たい部屋にいるのかもしれない。僕は彼を守れなかったんだ。僕だけがこうやって自由に……」
 レイは悔しげに顔を歪め、それから力ない様子で微笑んだ。エンリコは、まるで自分のことのように痛々しげな顔をしたが、やや俯きがちになって首を振った。
「君が気に病むことはないよ」
「でも……」
「ルームメイトをかばいたい気持ちは、よくわかるよ。僕だって、ディオが同じようにひどい扱いを受けたらと思うと、とても心苦しい」
 エンリコはレイの肩に手を置き、力を込めた。レイは伏した眼差しで彼の手を見遣り、舌打ちを飲み込んだ。
「ありがとう。君は優しいな、エンリコ」
 苛立ちは隠さずに、あえて表に出した。レイには確信があったのだ。エンリコに真の理由は見破れないと。
 はたしてエンリコはさらに眉根を寄せて、声を詰まらせた。
「本当に優しいのは君だ。警察では、ひどい目に遭ったんだろう。頬がやつれている。すぐにわかるさ。だというのに、マルコの心配ばかりして……。僕は君を誇りに思うよ、レイ・オルランド」
「僕はそんなに立派な人間じゃないんだ。よしてくれ」
「みんなが思ってることを、僕が代弁したまでさ。どうして照れる必要がある。君はそれだけの能力を持ちながら、ただ一つ、積極性だけが足りないな」
「よく言われるよ」
 レイは爽やかに笑い飛ばして、続けた。
「でもこれが、素のままの僕なんだ」
 そう言ってレイはエンリコを振り向いた。エンリコはまるで眩しいものを見るように、目を細めた。
「だから君は、どこまでも向上していけるのかもしれないね」
「だと、いいね」
 笑いかけて前を向いた瞬間に、レイは何かに躓いてよろけた。足をとめて、振り返る。
 路上には、片足のない男が残った足を投げ出して座っていた。
「大丈夫かい」
 後ろからエンリコが声をかける。レイは、ああと頷いて再び歩き出した。振り返らずに、背後に気持ちを傾ける。
 病気で失ったのか、戦争で失ったのか、レイにはわからない。あるはずの足がないことは哀れみを誘ったが、男の目にはしたたかさが鈍く光っていた。それは生命力に満ち溢れた、逞しい輝きだ。レイは、垣間見た男の眼差しを思い返し、憧憬のため息を小さくついた。
 レイのため息を待っていたように、エンリコが口を開いた。
「まったく、ああいう輩には困ったものだよね」
「え」
「兵士としての能力の低さを臆面もなくさらけ出し、慈悲を掠め取ろうだなんて。まともな人間のすることじゃない」
「彼が兵士かどうか、わからないだろう」
「いいや。あれは兵士だね」
 エンリコは鼻息を荒くして断言した。レイは心中で閉口しつつ、穏やかになぜと問うた。
「君は奴のあの顔を見たか。いや、特に目だ。目がまるで獣のようだったろう。あれはきっと、何人もの命を手にかけた目つきだよ」
 軽蔑の色を浮かべるのも束の間で、エンリコは高らかに続けた。
「たしかにこのところ、国は安定という言葉からはほど遠い。教会の動きもはっきりとしないし、軍部はオーストリアに掌握されたようなものだ。王政復古以来、権力は一点に加速している。歴史的に見て、あまりいい状況とは言えないよ。これは憂えるべき時代だ」
「だったら彼のように悲しい兵士が生まれるのも、時代が課した試練だろう。彼ばかりを責められない」
「だがこの憂えるべき時代にも、一筋の光がある」
「ひかり……?」
「そう。ヴィスコンティ卿の名が宰相のそばにある限り、この国は必ず明るい方へと向かっていけるんだ。だというのに、光に背を向ける兵士なんて、馬鹿としか言いようがないね」
 顎を逸らして得意げに語るエンリコを見て、レイは内心で呆然とした。
「エンリコ。君から見て、俊才ヴィスコンティはどんな人物だ」
「それはもう! 本当に素晴らしい御仁だよ。法への深い知識と、独特の歴史観、弁舌の鋭さ、機転の速さと正確さ、どれをとっても彼の右に出るものはいないと思うよ」
「君の父上も、ヴィスコンティ卿と同じで法律家だったね」
「ああ。ちなみに兄も裁判官補佐をしているよ。そのよしみで、何度かお会いしたことがあるんだが、大らかでね、子供相手でも正面から向き合ってくれる、とても親しみやすい方だよ。ご自分の地位を鼻にかけず誰にでも平等で。法律家の鑑さ」
 熱を帯びたエンリコの話に、レイは小さく首を傾げた。
「兄上は裁判官ではなかったのか」
「あ、いや……」
 賛辞を続けようとしていたエンリコの口元が、途端に冷める。レイはすかさず指を鳴らした。
「やあ、すまない。僕の記憶違いだったみたいだ。君の家系はとても優秀な人が多くて、ついわからなくなる」
「そ、そうか。いや、いいんだ。気にしないで」
 エンリコは歯切れ悪く、レイの言葉をかわした。エンリコのついていた嘘がひとつ剥がれた瞬間だった。
