灰降る空と青の荊棘

06.いばらを踏む(3)

 かつて、繰り返し見る夢があった。
 レイは今、あの夢と同じように庭園の脇道を走っていた。持っていたはずの教科書はもうどこかへ落としてしまった。耳は千切れそうなほど冷たいのに、胸元から熱が立ちのぼる。レイは襟を崩して、寮への階段を駆け上がった。
 友人とすれ違うたび、どうしたと声をかけられるが、返事はおろか、一瞥を投げる余裕もない。レイは前を歩く学生を押しのけて、部屋へ向かった。
「フィオ!」
 荒々しく扉を開けて、中へ踏み込む。息が切れ、咳がとまらない。よろめく体をどうにか支えて、奥へ進む。
「どこにいる、フィオ!」
 たしか、ヴィスコンティが襲撃された日も、こうやってフィオを探して部屋へ帰ってきた。あの日フィオは、バルコニーの窓に手を添えて、外を見つめていた。
 今、その窓はかすかに開いて、きぃきぃと鳴いている。足元には窓から入り込んだ枯葉が散らばっていた。思考ではない。本能が、フィオがいたと確信した。レイはフィオの部屋に入り、乱雑に置かれた荷物をあさり始めた。
 何か、証拠がほしかった。いや、それがフィオの無実を証明するものであるかどうかは、もうどうでもよかった。ただ、フィオを知る、何かがほしかった。
 フィオのにおいがする服をかきわけ、二人の夜が染みついた寝具を剥ぎとり、机に並べられた本を床に投げ落とす。だが、それらはすべてレイの知るフィオを越えない。
 顎を伝って汗が落ちた。レイはテーブルに手をついて肩で息をした。指先に触れた紙を引き寄せて、手の中に握りこむ。
「くそっ」
 苛立ちが体から溢れて、レイはテーブルを叩きつけた。その拍子に、インク壺が大きく揺らいで床に落ちた。蓋が開き、こぼれ出した黒いインクが絨毯を汚した。
 レイはそこに違和感を覚えて、ほとんど空になった壺を拾い上げた。中を覗いてみるが、インクが内側に張りついて、ほとんど何も見えない。諦めて耳のそばで小さく振ってみる。鈴の音のような小さな音がした。レイは壺の中に指を突っ込んで、中をまさぐった。爪の先に、壺の感触とは違った何かが触れた。だが窪みに嵌っているのか、振っても出てくる様子がない。仕方なく手近にあった鋏で壺を割った。
 中から出てきたのは、指輪だった。装飾のほとんどない、金の指輪だ。汚れをふき取り、レイは息をのんだ。
 それはレイの実父、ブラッド・キーツがしていた指輪だった。
 目眩がして、レイはその場に座り込んだ。なぜ、なぜ、なぜ。そればかりが頭の中で繰り返される。
 脳裏をかすめていく記憶の情景は、時も場所もばらばらだった。よく覚えているものもあれば、いつのことかわからないものもある。ただ不思議と、いい思い出ばかりが思い出された。
 すっかり散らかった部屋の中を、低い位置から眺めていると、子供にかえったようだった。あらゆるものが目線より高い場所にある。机の上のものすら見えず、手を伸ばしても掴めない。
 レイは父の指輪を人差し指に押し込み、おもむろに立ち上がった。体の軸が、波に揺られる小舟のように、ゆらゆらとして安定しない。レイは壊れた人形のように窓の外を見遣った。
 灰色の空を抱え、海はまるで泥水のようだった。

 通りに出て、客待ちの馬車を探す。しかし雲行きが怪しくなってきたせいか、どれも定員いっぱいに客を乗せていた。三台の馬車に断られ、レイは諦めた。またお願いしますよという御者の声を背中に聞きながら、走り出す。向かう場所はひとつしかなかった。
『場所は、リストランテ・アッズーロ』
 あれからまだ一時間も経っていない。まだ、間に合うかもしれない。望みを捨てたくない。もう、何も失ってはいけない。たとえ自分が去った場所であっても、いつまでもその場に在ってほしかった。
