灰降る空と青の荊棘

02.リストランテ・アッズーロ(2)

 タイを結びながら階下へおりると、ダリオが腕を組んで待っていた。足音に気付いて顔を上げる。
「顔に、やれやれって書いてるよ、ダリオ」
「当たり前だ。呼びに行ったのが俺でよかった」
「言われれば、たしかに」
 レイは指を弾いて、破顔した。ダリオはため息をつくことにも飽いて、持っていた帳簿をひらいた。その帳簿は店の在庫表だったが、ダリオはただ頁を繰るだけで、レイに中身を見せようともしない。
「少しは悪びれてくれるなら、かわいげもあるんだがな」
「中にリザがいるとわかってて開けたんだろう」
「扉の前まで行けば、すぐにわかるさ」
「その帳簿を持ってきて来月の予算なんて。持ってくるなら出納帳だ」
 わかっていながらいざ扉を開ければ、部屋の中の光景に絶句するダリオの人の良さが、レイには心地よかった。
 ダリオ・アウトーリは、アッズーロの店主であり、古くからのレイの友人だった。元はレイの兄と同級だったが、ダリオの穏やかで面倒見のいい性格が、レイの個性とうまくはまり、いつからか兄抜きでつるむようになっていた。顔は型に嵌めたように四角く、目は小魚のように小さい。鼻筋や口元は清潔感があり誠実さに溢れていたが、レイと並び立つとひどく貧相な顔立ちをしていた。
「俺が外にいるのを知ってたな、レイ。だったらどうして……。まあいい。お前とこの話をしても埒があかない。女にだらしないのは、昔からの悪い癖だ」
「誰にだって欠点はあるものだろう」
 背後から歩幅の狭い足音がして、レイは振り返った。身支度をすっかり整えたリザが、階段をおりてくる。彼女はレイの視線に気付くと片目を瞑ってみせ、颯爽と二人の横を通り過ぎていった。すれ違いざまの風が、甘く香る。彼女はそのにおいだけを残して、店へと出ていった。
「彼女はやめておけ」
 店へ繋がる扉が閉まるのを待って、ダリオは帳簿を閉じた。
「意外だな。お前から女の忠告なんて」
「知ってるだろ。リザの父親は……」
「カモッラ、だったか。監獄だけじゃ飽き足らず、地上に這い出てきたとか。だが、ただのごろつき集団だろう」
「いや、そうも言っていられない。あいつら警察に取り入って、治安警備でもしそうな勢いだ」
「へえ」
「彼女は父親を嫌っているし関係ないような顔をしているが、いざとなったら向こうがどう出てくるかはわからんぞ。俺や他の奴らならともかく、お前は家での立場もあるだろう」
「オルランドは何も言ってこない。はっきりと表沙汰にならなければ、何をしたって平気だよ」
「しかし、そうまでしてリザにこだわる必要が?」
「ないよ」
「だったら……」
「あえて言うなら楽だから。あいつは俺の中身になんて興味はないから。おかげで踏み込んだ話は何もしてこない。そこがいい」
 レイは階段の脇にかけられた鏡でタイの歪みを直し、眉を片方あげた。
「ダリオは相変わらず心配性だな。いざとなったら、どうにかするよ。今は彼女との関係を絶つほうがむしろ危険だろう」
「それは、まあ、そうだが」
 うまく言いくるめられたな、とダリオは続けて、頭を傾げて壁にもたせかけた。
「おい、ダリオ。訊きたいのはそんな話じゃないだろ」
 鏡越しにダリオを見る。彼は唸るように頷いた。
「釈放されたマルコが、そのあと私刑に遭った。顎を潰されてひどい状態だ。まともに話すこともできない」
「誰がやったかはわからないんだな」
「だからお前に訊きたいんだ。心当たりはないか。学校で何かなかったか」
 ダリオにとってマルコは遠縁にあたる。彼の悲しみや怒りはいつにも増して深い。だがレイには首を横に振ることしかできなかった。
