灰降る空と青の荊棘

02.リストランテ・アッズーロ(1)

 レイにとって、名前などどうでもよかった。養父が善意で許してくれたものを、拒む理由もなかっただけだ。
 柱時計が十二時を指した。
 一階からは鍋が窯とこすれる金属音や、動きまわる給仕の足音が地響きのように伝わってくる。あまりに不格好なさまが目に浮かび、レイは注意しておかなければと思ったが、漂ってきた香辛料と脂の溶けるにおいに、すべてが帳消しになった。
 ここは、レイがオーナーを務めるリストランテ・アッズーロの二階にある、従業員用に設けられた休憩部屋だった。レイがかけている大きなソファとテーブルがあるほか、家具らしいものは何もない。店ができたころはここで食事をする者もいたが、繁盛するようになってからはもっぱら厨房の裏で済ませている。そのため今では部屋の半分が倉庫と化していた。レイが店へ顔を出すのは月に数回ほどで、そのときはあまり下にはおりず、たいていこの部屋で時間を潰した。
 踊る風に誘われて、首を後ろへ傾ける。頭上にある窓からは、街の暮らしが音になって流れ込んできた。子供たちの遊ぶ声、遠くの馬車の足音、女たちが勢いよく洗濯物をはたく音、犬や猫が喧嘩をする鳴き声。ありとあらゆる音が束になってレイの耳に届いた。
 狭い街路には紐が渡され、空を覆うように洗濯物がはためいていた。白いシャツの隙間から真っ青な空が覗く。眩しさに目をすがめると、太陽の輝きが金砂のベールになって空をそよいでいた。
 地上のことなど素知らぬふりで、軽やかに空は揺れる。孤高の青と至高の広がりを盾にして、ありったけの自由を謳歌している。気まぐれで、身勝手で……
 傲慢な空だ。
 あまり長く見つめていると、目が焼かれてしまいそうになる。
 レイはくわえていた煙草を手に持ちかえ、空に向かって煙を吹きかけた。霧のような紫煙はレイから青を遠ざけたが、やがて空に飲み込まれて息絶えた。
 顎に細い指が触れ、強引に顔を引き戻される。
「よそ見しないで」
「どうして」
 レイは正面にいる女に向かって、首をかしげた。視界には青空の名残が滲んでいる。
「そんな、なぜって……」
 女は吐息まじりに笑って、ソファにだらしなく座るレイの上にまたがった。下着姿の彼女には、恥じらう様子など微塵もない。
「当然よ。だって久しぶりだもの」
「授業も始まったし、そうそうこっちには来られない」
「どうせろくに出てないんでしょ」
 服を脱ぎ捨てた彼女はすまし顔で切り捨てると、慣れた手つきでレイのタイを弛め、シャツの釦を外しはじめた。
「そんなに俺を責めるなら、もっと近場でどうにかしたらどうなんだ、リザ」
 腰を軽く浮かせて支えを求めた彼女に手を貸し、レイはため息をついた。
「俺じゃなくても、不自由してないだろ」
「ひどいひと。あなたじゃなきゃ、もう嫌よ」
 リザはレイの薄い頬をつねって、顔を近づけた。
「ちゃんとこっちを見てくれないと寂しい。ほんと、いじわる」
 眉を寄せたリザは、レイの色のない唇に吸いついた。彼女の唇は肉感的でやわらかい。胸まで届く豊かな黒髪を払いのけると、蜂蜜のように芳醇で甘ったるい香りがふわりと舞った。
 レイはリザの胸を軽く押して唇を離すと、手に持っていた煙草を一口吸った。
「そういうの、傷つくわ」
「だろうな」
「わかってやったのね」
 濃い睫毛に縁取られた、焦がしキャラメルのように光沢のある瞳を細めて、リザはレイをなじった。だが彼女には、本気でレイを責める気などない。頬から肩まで紅潮し、胸元は汗で光り、舌足らずな猫なで声で何度もレイの名を呼ぶ。リザの苦悶に歪んだ眉は、乳房が揺れるたびに恍惚の表情へと変わっていった。
 行為の最中、レイはいつだってソファにもたれ、揺れ動くリザをただじっと見つめているだけだった。リザだけでなくどんな女も、自ら抱こうとはしなかった。求められれば応えるだけだ。それは意地でも主義でもない。ただ自分自身に素直であるだけだった。抱擁も口づけも情交も、強く求めたことがない。不意に空腹を覚えるように女を抱きたくなることはあったが、欲求が長続きしたことがない。諦めるのではなく、太陽に焼かれて蒸発してしまうのだ。
 だが実際、欲求が蒸発したことは数えるほどしかない。なりふり構わず求めなくとも、いつだって女の方からレイの上にまたがってきた。誘われればどんな女とも付き合った。年齢も容姿も特にこだわりがない。ただ欲求を吐き出すだけなら、そもそもこだわりなど生まれない。