 なんという傲慢かと、レイは走りながら小さく笑った。しかしそれが偽らざる本心であることは、レイ自身がよくわかっていた。
 緩めたタイを投げ捨て、シャツのボタンをひとつ外す。冷たい風が直接喉元を刺して、息ができなくなる。耳は風音と激しい呼吸でほとんど何も聞こえない。鼻の奥にはつんとした痛みが走り、内側から干からびてしまいそうだった。
 店へ近づくにつれて、街にはいつもと違った喧騒があった。行き交う人の中に顔見知りを見つけるが、誰もがレイと目が合った瞬間に顔を逸らしてしまう。
 もう、始まっているのだ。
「ちょっと、あんた!」
 家の前で立ち話をしていた中年女が、レイを呼びとめて首を振った。
「やめときな、店はもう警察が取り囲んじまってるよ」
「いつから」
 立ち止まると、急に鼓動が激しくなった。レイは額の汗を拭って、息も切れ切れに問うた。女はふくよかな腹の上に手を組んで、小さく唸った。
「そうだね。もうかれこれ三十分は経って――」
 女の言葉をかき消すように、通りの向こうで銃声と怒声が沸き起こった。
「ありがとう」
 レイは女に礼を言って、再び走り出した。角を曲がれば、店はすぐそこだ。
 警察が突入をしたからか、遠巻きに眺めていた群衆が集まり出し、店の周辺は何重もの野次馬で溢れていた。さらに店の中から銃声が鳴り響き、群衆は興奮の声をあげた。
「退いてくれ」
 レイはその隙間を縫って、前へ前へと進んでいく。中ほどまで近づくと、なんとか店の入り口が見えた。緑色の扉は粉々に砕け散り、外に面した硝子窓はすべて割れていた。中からは言い争う声が聞こえるが、誰の声なのかまでは聞き取れない。レイはさらに前へと押し進んだ。
「離せ、離しやがれ! てめえら、きたねえ手で触るんじゃねえよ!」
 ジュリオの声がした。レイは前にいた男の肩を押しのけて目を凝らした。
「暴れるな!」
 扉のなくなった入口から、警官二人に両脇を押さえられたジュリオが出てきた。
「ちくしょう、なんだっていうんだ!」
 魂を絞るようなジュリオの叫びが、街に放たれる。店のまわりに集まった群衆は、口々に騒ぎ始めた。警察を責めるもの、ジュリオを侮辱するもの、双方の衝突を期待するもの、反応は様々だった。
 あまりにもジュリオが暴れるため、警官は歩みをとめてジュリオを殴りつけた。すでに暴行を受けていたのか、ジュリオはすぐに膝を落とした。警官はにやつきながら、うずくまるジュリオの腹を蹴る。
「誰が、誰が言いやがったんだ……!」
 ジュリオの叫びに、レイは思わず人影に隠れた。しばらくすると、ジュリオの声は聞こえなくなった。そろりと顔をあげて、店を見遣る。
 引きずられるようにして連れていかれるジュリオの背中が、小さく映る。腹の底に苛立ちにもならない感情が湧きたつ。
 頬に、視線が刺さる。
 振り向くと、ダリオと目が合った。
 レイは思わず、群衆から駆け出しそうになる。しかし腫れあがった顔を小さく横に振り、ダリオはレイを押しとどめた。唇が、来るなと動く。
「ダリオ……」
 しかしダリオは二度とレイの方を見ようとはせず、背筋を伸ばして警官に連れられて行った。
 警官が野次馬を追い払うため近づいてきた。レイはひと足早く人垣をすり抜けて、辺りを見渡した。
 建物の陰に見慣れた人影がちらつく。透き通るような金髪が路地に消える。
「フィオ」
 レイは人影を追って、路地を走った。狭い道を抜けて、大きな通りに出る。人も馬車も多く、見通しが利かない。だが斜向かいの路地に後姿を見つけ、レイは行き交う馬車をすり抜けながら同じ路地に踏み込んだ。
 道は緩やかな上り坂で、先は階段になっていた。脇道などはないようだが、フィオの姿もすでにない。レイは息を整えながら歩いた。
