灰降る空と青の荊棘

01.夢で呼ぶ声(3)

 寮の敷地へ入ったところでエンリコと別れた。大学の事務室へ寄ることも考えたが、レイはその足で自室へと向かった。
 顔見知りとすれ違うたびに、声をかけられる。皆が大丈夫か、マルコはどうした、と同じことを口にする。その都度レイは足をとめて、エンリコにしたような説明を繰り返した。ある程度の人数に話しておけば、今日でこの話題が終わると見越してのことだった。
 部屋のある西館へ辿り着く頃には、エンリコと別れてから小一時間が経っていた。東館は、おそらくエンリコが噂を広めてくれる。西館に関しても、ある程度の顔ぶれには話をしておいた。もう、話を聞かれることはないだろう。そう思うと、急に疲労感が押し寄せた。
 日陰に守られた、木製の扉をひく。手のひらに握った真鍮の取っ手は、不意に降る雨のように冷たかった。
 昼間の寮の玄関は、外の明るさも手伝って、一段と薄暗い。吹き抜けになった玄関はロビーも兼ねてあり、ソファでは数人の学生が談笑していた。その中に、何人か見知らぬ顔を見つける。レイは心中で首を傾げた。同じ寮内でレイの知らない顔はないはずだった。
「おかえりなさい、オルランド様」
 管理部屋にいた白髪まじりの男が、小窓の向こうで頭をさげた。レイはそちらへ歩み寄って、少し低い位置にある小さなカウンターに肘を置いた。
「ただいま、ガスパロ。あそこにいるのは」
「本日、王都大学へご入学なさった方々です。お荷物は昨日すでに運び入れしておりましたので、早速館内をご覧になっていらっしゃいます」
「ああ、そうか。そうだったね」
 レイは肩越しに新入生を振り返り、肩をすくめた。
「僕の仕事だったんだけど、いらないみたいだな」
「オルランド様のお部屋にも、いらっしゃいますよ」
「マルコが帰ってるのか」
「いえ……」
 腰の悪い管理人は、レイに耳打ちをするために椅子から立った。
「ピエリ様は、まだ警察署に」
「そう、か。じゃあ、新入生だね」
 レイはガスパロの腰を気遣って、彼の肩を優しく押した。老管理人は、恐縮して頭を下げた。
「はい。正確には、復学なさった方です」
「へえ。復学試験は入学試験より難しいって聞いたことがあるけど」
「とても優秀な方だそうです」
「楽しみだな。ありがとう、ガスパロ」
 ひらりと手を振ると、ガスパロは再び立ち上がって深く礼をした。
 濃紺の絨毯が敷かれた、広い階段をのぼる。使い込まれた木の手摺りは、塗装が剥げてむしろやわらかい。この手触りが、レイは好きだった。決して小さくないレイの手でも覆いきれないほど、太く頑丈な手摺りだったが、その手触りはどこまでも儚げで頼りない。いつか全身を預けた瞬間に裏切られて、階下へ振り落とされるのではないかと不安になる。その本能的な心細さが、レイの内側を慰めた。
 まだ、かろうじて人として生きているのだと、教えてくれた。
 三日前、警察の捜査が及んでいることをマルコに伝えると、彼はひどく狼狽して、レイに掴みかかってきた。
『なぜ俺だけが!』
 短く整えられたマルコの艶やかな黒髪は、毛先がちりちりと震えていた。レイの両肩を掴む彼の手は、はなはだしく汗をかいていた。
 マルコが理由を、慰めを求めていることは明らかだった。だがレイはそれに応えようとはしなかった。マルコのためでも自分のためでもない。かけてやるべき言葉を、レイは知らなかった。嘘や演技なら、いくらでも口から零れてくるというのに、レイは心からの言葉というものを持ち合わせていなかったのだ。
 ただじっと、彼を見つめ返すしかできなかった。そして、それを申し訳ないとは思わなかった。
『レイ。お前には、俺を責める言葉すらないのか』
 あえて何も告げなかったことがレイの誠意だとしても、伝わらない誠意は誰も救わない。