「マルコは目立つような学生じゃなかった。部屋の外では、なるべく俺と接触しないようにもしていた。大人しい男だ。誰かに馬鹿にされることはあっても、誰かの恨みを買うような男じゃない」
「それは俺だってわかってる」
「原因は学校にはない。こちら側だ」
「そもそもあいつが逮捕された経緯もよくわかってないんだ。どんな証拠でどんな理由でマルコだったのか……」
 警察がマルコに目をつけたと知らせてくれたのは、新聞記者を名乗る男だった。話を聞いた店の料理人がダリオに話し、それがレイに伝わった。
「その新聞記者は」
「見つからない。小さな新聞社まで含めて、随分と回ったんだがな」
 ダリオは頬を親指でなぞり、口を歪めた。レイは鏡に映る友人を眺めて、不意に閃いた。
「そいつは本物の記者だったのか」
「どういう意味だ。もしかして誰かに嵌められたとでも」
「そういう可能性も、なくはないだろう」
 マルコの逮捕理由が不鮮明であること、そもそもマルコは特に重要な役割を担っていなかったこと、事前に情報がこちらへ洩れたこと、ともにレイも拘束されたこと、ほとんど取り調べが行われなかったこと。数え上げてみれば、今回の逮捕劇は不審なことが多かった。真相を確かめようにも、取っ掛かりとなる新聞記者の男はすでに存在すら曖昧だ。
「目的はお前の方にあったのかもしれないぞ、レイ」
 情報が入ってきたのは、レイを寮に留め置くためだったと考えることもできる。マルコは餌だ。
「だが、それならなぜ俺の方が早く釈放され、さらにマルコが襲われる必要がある」
「まあ、そうなんだが……」
 腕を組んで黙り込んだダリオを鏡の中で見切って、レイは鏡の前から離れた。階段の手すりに腕をかけて、寝そべるようにもたれかかる。
「どうする。俺を囮にでもするか」
「馬鹿なことを言うな、レイ。嵌められたんだとしても、一体誰がどんな目的でやったことなのか、まだはっきりとしないんだ。マルコのために復讐はしてやりたいが、今はその時ではない」
「そこまでわかってるなら、気に病むな」
 レイは手すりにもたれかかったまま、目を細めて見せた。ダリオは短く息を吸って、苦笑を漏らした。
「敵わないな」
「お互いさまだよ」
 おもむろにダリオの手から帳簿を抜き取り、レイは紙上に目を落とした。ダリオは眉を下げて微笑み、肩で息をついた。
「最近、少し張り詰めていた気がする。ありがとう」
「別に」
「そうだ、レイ。キーツの家には――」
 店へ繋がる扉が前触れなく開き、ダリオはとっさに口を噤んだ。扉の隙間に、店の給仕服がすべりこんでくる。
 淡い亜麻色の髪をした少女が、ダリオを見つけてまなじりを上げた。
「兄さん、こんなところにいたのね」
「イレーネ、どうしたんだ」
「帳簿が見つからないの。きちんと棚にかけてあったはずなのに」
「それならここにあるよ」
「え」
 イレーネと呼ばれた少女は、声に気付いてレイを振り返った。途端に、幼さの残る頬が真っ赤に染まる。
「レイ兄さん」
 消え入りそうな声で名を呼んだきり、彼女は前掛けを握りしめて俯いた。よく梳かれた亜麻色の髪は後頭部で器用にまとめられ、華奢な首元がいっそう強調された。リザと揃いの制服を着ているはずだが、同じようにはまるで見えない。イレーネはいつまでも線が細く、しぐさや表情もあどけない少女のようだった。
 レイは階段の手すりから離れ、イレーネの正面に立った。彼女が目を逸らそうとして更に俯いたので、レイは彼女の前掛けを握る手にそっと触れた。
「久しぶりだね、イレーネ」
「あ、あの……元気そうで、よかった……、です」
 レイの手の中でイレーネの手がこわばった。彼女はそろりと顔をあげ、様子を窺うようにレイを見上げる。レイはそれを待っていたように、やわらかく微笑んだ。
「イレーネは少し見ないあいだに、またきれいになった」