 小さな部屋の中は、窓を開けているにもかかわらず、じわりと汗が浮くほど熱がこもっていた。リザのよがる声が床に散らばり、やや蒸れるようでもあった。
 胸をそらし、懸命にレイを求めるリザは、生き生きとして萌える新緑のようだ。今にも泣き出しそうな潤んだ瞳は、貪欲にレイだけを欲して、レイだけを追いながら、決定的に快楽のただ中にいた。
 レイはいつも下から眺めていて不思議に思う。
 なぜこんなにも必死になれるのだろう。
 ひた隠しにしたいはずの感情をあえてむき出しにして、相手に嫌われるかもしれないとわかっているのに、それでも無様に縋りついて、それで一体何が得られるのか。何が得られると信じているのか。
 リザの額を伝った汗が、レイの頬に落ちた。レイははだけた服の襟元で拭う。リザはそれを薄目に見おろして、途切れ途切れにごめんねと言った。
 体がどんなに繋がろうと、それは他者との差異をさらに深めるだけだった。どうしても近づけない肉体の壁と、どうしても埋められない存在の檻に気付かされる。
「レイ。お願い……、レイ」
 触れあったところで、孤独は消えない。
「ねえ、レイ……」
「聞いてる。なに」
「見て。私のこと、見ていて。お願い。それだけでいいから。他に何もいらないから」
 レイはリザに乞われるまま、彼女を見上げた。派手な顔立ちをしているが美人と評判の彼女は、体の均整も取れていて、日焼けしたヴィーナス像のようだった。
 リザはレイの視線を受けて、更に激しく繋がりあうと、息を切らしてそのまま座り込んだ。
「冷たい目。黒真珠みたいできれい。媚びることも見下すこともない、あなたのその目が大好き」
 リザは汗ばんだ腕をのばし、レイにもたれかかるようにして抱きついた。
「好きよ、レイ」
 素肌を押しつけあう胸元は熱く、互いの汗が境い目をなくした。
「レイには私だけでなくてもいいの。でも私はレイだけのものにして」
「好きにしろよ」
 レイは短くなった煙草を吹かし、手近にあったグラスの中に吸殻を捨てた。蚤の市で誰かが拾ってきたそのグラスには、青や水色の流線型の模様が描かれている。
 その青に、レイはフィオの瞳を思い出した。
 彼と再会して二週間が経った。日々、他愛ない会話を重ねることで、レイの中には泡がはじけるように記憶がよみがえった。
 フィオと知り合ったのは、レイがまだキーツの家にいたときだった。繊維工場を建設する協議のため、まだ十五歳だったレイは通訳として父に連れられヴィスコンティの屋敷へ赴いた。
 広大な敷地に建てられたバロック様式の建物は、邸宅というよりも要塞のようであった。細部の装飾までが赤レンガで統一された外観は、遠目には大きな波のようで、うっかりしていると飲み込まれそうになった。真下から見上げると空も逃げだすほどの迫力で、レイは正面上方に掲げられた女神らの彫刻を冷たく睨みつけた。
 中に一歩踏み入ると、居丈高だった外観からは想像できないほどの静謐さに満たされていた。大理石の廊下の壁には、数歩進むごとに甕を持つ女や、弓をつがえる狩人や、軽やかに舞う天使などのフレスコ画が描かれていた。そのそれぞれの絵を、腰の高さまである蔓のレリーフが繋ぎ、さながらひとつの物語を見ているようでもあった。
 レイは夢中になって絵を追い、やがて廊下の先に佇む姿に気がついた。じっとこちらを見つめるさまには、どこか非難めいたものが感じられる。なぜ。そう心で呟いた瞬間には、レイは案内されていることも忘れて、思わず立ち止まっていた。
 服装から少年とわかるが、彼を構成するすべてはまるで少女のようであった。顔の造形は遠目なのでわからなかったが、思考を介さず直接意識に訴えかけてくるほどの美しさがあった。雨にけむる山のような深みと、人知れぬ清水のような冴えがあったのだ。
 美しさの定義が、そのときに塗り変わった。
 レイは導かれるように歩み寄ろうとしたが、気付いた父に腕を引かれて阻まれた。すぐに肩越しに振り返ったが、もう少年の姿はなかった。
 ヴィスコンティ卿は細面の、ひょろりと背の高い男だった。口元に蓄えた髭を撫で、レイを静かに見おろした。屋敷と同じだとレイは思った。
 あらかたの協議が終わったころ、ヴィスコンティ卿はレイを手招き、耳打ちをした。
『君にはもうひとつ仕事を頼みたいんだが』