「どこだ、フィオレンティーノ」
 呼びかけは水を含んだパンのように脆かった。口にしたそばからぼろぼろとこぼれて、石畳の上に落ちて潰れる。それを革靴で踏みつけて、レイは不快に顔を歪めた。目に映る世界を、認めたくなかった。受け入れたくなかった。だが悲しいほどにレイはわかってしまっていたのだ。
「フィオ……」
 追いかけ、名を呼びながら、もう二度とフィオに会えないことも夢想した。もしそうなれば、何もかも幻想だったと笑って大通りに戻れる気がしていた。
 もし戻れたなら、ダリオらのところへ帰ろう。帰るべき場所へ……
「レイ」
 すぐ横から声がして、レイは肩を大きく揺らした。見ると、フィオは扉の窪みに身を潜めていた。
 凍えそうな金髪を揺らして、フィオは無邪気に笑った。
「追いかけっこ、楽しいね! 昔もよく二人で遊んだの、覚えてる?」
「ああ、覚えてるよ」
「知ってたんだよ、僕。レイが手加減してくれてるの。ちょっと悔しかったけど、でもやっぱり勝てるのは嬉しかったな」
「俺が勝つと、一日中むくれたくせに」
「あれからだよね、レイが僕をお坊ちゃんって呼ばなくなったの」
「そう、だったかな」
 口元だけで笑ってみせて、レイはフィオから見えないように指輪をはめた手を背中に隠した。
「フィオ、お前は――」
「ねえ、レイ。好きって言って」
「え」
「僕のこと、好きだって言ってよ。教えて、レイの気持ち知りたい」
 フィオはレイの腰に手をまわして抱きつくと、真下からレイを見上げて、澄んだ青の瞳を笑みに歪めた。
「レイ、ほら」
「……フィオ。俺も知りたいことがある」
「うん、なに?」
「お前が……、お前がやったのか」
 何をとは訊かなかった。フィオも問いを重ねることはなく、神の造形物のように不足ない微笑みでレイを見つめていた。視線を触れ合わせていると、胸に愛しさが沁みた。
 今ならまだ、引き返せるのだろうか。
 何も知らないまま、ただ愛し合う未来を望めるのだろうか。
 これから語られる言葉を聞きさえしなければ……。
 フィオが、レイの迷いを嘲笑うように、元気に頷いた。
「僕がやったよ」
 フィオは褒めてと言わんばかりに人懐っこく笑い、レイの胸に頬をすりつけた。
 冷え切った体が、汗に濡れた服で更に冷たくなり、また内側からも熱を失った。レイは凍えていく自分自身をとめられずに、唇を震わせた。
「どこまでだ。いや、どこからだ……」
「たぶん、レイが思ってるとおりだよ」
「マルコも、そうか」
「逮捕から」
「そうか、やっぱりそうか」
 レイは何度も浅く頷いて、壁に背中を預けた。乾いた笑いが次から次へとこぼれていく。古い土壁が剥がれていくような、体中から痛みがもぎ取られていくような心地だった。レイは手で顔を覆い、喉を鳴らして笑った。悲しみも虚しさも、行き過ぎておかしさになる。笑っていなければ、狂ってしまいそうだ。
 耳に届く自分の笑い声が遠い。空っぽの内側に、下手な鼓動が響く。
 レイはゆるりと顔を上げ、涼やかなフィオを見おろした。
「フィオ。お前の一声で、どのくらいが動く」
「末端まではよくわからないけど、少なくとも百人は把握してる。実際はもっといるんだろうね。彼らは色んなところにいるよ。大体みんな、掛け持ちだから」
「ネスタが俺に話したことは、どこまでが本当なんだ」
「ああ、うーん、そうだな。たぶん、全部ほんとだよ。レイがどこまで聞いたか知らないけど」
「じゃあ、どうしてイレーネだったんだ。ネスタが言ったのか」
「ううん。あれは大失敗。僕が間違えちゃった。てっきりレイの彼女だと思ったんだ。おんなじにおいがしたから」
「におい?」
