灰降る空と青の荊棘

02.リストランテ・アッズーロ(3)

 最後の客が帰り、厨房の片付けも終えて、ダリオが大きなテーブルへと戻ってきた。レイは残ると言ってきかないリザをあしらって、強引に店の扉を閉めた。しばらくは声が聞こえていたが、相手にされないとわかるとすぐに帰ってしまった。
 店の中央に据えられた大きな丸テーブルには、椅子が八つ置かれている。そこにダリオがかけて、椅子はすっかり埋まった。レイはそこから離れた長椅子に、仰向けに寝そべるようにしておさまった。
「今日集まってもらったのは、まずマルコのことだ」
 ダリオが切り出すと、その場にいた面々の顔色が一瞬で変わった。
「彼はどうしている。さぞや悔しかろう」
「早々に我らの手で犯人を捕まえなければ、マルコにあわせる顔が立たんぞ」
「だいたい、どうしてマルコさんが逮捕なんて……」
「誰か自称新聞記者を見つけてこいよ。まずはそいつから締め上げてやる」
「みんな、ちょっと待ってくれ」
 口々に言い逸る一同を、ダリオが腰を浮かせて黙らせた。人望も厚く、穏やかな代表の声に従わない者はいない。ダリオは椅子に戻って、低くため息をついた。
「マルコは前にも話したように、ひどい怪我だ。家族の悲しみもとても深い。もちろん、みんなの気持ちもとてもよくわかる。俺だって、できることならマルコのために犯人を見つけてやりたい。だが、今はこらえてくれないか」
「なぜだ、なぜ!」
 漁師をしている、褐色の肌のジュリオが声を荒げた。
「マルコは新参者だったが、気のいい男だった。俺は仲間と認めてたんだ」
「俺だってそうだ。だが……」
「事情なんて知るものか。いい加減、どうするか方針を決めてもらわねえと、俺は勝手に動くぜ」
 椅子を倒して立ち上がり、ジュリオは長椅子にいるレイへと顔を向けた。
「おい、オーナーさん。あんたはどう思ってんだ。マルコはあんたが連れてきたんだぞ。さすがの氷の男も、少しくらいは心が痛むんじゃないのか」
 テーブルに置かれた蝋燭の炎に照らされて、ジュリオの顔が赤く染まる。レイは視線だけを彼に向けて、首をかしげた。
「ここへ来ることを選んだのはマルコ自身だ。そのことに関して、俺が心を痛める必要なんてないと思うが」
「どうせ、あんたがその達者な口で誘い込んだんだろうが」
「それはマルコに対して不敬じゃないのか」
 寝そべったままのレイは肘置きに頭をもたせかけて、煙草の灰を床に落とした。それを見て、料理人見習いとしてアッズーロで働いている童顔のアントンが、短い悲鳴をあげた。
「二人とも、静かにしてくれ」
「俺は別に大声なんて出してないよ、ダリオ」
「煽るな、レイ。とりあえずジュリオも座れ。アントン、掃除もあとでいい」
 三方に声をかけ、ダリオは長いため息をついた。
「たしかに、マルコをこの『アッズーロ』へ連れてきてくれたのはレイだ。だがマルコは言っていた。レイは背中を少し押してくれただけだと。おかげで俺は久しぶりに従兄弟にも会えたし、同じ目標を持つ喜びを味わうことができた。レイを責めるのは筋違いだ」
「店長の言うとおりですよ。それにオーナーのおかげで、こうやってお店を足場にできるんですし……ね」
 取り出した箒をテーブルに立てかけて、アントンが呟いた。ジュリオは荒々しく鼻をならし、大仰に足を組んだ。
「じゃあ、そいつだけがさっさと釈放されたのは、どう理解すればいいんだよ」
「それは……」
 ダリオが言い淀んだ隙をジュリオは逃さなかった。
「だいたい俺は、前からそいつのことが信用ならねえんだよ。紙巻きなんか吸いやがる貴族風情が、なんで俺たちに加担してるんだ」
 ジュリオの言葉に、皆が沈黙した。壁に掛けられた時計の振り子が、店の中に音を振りまく。
 彼の疑問には、レイも当然そのとおりだと他人事のように感心した。
 ジュリオは、腕っ節が強く面倒見が良いのでよく慕われていたが、ダリオやアントンのように、誰とでもうまく付き合える人柄ではない。正直者といえば聞こえはいいが、粗暴で無神経なところがある。レイとは正反対で、水と油のようなものだ。