 そう言ったときの、心が凍るほど冷たい声をレイは忘れない。これが頼みではなく命令であることを、レイはすぐさま悟った。動揺を緊張に置きかえ、慣れた笑顔で用件を尋ねると、アレッサンドロ・デ・ヴィスコンティは執事に目配せをし、ひとりの少年を紹介した。
 それはさきほどの少年だった。
『うちの三男、フィオレンティーノだ。すまないが、しばらく彼の遊び相手になってくれないか。大丈夫、侍女もつける。君が手を煩わせることはない』
 そのころには、父や他の貴族らも、レイと屋敷の主人の話に聞き入っていた。元より断る道はなかったし、レイには断る理由もなかった。むしろ歓迎した。
『よろこんで』
 そうやって、レイとフィオは友達になった。末っ子だったレイにとって年下の遊び相手は珍しかった。まるで弟ができたようで、レイはいたくフィオをかわいがった。また、フィオもそれに応えた。
 それが、フィオとの出会いだった。
 遠目には少女のように儚げで、繊細な硝子細工のようだったフィオも、庭を一緒に走り回っていると、他と変わったところのない溌剌とした少年だった。ただ一点、他と違うとするならば、それはやはりフィオの子供らしからぬ美しさだった。不意に顔を上げたときの唇や、無邪気に星を見上げる横顔や、レイとのかけっこに勝とうとする真剣な眼差しに、踏み込むことを憚るような、絶対的な美しさがあった。それはまた、溌剌さとは程遠く、木陰の下にあるようなどこか退廃的な美しさでもあった。
 フィオはレイによく懐いた。工場建設の計画が具体化し、実際に工事がはじまるまで、レイは乞われて何度も屋敷に泊まった。同じ部屋で寝起きをし、とりとめもなく話を続け、走り回っては汗をかいて水を浴び、遊び疲れて眠りにつく。そんな毎日を繰り返した。
 だがある日、フィオはレイの前から姿を消した。それは突然の出来事だった。執事も侍女も、誰もがフィオについて口を閉ざした。レイは重ねて問いただすことはせず、父の通訳に専念した。やがてレイはある商家に出入りするようになり、店を任され、父の手伝いをやめた。結局、最後まで理由はわからなかった。
 いや、違う。
 レイはグラスの青を見つめて、心の中で首を振った。
 すべてわかっていた。ただ、自らが犯した罪を直視したくないだけだ。
 あの日、薔薇園を抜けた緑のテラスで、レイはフィオの冷たく湿った手を握った。行儀よく隣に座るフィオは、レイを見上げて無邪気に笑った。二人の手の中で互いの汗が混ざりあい、さらに握りしめると卵の黄身を潰すような感触が広がった。
 薄膜を破られた黄身はどろりと外へ溢れだし、皿を伝う。本能と理性がせめぎあった。
 レイはフィオの唇に、自らの唇を寄せた。
 フィオの戸惑いが繋いだ手に伝わった。レイは最後の理性を叩き起こし、顎をひいて唇を離した。しかし風が触れるような、掠めるような口づけは、さらなる波を呼び込んだ。理性を見失ったレイは突き動かされるように、今度は咬みつくような口づけをフィオに強いた。
 異変に気付いた侍女がテラスへ踏み込んできたときには、もうすでに二人の唇は離れ、隠しがたい沈黙に包まれていた。繋いだままのフィオの手からは、かわいそうなほど力が抜けていた。
 罪悪感は今も消えない。人がどんなに傷ついても動揺しないレイだが、フィオのあの日の小さな手を思うたび、胸の奥には重い錨が沈んだ。
 神を信じないレイにも、それがいかに背徳的な行為であるかはわかっていた。また罪のないフィオに同じ過ちを負わせてしまった罪深さも。
 もしフィオがレイの行為を誰かに訴えたとしても、所詮は子供の戯れと誰も相手をしなかっただろう。あのあとも通訳の手伝いに支障が出なかったことが、その証拠だ。だが、それでさらにフィオの心が傷ついていたかもしれないと思うと、遣り切れない思いは膨らんだ。
 そして何よりレイ自身が、あれが戯れでないことを知っている限り、罪悪感は消えない。
 あのとき、レイは確かにフィオを欲したのだ。
 レイは手に持っていたグラスを空に翳した。片目をすがめて、空の青と重ねて見る。いちばん濃い青が太陽のように堂々と空に浮かんだ。先の潰れた吸殻が、青を穢す。
 首筋にリザの舌が触れて、レイは思わず彼女を睨みつけた。だが彼女に怯んだ様子はない。
「今日はいつにもまして、けだるそう」
 リザはレイの不機嫌に慣れていた。レイは苛立ちをため息にして吐き出した。
「けだるいのはお前の体だよ。いつまでやってるつもり」
「いつまでだって」
 汗に濡れた髪をかきあげたリザは、レイの首に両手をまわして、上半身を反らした。
「私はいつまでだって、レイとこうしていたいもの」