 透明感のある茶褐色の瞳が、レイの答えを待たずに絶望に染まった。マルコはそのままずるずると床に座り込み、うなだれて十字を切った。警官が部屋の扉を叩いたのは、それからすぐのことだった。
 石床の廊下は、天井が映りこむことでくすんだ灰色に見えた。靴音が丸みを持って響き、静寂を煽る。一階と違い、二階に学生の姿はなかった。昼時も近い。今は学生寮よりも食堂が混みあう頃だ。廊下にも、そして扉の向こうにも、人の気配はほとんどない。
 レイは見慣れた扉の前に立ち、ノックしようと手を上げた。だがどうしても腕が動かなかった。理由はわからない。体がとっさに拒絶したのだ。レイは顔のそばに軽く拳を作ったまま、その場に立ち尽くした。
 新しいルームメイトと関係を築いていくことは、決して億劫ではない。マルコのときのように、こちら側へ引き入れる可能性を考えれば、その過程にむしろ気持ちは踊った。
 問題はこの場所だ。三日前から時間の止まったこの部屋が、レイには恐ろしく不愉快だった。一歩踏み入ったなら、ぜんまい仕掛けの人形よりも無機質で、不完全な生き物の残像が、煙で満たした硝子玉の目をして突っ立っているに違いなかった。レイは三日前の自分自身を想像するだけで、吐き気がした。
 作った拳をじんわりと締めつけていく。人差し指と中指の爪が、手のひらに強く押しあてられる。いつもなら諦めに似た平静が訪れるはずが、今日は苛立ちが消えない。レイは仮面の表情のまま、舌打ちをした。いつだって、自分の感情が重荷になる。邪魔になる。ひとりきりになれば、それはなおのことだった。
 周りから、薄情だと言われる。きっとあのときマルコもそう言いたかったはずだ。彼の目に生まれた絶望の影を、レイはよく知っている。あの眼差しの先には、いつだって自分がいる。
 レイの情愛は、生者が想像する死の感覚よりもずっと遠い場所にある。いつからと自問しても、返ってくるのはこだまだけだ。
 だが感情はすぐそばで息づいている。情愛が他者への愛情なら、感情は自分に対する愛情、自己愛だ。自分を守り、自分を愛し、自分を嫌悪する。
 そして笑顔の仮面に拍車がかかる。
 弱みは誰にも見せない。隙など、自分には必要ない。笑顔も喜びも、そして愛の言葉でさえ、台本どおりの三文芝居だ。
 浅く息を吐く。何も見るな。何も聞くな。何も感じるな。レイは取り乱した心に暗示をかける。
 顔を上げたレイの胸中には、懊悩の欠片も躊躇いの足跡もなかった。灰色の眼差しにはもとより一片の歪みもない。レイは若者らしく晴れ晴れとした顔で、軽く扉をノックした。
 中から返事はなく、レイは様子を窺うようにゆっくりと扉を開けた。徐々に広がる部屋の様子は、三日前とは少し違っていて、レイの心を完全に鎮めた。レイは部屋へ入り、声をかけた。
「誰か、いるか」
 やはり返事はない。
 玄関から続く廊下を進むと、備え付けの家具が置かれた共用の応接間に繋がっている。調度品はどれも丁寧で豪奢なつくりをしていて、床に敷かれた織物と相まって学生寮とは思えないほどの落ち着きを見せていた。
 うさぎの毛皮を使ったスツールに鞄を置き、着ていた上着をかけると、レイはバルコニーへ出た。ポケットから煙草入れを出したところで、部屋の中から物音が聞こえた。レイは煙草を諦め、急いで室内へ戻る。応接間から繋がる二部屋のうち、マルコが使っていた部屋の前に立った。扉がわずかに開いていた。
 人の気配はない。だが部屋の窓が開いているのか、扉の向こうからはかたかたと何かが触れる音がした。
「いるのか」
 軽く触れただけで、扉はレイを招き入れるように大きく開いた。途端に、薔薇の甘く饐えたような香りが流れ出した。軽やかな風が窓辺で揺れている。カーテンの裾に付けられた金具が、角張った鞄の縁に当たってこすれていた。かたかたという音はそこから聞こえていた。