 レイは両腕を頭の下に組み、テーブルを囲んだ面々をゆるゆると眺めた。神妙な顔をしながらも興味を示しているのが、手に取るようにわかる。こちらへ背を向けて座るアントンは、肩をすくめて俯いていた。
「さあ……」
 煙のように力のない声で、レイは続けた。
「俺も、知りたいよ」
 口の中に広がる煙草の味を舌でなぞる。舌先は煙草の苦味に痺れていた。
 元はレイの兄が始めたものだった。いつしか人数が増え、まとめきれなくなったことで、ダリオの手に託された。組織に名前はなく、店の名前が組織の呼び名にもなっていた。今この場には十人ほどしか揃っていないが、街の至るところに『アッズーロ』の同志が存在する。正確な数はわからないが、おそらく百人は下らない。
 酒を飲みながら理想を語り合うだけだった集団が、いつしか規則や序列をともなう組織となった。中流階級の学生や、商人、職人、法律家、はては下級の司祭などで構成され、それぞれが理想の国家像を持ち、列強に食い物にされる祖国を憂えている。
 レイはその中では異端の存在だ。平民出身で創始者の弟とはいえ、今は貴族の名を名乗り、明日のパンに困ることもない。またキーツ家はこの国を支配しようとする側の人間だった。今は街に馴染んで暮らしているが、英国がもたらした紡績機により、多くの機織職人が仕事を失った。シチリアにおける硫黄の採掘権もすっかり英国が奪い取った。あからさまな戦争はないものの、レイの祖国は確実にこのイタリアを蝕んでいる。
 決して義侠心などではない。責任感でもない。レイがここにいるのは、ここを去る理由もないからだ。店を貸したり、資金を出したり、貴族らの情報を流したり、そういったこともすべて、断る理由がないから続いている。すべては惰性にすぎない。有無を言わさず兄に連れられたときのまま、レイはここにいるのだ。
「別に俺はこの国がどうなろうと……」
「レイ」
 ダリオは声と目でレイを諌めた。おそらくダリオはレイの惰性を見抜いている。そしてその惰性を『アッズーロ』のために利用しているのだ。レイはダリオの眼差しをかわし、煙草を吹かす。ダリオは小さく咳払いをした。
「さっきアントンも言ったように、レイは俺たちの組織に必要な存在だ。場所の確保だけじゃない。貴族やその家族の情報だって、レイに頼りきりだ。たしかにレイは他のみんなとは立場や境遇がそぐわないかもしれない。だが、それでこそ我々の真髄ではないのか。称号や家柄に囚われていては、大局を見失ってしまう。今のこの国のように、な。それぞれにそれぞれの思いがあっていいだろう。それが大きな目的に繋がってさえいれば。見つめる先が同じならば」
 燭台の蝋燭が、空気を求めて鈍く音を立てた。ジュリオは、手荒に頭を掻いて、椅子の背もたれに体を預けた。
「ダリオがそこまで言うなら、今回は黙っておいてやるよ」
「ありがとうジュリオ。レイ、お前ももういいな?」
「俺ははじめからどっちでもいいよ」
「なんだと、てめえ」
「オーナーもジュリオさんも、仲良くしてくださいよ。ていうか、煙草、煙草!」
 レイの煙草から落ちた灰を見て、アントンはうな垂れた。ダリオが大きく手を叩いた。
「よし、話を続けるぞ」

 長椅子の横には、薄く水の張られた金桶が置かれた。レイはアントンの満足げな背中と金桶を見比べ、諦めのため息をついた。
 テーブルの話題に耳を傾ける。ダリオらは国外で発行されている主義雑誌に載せる抗議文を作成していた。草案を持ってきた男が、説明を差し挟みながら原稿を読み上げている。内容は崇高ではあるが、文章は無駄に煌びやかだ。ジュリオは呆れて頬杖をついていたが、他は満更でもない様子で先を急かした。
 レイはゆっくりと目を閉じた。体の奥から眠気がこみ上げてくる。適度な騒がしさが、耳に心地いい。煙草をくわえたまま吹かすこともせず、ただ燃されていくのを唇で感じ取る。じりじりと灰になっていく煙草は、擦り切れていく血潮のようだ。