「勝手な女」
 レイは口元だけで笑った。自分に素直なリザは、嫌いではなかった。奔放で盲目で、時折聡い。そのバランスは心地よかった。
 あいた手で、彼女の乳房を掴む。潰れそうで潰れない質感に、首をかしげる。女が嫌いなわけではない。むしろ儚さと逞しさを兼ね備えた女の体は、とても魅力的だ。
 だが、あの時のような衝動はいまだ抱いたことがない。
 レイは自分自身をいぶかしみながら、リザの腰に手を回して体を支え、汗の浮いた胸に鼻先をうずめた。汗のにおいの奥には、本能を刺激するような動物的で甘い塊がある。普段は隠されている彼女のにおいが、繋がることで花開く。レイはリザの汗を舐め取った。
 十年ぶりに再会したフィオは、見違えるほど大人になっていた。昔の面影は美しい顔立ちに残っていたが、レイが彼に特別な衝動をもつことはなかった。抑えようと意識することもない。ただどうしても距離を置こうとする自分がいた。それはやはり罪悪感がそうさせるのだった。
 フィオは、レイの行為を覚えているのだろうか。もし覚えているなら、どのように理解しているのだろうか。心の傷になってはいないか、心配になる。
『会いたかったよ、レイ』
 いや、心の傷になっているものだと思い込んでいた。だからこそレイは混乱し、怖れた。
 再会を喜ぶフィオからは、傷口など微塵も感じられなかったのだ。
 とはいえ、フィオに直接確かめるのも憚られた。彼がもしも忘れてくれているのなら、それに越したことはない。レイだって、フィオの言う「約束」を忘れている。
 リザがレイの髪をつかみ、小刻みに体を震わせはじめた。
「レイ、レイ」
 あまりにもリザの声が大きいので、レイは顔を寄せ、求められるまま彼女の唇を塞いだ。驚くほど熱い。レイは目を閉じず、じっとリザを見つめていた。視線に気付いたリザが、目を開く。彼女の瞳の中にレイが映った。冷たい、死んだ魚のような灰色が真っ直ぐ見おろしてくる。
 なんて目だ。
 心のざわつきが体に波及する。リザがかたく目を瞑った。レイは彼女の舌に吸いついて合図を送る。
 そのとき、ノックとともに部屋の扉がひらいた。
「レイ、来月の予算のことなんだ、……が」
 一瞬で凍りついた男の声は、レイもよく知っているものだった。リザの体の横から顔を出して、手を上げる。
「よお、ダリオ」
「……レイ、ここでそういうことをするのはやめろって、前に言わなかったか」
 角張った顔を歪めて、ダリオはため息をついた。レイは手近にあった上着をリザの肩にかけ、再び顔を覗かせた。
「言われた気がする」
「まったく。仕方のないオーナーだな。下で待ってる」
「五分で行くよ」
「それから、リザ。お前は今日、昼から仕事のはずだが?」
「うん、わかってる」
「さっきイレーネが探してたぞ。すぐに戻れよ」
「はーい」
 リザの明るい返事にもう一度ため息をつき、ダリオは扉を閉めて階下へおりていった。それを肩越しに振り返って見遣り、リザは子供のように笑った。
「ねえ、見た? ダリオのあの困った顔ったらないわ」
「あんまり面白がるな。真面目なんだよ」
 レイはリザの肩にかけた上着のポケットから煙草入れを取り出し、マッチで火をつけた。余計な香料を嫌うレイの煙草は、枯葉にうもれた街路のにおいがする。
 リザは上着の前を掛け合わせ、抱きしめるようにして服を嗅いだ。声が途切れて、リザの瞳がとろけるようにして閉ざされていく。天を仰いだ彼女の首筋を、汗が流れた。
 やがてリザはレイから体を離した。テーブルの上に置いてあった髪留めを引っつかみ、マジシャンのような手つきで黒髪を結い上げる。レイはぼんやりとリザを眺めていたが、耳や肩口に触れてくる太陽を追って、窓の外を見上げた。
 くわえた煙草から煙が立ちのぼり、細く細く空に吸い込まれていく。
「レイって、空が好きなのね。いつも見てる」
「そうかな」
 レイは空を見つめたまま素っ気なく答えた。リザの手が伸びてきて、服を着せられていく。
「昼間は空の見えるところじゃないと、煙草、喫まないでしょう?」
「それはそうだけど」
「だから、それって好きってことよね」
 彼女の手がタイに伸びて、レイはその手を払った。
「リザ。いつも見てるからって、それが好きとは限らないよ」
「そうかな」
 不思議そうに小首をかしげて、リザは給仕の制服を手に取った。レイは頭を起こしてリザの着替えを眺め遣り、おもむろに立ち上がった。
「大嫌いだよ、空なんて」