 レイは鞄から視線をそらし、すぐそばのベッドを見下ろした。そこにはベッドの淵に凭れかかるようにして、ひとりの少年が眠っていた。カーテンが揺らいで光が届くたびに、少年の絹糸のような金髪がやわらかく輝く。その神々しさは、まるで雲間から射す一筋の光のようであった。
 脳裏に、夢でよく見る景色がよぎった。葉陰の向こうにちらりと見えるテラスは、同じくやわらかで清浄な光に溢れている。
 少年がレイの気配に身じろぎをした。吐息のような声が漏れる。
『約束だよ。レイ』
 耳の底に響くのは、夢の中で呼ぶ声だ。なぜ今、と怪訝に思いながら、レイは少年の顔を覗きこんだ。
 長い睫毛には光の粒が吸い付いて、鼻筋は迷いなく真っ直ぐで、肌は陶器のようになめらかだ。頭の下に敷かれた指先は穢れを知らず、わずかにひらいて呼吸を繰り返す唇は、夕焼けが口づけたように淡く染まっている。はだけた襟から覗く首筋は、握れば折れてしまいそうだった。
 少年はまるで少女のように可憐で美しかった。
 レイは光に集まる羽虫のように、少年の寝顔に引き寄せられた。薄いまぶたにかかる髪を払いのけようと指を伸ばす。
『ねえ、レイはここにずっといてくれる?』
 遠い思い出が不意に声を上げた。レイは伸ばしていた指をとっさに引いた。あらためて少年の顔を見つめる。
 レイは少年に見覚えがあった。だがあまりに幼い日のことで、記憶が判然としない。駆け抜けていく記憶の断片は、どれも輪郭がぼやけていて、それが本当に自分の記憶なのか、それとも夢で見た景色なのか、もしくは捏造したものなのか、考えるほどわからなくなった。
 喉の奥にひっかかる言葉がある。それは、名前だ。夢の中ではどうしても思い出せないその名前を、レイは舌に乗せた。
「フィ、オ……」
 声は掠れて、うまく音にならない。無性に喉が渇いていた。レイは思い通りにならない唇を舐めて、もう一度彼を呼んだ。
「フィオ」
「ん……」
 少年の、蝶の足のように繊細な睫毛が震える。わずかにひらいていた唇が、思い出したように引き結ばれる。
 やがて、閉じられていた瞳が目覚めた。
 そこには海があった。空から降った青いインクを寄せ集めて作った海だ。どこか人工的で温もりはなく、不規則な揺らめきは底知れない深みを感じさせ、何より澄みきって美しい。それまでは少年らしさを感じられた顔立ちも、途端に大人びて見えた。
「レイ……」
 体を起こし、少年は何度も瞬きをしながら呟いた。その声は、夢で聞く声よりもいくぶん低くなっていたが、同じものだとすぐにわかった。
「フィオ、か」
「レイ!」
 フィオはレイに飛びついた。レイは意外に小柄なフィオに驚きながら、背中を軽く叩いた。
「久しぶりだな、フィオ。元気だったか」
「レイの方こそ! まさか、まさか本当にレイだったなんて」
「それは逮捕されたのが、か?」
「違うよ。ルームメイトが、だよ」
 フィオはレイの胸に額を押しつけて、肩でくすくすと笑った。首筋から、薔薇のにおいが立ちのぼる。レイはフィオの細い肩を掴んで、体を引き離した。
「すっかり大きくなったな。俺が二十五だから……」
「十八になったよ」
「そうか。あれから十年も経つんだな」
「うん。会いたかったよ、レイ」
 レイの腕に手を添えて、じっと見上げてくるフィオは、まるで恋を覚えたばかりの少女のようだった。レイはさりげなく手を離し、足元に落ちていた羊皮紙を拾い上げた。
「入学書類だろう」
「あ、えっと……」
 両手で丁寧に羊皮紙を受け取ったフィオは、歯切れ悪く返事をして俯いた。
「どうかしたか」
「入学じゃなくて、復学、なんだ」
 レイは管理人ガスパロの言葉を思い出し、返事に窮した。理由を尋ねるのは気が引けた。
 フィオは短い沈黙を嗅ぎとり、花が咲くように微笑んだ。
