灰降る空と青の荊棘

02.リストランテ・アッズーロ(4)

 翌朝、レイは従業員が出勤するよりはやく、店をあとにした。床には夜明けまで飲んでいたダリオやアントンが寝ていたが、声はかけなかった。おかげでテーブルは片付けきれなかったが、代わりにチップを置いてきた。開店には支障がないことを願う。
 早朝の空気はひどく乾いていて、かえって自分の汗に気付かされた。思えば昨日は風呂に入る暇もなかった。幸い講義は昼からの予定なので、寮へ帰ってから浴びることにする。
 上着の襟を寄せると、嗅ぎ慣れた煙草のにおいの他に、リザのにおいがした。彼女の汗と香水のにおいだ。レイは誰に聞かせるでもなくため息をついて、歩き出した。
 部屋へ戻ると、フィオはいないようだった。レイは自室に上着を投げ入れ、よれたタイを弛めながら応接間の椅子に腰かけた。小さなテーブルの上に煙草入れを置き、飾られた花に気付く。
 それは血が滴るような、真っ赤な薔薇だった。
 細い一輪挿しに飾られた薔薇は、重い頭をもたげるようにしてじっと佇んでいた。じんわり滲むように、冷たい香りが広がってくる。花束になれば噎せるほどの香気でも、一輪だけでは頼りない。レイは開けかけた煙草入れを閉じて、肘かけに頬杖をついて薔薇を見つめた。
 なぜ、フィオのことを知らないなどと、嘘をついたのだろう。
 嘘をつくことは、レイにとって珍しいことではない。だがそれはすべて、自分を守るためのものや、自分の利益になるものばかりだ。フィオがルームメイトであることは、どんなに隠そうとしてもいずれは明らかになる。嘘としてはあまりに不利益で、危険なものだ。わかっていながら知らない振りをした。それでも隠さねばならない何かがあったのだ。
 その「何か」が何であるか。一晩考えてみてもわからなかった。
 フィオに会えば、わかるだろうか。
 自室からごとりと音がして、レイは体を起こした。半分ひらいたままの扉を押し開けて、中を窺う。
「何してるんだ、フィオ」
「あ、レイ」
 床に這いつくばって寝台の下に腕を伸ばしていたフィオは、慌てて視線を逸らした。
「あのね……、インク壷の蓋がこの下に転がって。僕じゃ届かないんだ」
 顔の前にペンを揺らして、フィオは床から起き上がった。レイはフィオの隣に腰をおろし、床と寝台の隙間を覗き込んだ。なめらかな床の影に、不自然な歪みがある。
「上を動かした方がよさそうだな」
「面倒だと思うけど。そうだ。ねえ、とりあえず腕いれてみてよ」
 フィオはレイに向かい合うと、レイの腕を水平の高さまで持ち上げた。
「ほら」
 そこに自分の腕も伸ばして重ねる。
「レイの方が大きいから、きっと届く。僕じゃ爪でこするばかりなんだよ」
 そう言ってフィオの指先がレイの喉元を掠めた。不自然にならないよう、触れられた部分を手で押さえる。そうやってフィオの指の感触を消し去りたかった。レイは急かされ、寝台の下に腕を伸ばした。
「もうちょっと右。そう、そこ。もう少し」
 レイの代わりに下を覗きこんだフィオが、誘導をする。言われたとおりにゆっくりと右をまさぐると、人差し指の腹に金属の冷たさが触れた。その冷たさはフィオの指先の体温によく似ていた。
「はい、取れた」
 冷たさを打ち消すように蓋を強く握って、フィオの手の上に置いた。ありがとうと呟いたフィオもまた、レイがしたように蓋を強く握りしめた。
「さっき、俺が帰ってきたときに、どうして言わなかったんだ」
「だって、勝手に部屋に入ったのが、後ろ暗くて」
「扉を開けていった俺にも非がある。気にするな」
 叱られた子供のように落ち込むフィオを見て、レイは不思議とあたたかな気持ちになった。やわらかな金髪の上に手を乗せて、軽くたたく。フィオは腕の下からレイを見上げて海色の瞳を輝かせた。
「おかえり、レイ」
「ただいま」
「実家、あ、えっと、キーツの方へ帰ってたんだろ。どうだった。楽しかった?」
「店の方に。家には帰ってないよ。すまない、手土産をすっかり忘れていた」
「そんなのいいよ。いらない。それよりも、お店の話とか街の話とか、もっともっと聞かせてよ。昔みたいに、レイの話が聞きたいんだ」
「昔、みたいに……」
 レイはフィオの言葉を繰り返して、返事に窮した。
 たとえば、リザはあくまで体だけの関係で恋人ではないし、まさか『アッズーロ』のことを話すわけにもいかない。しかし何よりレイの心を揺さぶったのは、昔みたいにと言うフィオだった。
 昔。それは十年前の日々のことだ。
 翳ることないあの日の衝動を思い出し、フィオに詰め寄りたい気持ちになる。
 お前はあの日のことを覚えているのか、と。
 レイはフィオの頭に乗せていた手をおろし、困惑にも似た笑みを浮かべた。
「店の話なんて、聞いたって面白いことはないよ」
「そうかなあ」
 笑いを含んだフィオの声は、レイの動揺を見透かしていると言わんばかりだった。フィオは床に投げ捨てられていたレイの上着を取り上げた。
「すまない、そのくらい自分でかけておくよ」
 レイは上着に手を伸ばしたが、フィオが一歩下がってそれをかわした。レイは手を宙に残して、眉をひそめた。
「フィオ……?」
「ずっとね、さっきから気になってた」
 フィオはレイの上着を広げると、袖を通した。レイの服はフィオには大きく、袖も丈も合っていない。寒いときに息を吹きかけるように、フィオは両手を鼻先まで寄せて袖口を嗅いだ。
「レイの上着から、レイとは違う匂いがする」
 フィオは襟を引き寄せて口元を覆い、視線だけは真っ直ぐレイに向けた。
「襟は、もっと濃いね」
 レイは戸惑う自分に戸惑いながら、フィオの手首を掴み取った。
「店に置いていたから、きっと香辛料のせいだ。昨日は――」
「まだ嘘をつくの? わかるよ。これはレイのにおいと、レイの煙草のにおいと、あとは女のにおいだ」
 火傷しそうなほど冷たい青の眼差しが、レイを睨み上げた。何か本能的な違和感が胸を掠めたが、今のレイにその正体を追いかける余裕はなかった。
「なんてね」
 場違いなほど明るい声で笑うと、フィオはさっと服を脱ぎ、レイの腕に返した。
「フィオ」
「恋人がいるなら、その話を聞かせてくれたらいいのに。水臭いなあ」
「別に、恋人じゃ……」
「きっとレイはもてるだろうね! ねえ、どんな人。きれいな人?」
「どうかな」
 レイは上着を椅子にかけ、言葉を濁した。
「周りはそう言うけど。そんな話を聞いて面白いか?」
「当然だよ」
 フィオは静かな声で言った。
「だって僕は、レイのこと知りたい」
 その静けさは、レイの介入すら拒み、触れれば切れる刃のようだった。フィオの青い瞳が、研ぎ澄まされた光を湛えた。
「レイのことなら、なんだって知っていたいんだ」