 なぜここにいるのだろう。レイはぼんやりと理由を模索する。ただの惰性がここまで続くものだろうか。執着を持たないことに執着をして、一所に留まらないはずが、結局は変化のない日々を諾々と過ごしている。
 目を開いて、光が届かない黒い天井を見つめる。そう、惰性ですら惰性。生きることですら、惰性なのだ。
 何ものにも囚われず、どこを目指すこともなく、動かされることがあれば逆らわず、気付けば見知らぬところで息絶えたい。川を流れる浮き草のように、意志などない、情愛も感情も何もないところへ連れられたい。ずっとそう願ってきた。
 心のどこかで、この場所に川の流れを期待しているのかもしれない。ここにいたなら、いつかはどこか遠くへ連れて行ってくれるかもしれないと。
 だが現実は、川の流れなどどこにもない。
 横目に、テーブルを囲んだ彼らを見遣る。ぬるい賛辞と曖昧な意見を繰り返すだけでは、むしろ沼だ。それはレイにとっても期待外れだが、ダリオにとっても苦しい実情だ。
 ダリオは気付きながら、あらためられない自分を責めているだろう。だからレイに対して執拗に集会へ来いと言うのだ。
 レイの視線を感じたのか、ダリオが顔を向けた。何か言いたげに口を開いたが、レイはあからさまに目を逸らして、煙草を金桶に投げ入れた。焼けるような音を残して、火は消えた。
「抗議文の話はこのくらいにしよう。もう一度まとめ直して、持ってきてくれ」
「ああ、わかった」
「マルコのこともあったし、しばらく抗議活動は自粛するつもりだが、情報だけはしっかりと集めておこうと思うんだ。みんなのところに入っている情報はないか。どんなに些細なことでもいい」
「そういえば数日前のお客に、マルケッティがいたよ」
 アントンの呟きに、場がざわめいた。
「マルケッティ、あの恥知らずのマルケッティか」
「あいつはかつて統一運動を後押ししていたというのに、今や外敵の犬、売国奴だ!」
「どんな様子だった、アントン」
「それがすごい味おんちなんだよ。鱸だって説明したのに、次の料理を持っていった時には得意げにおいしい鯖だったとか言って」
「鱸と鯖を間違えるやつがいるかよ」
「それがいたから驚きなんだってば。どうして僕が嘘つくのさ」
「そういえば、息子が王都大学にいたよな、レイ」
 ダリオの問いに、レイは短くああと答えた。
 レイが自発的に会話に加わることはない。時折訊かれる貴族の名前を思い出しては、人物についての印象を挙げるだけだ。
「息子のエンリコも父親と同じだな。いや、意図的に嘘をつくから父親よりもたちが悪い。それにその嘘を忘れる間抜けだ。相手にするだけ時間の無駄だな」
 レイの容赦ない言葉に一同は静まり返ったが、すぐに沈黙を吹き飛ばすほどに沸いた。
 若い男らの笑い声は蝋燭の炎を揺らし、壁に映る影もまた笑った。レイは妙な苛立ちを覚え、頭の下で組んだ手に力を込めた。
「そういえば」
 ひとしきり皆が笑ったところで、郵便配達員をしている男が口を開いた。
「王都大学に、ヴィスコンティの息子が通いはじめただろう」
「え」
 レイは思わず声を洩らした。すぐに息を飲み込むが、もう遅い。
「知っているのか、レイ」
「いや、聞かないな。新入生はまだ把握しきれていないんだ」
 じっとしていられず、レイは厨房へと向かった。余りもののパイをつまみながら戻る。
「しかし噂になるだろう」
 ダリオは背もたれに腕をかけて振り返り、レイを見上げた。
「すまない。最近は警察でのことがあったから、少し行動を控えていて……」
「まあ、それなら仕方ないか」
 何気ないダリオの一言で、皆が追及の機を逸した。レイは食べたくもないパイを頬張って、動揺を押し隠した。店内には、パイのように冷めきった沈黙がおりる。
 アントンが小さく笑って、椅子から立った。
「そんなにお腹すいてたんですか。よかったら何か作りますよ」
「いや……」
「待っててくださいね。皆さんも、ひとまず休憩にしましょうよ」
 そう言ってアントンは厨房へと入っていった。ダリオもそれに続く。
 まさか新しいルームメイトがフィオレンティーノ・デ・ヴィスコンティだとは、たとえパイを喉に詰まらせたとしても言えなかった。