「体調を崩して、休学してたんだ。とは言っても、前は三日しか来なかったんだけど」
「そうだったのか。まったく知らなかった」
「しかたないよ。だって前は寮に入らなかったから」
「まさか、そんなことが許されるはず……」
 王都大学はすべての階級にひらかれた学校だ。実際はほとんどが貴族や役人、法律家、大地主などの富裕層の子息ばかりだが、少しでも出自の差を埋めるために、全寮制となっている。本だけでなくインクの一滴まで支給する徹底ぶりで、例外は認められないという話だった。
「だって、ほら。うちは……」
 フィオはそこまで言って黙りこんでしまった。レイはようやく思い至り、ああとこぼした。
 彼の名は、フィオレンティーノ・デ・ヴィスコンティだ。
 前宰相から今に至るまで、国の政治を動かしている法律家、アレッサンドロ・デ・ヴィスコンティの三男にあたる。
 いくら例外は認められないと言っても、ヴィスコンティ卿の言葉に逆らえる者はいない。
「それで、体はもう大丈夫なのか」
「ありがとう。本当はもっと前から大丈夫だったんだけど、ね」
 悪戯っぽい笑みを浮かべると、フィオは急に年相応の少年になった。レイは安心したとこぼし、部屋の中を見回した。
「前の荷物が残ってただろう」
「うん。でもだいぶ持っていかれたみたいだよ」
「警察に?」
「ガスパロさんは、そう言ってた」
「他の荷物はどうした」
「あそこに」
 フィオが指差す方には、半開きの衣裳箱が置かれていた。マルコは平民出身で、仕立て屋の息子だった。箱からはマルコがよく着ていたシャツが、だらしなく垂れていた。
「あとで片付けるように言っておくよ」
 レイははみ出た服を中へ押し込み、無理やり蓋をしめた。
「ねえ、レイ」
 部屋を出ようとしたレイを、フィオが呼びとめた。レイは開いた扉に手をかけて振り返る。
「なんだ」
「名前、変わったんだね」
「ああ。オルランドの養子になった」
「最初に聞いたとき、わからなかったんだ。レイだと思ったけど、違ってたら悲しくなるから。会うまでは期待しないでおこう、って」
 青い眼差しがレイをとらえる。強引なのに、どこか頼りない。鮮やかなのに、あきらかな翳りがある。清廉なのに、憚るほどになまめかしい。フィオの瞳は事象の両極を備えながら、何ものも留めてはいなかった。
 どう見つめ返せばいいのかわからず、レイはフィオから視線をそらした。
「普段はレイ・オルランドと呼ばれるが、正式にはレイ・キーツ・オルランドだ」
「レイ・キーツ……」
「フィオも知ってる名前だろ」
「うん」
「オルランドの父が許してくれた。生家を忘れるな、と」
「そっか。じゃあ正真正銘の、僕が知ってるレイなんだね」
「当たり前だ」
 時折思い出したように薔薇が香る。ふと、夢の中で咲いている花が薔薇だったように思えて、レイは微笑した。今まで、咲いている花を気にしたことなどないというのに。
 フィオは両手を後ろで組み、レイを下から覗きこむようにした。
「約束、忘れてないよね」
「もちろん、忘れてないよ」
 レイは微笑をさらに深めて、静かな口調で言った。しかし実のところ、まったく覚えがなかった。フィオはそんなレイの本心を知らずに、胸を撫で下ろした。
「よかった」
 囁きにも似た呟きは、熱を孕み、危うい均衡の上にあった。
 強い、思いだ。
 希望と絶望、どちらにも振れうる思いを、レイ自身は知らない。抱いたことがない。享楽や快楽でさえ、いつだって捨てられるレイに、フィオの思いは理解できない。
 だが、だからこそ惹かれ、そして怖れた。
 レイは肯定とも否定ともとれる曖昧な笑みを浮かべ、自室へ入った。後ろ手に鍵を閉めて、ため息を吐き出す。自分らしくない、その場しのぎの応対に後悔が押し寄せる。
 袖口からは、薔薇の香りがほのかに揺らいだ。