「しかし、それならなぜ、ヴィスコンティ卿は国を安定させるための方策を打ち出せないでいるんだろう」
 レイの呟きに、エンリコがここぞとばかりに目を輝かせた。
「それは、愚民どものせいだよ」
「愚民? 平民のことか」
「他にいるかい」
「ずいぶん過激なことを言うんだな」
「当たり前じゃないか。やつらは何も知らなさすぎる。あれじゃ、家畜が家畜の世話をしているようなものだ。そうだろう。知識も礼儀も文字すら知らない家畜に、国のためにできることなんて何もないんだ」
 エンリコは昂りを抑えようともしないで、口角に唾を溜めて話し続けた。
「徒党を組めば、たしかにそれは力になる。どんな動物だって群れになれば恐ろしいからね。でもそれはただの力だ。社会や時代に影響するような風にはなれない」
「君が言いたいのは、反政府活動のことか」
「そうだよ。でも活動なんて言ってはいけないな。あれはただの暴力だ。家畜が群れをなして、一団となって走ってくる。柵を倒し、牧草を踏みつけ、小屋を壊し、人を蹴り上げ走っていく。理性のない、暴力だ」
 吐瀉物を吐き出すように顔を歪めて、エンリコは息をついた。レイは彼を横目に見遣って、家畜かと繰り返した。
「だから愚民、か」
「まあ、君のように由緒正しい家柄では、家畜の真髄がわかりにくいだろうが」
「平民すべてが家畜だと」
「乱暴な言い方だと思うかい。でも君のそれは優しさじゃない、無知だよ。やつらは田を耕し、船を出して網を張り、牛に荷を引かせ、街角で物売りでもしていればいいんだ。そう生まれついたなら、そのように生きるしかないんだ。平民は、どんなに頑張ったって平民にしかなれない。それ以上の世界なんて、ないんだ」
 寮へと続く道はやがて細くゆるやかな上り坂になり、あたりは人も疎らになった。耳を澄ませば、太陽に焼き尽くされた空の灰の、人知れず降る音が聞こえた。
 レイは知っている。それが血潮だと。
「ねえ、エンリコ」
「なんだい」
「僕も、平民出身だけれどね」
 レイはエンリコへ向かって、にこやかに微笑んだ。エンリコはあっと声を上げ、凍りついた。瞬きも忘れて、蛇に睨まれた蛙のように竦みあがる。
「あ……、いや、それは」
「僕も愚民、いや家畜ってことでいいのかな」
「き、君は、あのオルランド家の長子じゃないか。そんな、生まれなんて……」
 エンリコはついに道の真ん中で足をとめ、唇を震わせた。レイは数歩先で立ち止まり、エンリコを振り返った。
「平民に、それ以上の世界はないんじゃないのか。だったら僕は、名前だけが貴族の贋者ということになるわけだ」
「そんなことは――」
「僕の父が英国人だということは、知ってるよね。紡績機開発の一員だった。ただそれだけの理由で、英国軍にシチリアまで連れてこられたんだ。この国との交渉のために」
 レイの言葉はどこまでも穏やかだった。まるで風を孕んだ帆のようにゆったりとして優しく、幼子に語りかけているようだ。けれどもエンリコは返す言葉も失うほどに怯えていた。
 エンリコの反応は正しい。
 レイは彼への評価をあらため、さらに朗らかに微笑んだ。
「僕は幸運だったと思うよ。商家の夫婦に気に入られて店を任され、そのおかげで今の父上に出会うことができた。オルランドの家に子供がいなかったことも、僕には幸いした。おかげで僕は貴族になれた」
 いまさらこのような話を聞かせずとも、レイの出自は学校の誰もが知っていることだ。ましてや噂好きのエンリコが知らないはずがない。
「まあ、過去の話ではあるけどね」
 レイはさきほどエンリコがしたように、彼の肩に手を乗せて、顔を覗きこんだ。
「法律家の環境で育った君が、ああいった活動を認められないのは、正しい姿だ。誇りに思っていいよ」
「……君は、どう思ってるんだ」
 俯いたまま、エンリコは上目遣いで問いかけた。
「活動のこと?」
「あ、ああ」
 エンリコは浅く頷いて返した。
「どうかな」
 レイは浮かべていた笑みを消し去り、先に歩き始める。
「マルコに遠慮して何も言わないのか。それとも……」
 慌てて後ろをついてきたエンリコが、言葉の続きをためらった。レイには彼が何と言おうとしたか、隠していてもわかった。
 それとも、平民出身だから平民をかばうのか。
 レイは軽く目を伏せて、首を横に振った。
「君とほぼ同じだよ」
「え」
「あんな非合法なことは、革命でもなんでもない。野蛮な反社会行為だ」
「ならば、レイ――」
 背後のエンリコが何か言いかけたが、レイはそれを許さなかった。
「もしくは駄々をこねる子供と相違ない」
 そのあまりにも冷たい声音は、エンリコを黙らせるだけではなく、レイのくすぶる心までも容赦なく嘲笑った。