「うん。あの子の制服から、レイの服についていた匂いがしたんだ。でもよく考えたら、あんな地味な娘がレイの彼女なわけないよね。美人って評判だったんでしょ」
「イレーネは、違う……違うよ、フィオ」
 小さな違和感ならずっとあった。ひとつきりではない、いくつもあった。だがそれが繋がらなかった。
 今やっと、置き去りになっていた胸のつかえが取れた。
 街の喧騒は、二人をよけて過ぎていく。レイはフィオの端正な顔を見おろして、あらためてその美しさに愕然とした。彼には歪みが見えない。どれだけ罪を犯しても、フィオは穢れることを知らない。おそらくそれらがフィオにとって罪ではないからだ。彼にとっての罪は、レイへの気持ちを偽り隠すことだけなのだ。
「レイ、腕の傷はどう?」
「まだ……」
「そう」
 フィオはそう呟くと、レイの腕の傷を服の上から強く掴んだ。
「ぐ……っ」
 レイは声を殺して痛みに耐える。
「フィオ、何を」
 指を捩じ込もうとしたフィオの手を遠ざけ、レイは傷を押さえた。じんじんと脈打っている。
 鈴を鳴らすような笑い声がした。
「いけないな、レイ。あさるなんて」
 フィオの細い指が、レイの人差し指に嵌った指輪をつつく。
「レイのお父さんのものなら、それはレイのものでもあるでしょ? だから置いといたんだけど……、レイにはあんまり似合わないね」
 レイの手をとって、人差し指に唇を添わせる。フィオの唇はやわらかく、少女のようだ。その隙間から白い歯が覗いて、指輪に噛みついた。舌先で指を舐めて滑りをよくして、レイの指から指輪を引き抜いていく。フィオは外した指輪を舌の上に乗せてレイに見せると、道端に吐き捨てた。
 フィオは指輪に興味を示すことなく、レイの腕をさすった。
「痛い?」
 優しい問いかけに、レイは軽く目を伏せた。フィオは肩を寄せて頬を染めた。
「大丈夫。もし片腕が使えなくなっても、たとえ腕ごと切断することになったとしても、僕がずっとそばにいて、世話をしてあげるよ。安心して。利き腕じゃなくても、不便でしょ。だから、なんだってしてあげるよ。僕を抱くのが難しくなったら、僕がレイを抱いてあげる」
 怒りなどという感情は、とうにない。ただ、ここに体があることがわかる。そこに抱きついたフィオの感触もわかっている。だがあたたかいはずのフィオの体温が感じられない。そもそも自らの熱がわからない。氷漬けになった心と体が、ここにある。
 帰って、あたたまらなければ。
「帰らないと」
「どこに?」
「それは……」
「レイに帰る場所は、あるの?」
 否と、レイは口の中で呟いた。
 帰る場所など、元よりない。ずっと、どこにも寄りかからずに生きてきた。帰りたいと泣き叫ぶ幼い自分の首を絞め、何もない中空を漂うようにして過ごしてきた。
「ね。だから、僕がなってあげるの。ここがレイの帰る場所。レイを守ってあげられる場所」
 心を読んだように、フィオが念押しする。さらに強く抱きつかれて、レイは足元から崩れた。フィオはレイに寄りかかるようになって、それでも腕を緩めなかった。
「大好きだよ、レイ。僕の、僕だけのレイ。ずっと一緒だからね。ずっとずっと、一緒に追いかけっこしよう。いつまでだって、抱き合っていよう」
 いつまでも。いつまでも。ずっと、ずっといつまでも……
 それは、いつまでだろう。
「僕だけがレイを愛してあげる」
 冷たい体と、痺れるような腕の痛みが、レイから思考を奪い取っていく。
 空を見上げると、濃い灰色の雲から白い粉雪が降ってくる。まるで、灰のようだ。
 寒い。寒くてしかたがない。
 少しでもいいからあたたまりたくて、レイはフィオを抱きしめた。
「好きだよ……、フィオ」
 腕の中で微笑む青は気高く、荊のようにしなやかだった。

―おわり―