 後ろからダリオのため息が聞こえた気がしたが、レイは無視をして灰色の瞳でまっすぐ彼女を見つめた。イレーネは強引なレイの眼差しを受けとめきれず、耳まで真っ赤になって再び下を向いた。
「えっと、あの、レイ兄さん。帳簿を……」
 振り絞るようにしてそれだけを言い、イレーネは肩を寄せて小さくなった。レイは帳簿を小脇にはさみ、両手でイレーネの手を取り上げ、そっと引き寄せた。
「すまなかった。勝手に持ち出したりして」
「それは、その、いいんです」
「そんなに他人行儀にしなくていいよ」
「でもレイ兄さんは、このお店のオーナーだし」
「大丈夫。他には誰もいないから」
「俺はいるけどな」
「ダリオは数に入らないよ」
 イレーネのあたたかくて繊細な手を壊さないように握る。
「いつもありがとう、イレーネ。仕入れの君の目がいいおかげで、店の評判もとてもいい。助かっているよ」
「そんな……。私はただ、お店の役に立ちたくて」
「なによりその気持ちが嬉しいんだ」
 レイは首を少し傾けて、前髪の隙間からイレーネを見つめた。イレーネは口を魚のようにぱくぱくとして何か言おうとしたが、言葉にならない。
 扉の向こうから、他の給仕の声がした。イレーネを呼ぶものだった。
「あ、戻らなくちゃ」
 イレーネはさっと手を引いて、レイに背を向けた。
「イレーネ、帳簿」
「ご、ごめんなさい。ありがとう」
 帳簿を受け取ったイレーネは、最後まで顔を伏せて店へ戻っていった。
「おい、レイ」
「なんだ」
 ダリオの低い声に、レイは静かな微笑を湛えて振りかえる。ダリオは四角い顔をさらに四角くして腕組みをしていた。
「お前がどんな女と付き合おうと、もう何も言わないと決めたところだが、……イレーネは別だぞ」
「あの子と寝ようとは思わないよ」
 笑顔の名残すら感じさせない無表情で、レイはさらりと言い放った。煙草を取り出して続ける。
「イレーネはいい子だし、かわいいとは思うけど、子供の頃から知りすぎていて妹のようにしか思えない。いまさら女扱いなんて」
 ダリオと十も年の離れたイレーネは、今年で十八歳になる。幼い頃からダリオによく懐いていた彼女は、レイと遊ぶことも多かった。長じてからは兄離れをして会うことも少なくなったが、半年前に仕入れの人間を増やしたいと言って、ダリオがアッズーロに連れてきた。今日会ったのはそのとき以来になる。
 イレーネは昔から人前に立つのが苦手で引っ込み思案だったが、兄に似て優しく、穏やかな少女だった。落ち着いていて、気配りもうまい。物覚えがよいので仕入れに適役だと、レイは即座に承諾した。
 たいていの女に冷たいレイだったが、イレーネに対しては不思議とやわらかかった。一時期はそれを恋と思ったこともあったが、今となればそれが大きな勘違いだったとわかる。誰だって、足元を無邪気に走り回る仔犬を邪険にしないように、レイもまたイレーネを無責任に愛でているだけだった。
 不意にイレーネとフィオは同じ年なのだと気付き、思考が乱れた。
 マッチを箱にこすりつけるが、まるで火がつかない。レイは煙草を口にくわえたまま、顔をしかめた。舌打ちをして、吐き出すように呟く。
「それに、口うるさい兄貴付きだしな」
「ならいいんだ」
 ダリオは軽く笑ってポケットから自分のマッチを取り出すと、火をつけた。箱ごと、レイに渡す。
「レイ、今夜は『アッズーロ』に出るんだろう」
「そのつもりできた」
「わかった。……ああ、それから」
 階段をのぼりかけたレイは、呼びとめられて振り返る。ダリオは雲ひとつない青空が似合いそうな頬笑みで、レイを見上げていた。
「たまにはキーツの家に帰ったらどうだ。ここからなら、そう遠くも――」
「ダリオ、いまさらだよ」
 レイは口元だけを微笑みの形に歪めて、ダリオに背を向けた。