灰降る空と青の荊棘

03.亡骸の夜に(1)

 強い思いとは何であるかを考える。それはきっと行き過ぎた純粋だ。それもまたレイには遠い感覚だった。
 レイは新入生への説明会での担当を終え、紅茶で一息をついた。学内で扱われている紅茶は清からの輸入品で香りが深い。小ぢんまりとした控室は、芳しく澄んだ香りでいっぱいになった。
 講堂では、教員や牧師らの説明が続いている。この説明会は、新入生が大学での勉強や寮での生活に慣れ始めた頃に、行われているものだ。主席として大学代表のレイは、一部の仕事を負担していた。内容は規則にも載っているものばかりだが、それを生徒らの心に残るように噛み砕いて話すことがレイに課された役割だった。原稿はあるものの、ただ読み上げるだけでは棒読みになるので、レイはほとんど何も見ずにやってのけてしまう。最初は興味を持とうとしない生徒らも、次第に壇上のレイに釘付けになる。話しながらその変遷を眺めるのが、思いのほか面白かった。
 人など、単純で流されやすい。強固な意志など、本当はありえない。壇上に立つといつもそう感じた。
 窓からはレンガ造りの建物が見える。いくつもある校舎の中で最も古く、元は修道院だったものを改修して今にいたる。正門正面に建ち、壁には大きな仕掛け時計が嵌めこまれていた。その時計が、低く鐘を打ち鳴らした。
 レイは紅茶を飲み干し、滅多に着ない制服の上着を手に持った。淡い灰色を基調とした制服は、あまりにも自分と似通っていて、レイは好きではなかった。
 扉が叩かれ、事務の男が顔を覗かせた。
「オルランド君、まだいてくれたんだね」
「はい。今から授業へ向かうところですが」
 講堂から洩れる声が、いっそう大きく聞こえた。男は視線をさまよわせ、切り出しにくそうに口を開いた。
「君の知り合いだという人が、正門まで来ているらしいんだが」
「誰です」
「店の者だとか。ほら、君のリストランテの……」
「アッズーロですか」
 レイの言葉に、男はそうだそれだと言う。
 嫌な予感がした。『アッズーロ』の面々には、学校へは来るなと言っているが、もしもマルコを襲った犯人が見つかったとしたら、先日の会合の雰囲気では誰かが知らせにこないとも限らない。また、店はちょうど開店する時間帯だ。そちらで問題が起こった可能性も考えられた。レイに知らせにくる問題など、レイですら想像できない。
「男でしたか、それとも」
「女だと言ってたね。給仕か女中じゃないかな」
 『アッズーロ』に女はいない。店だ。
「そうですか。わざわざありがとうございます」
 レイは笑顔を浮かべ、頭を下げた。扉の閉まる音がする。足音が遠ざかっていくのを確かめ、レイは全速力で講堂の裏口へ向かった。石灰材で補強された床からは、見えない湯気となって冷気が立ちのぼっていた。先ほどの紅茶の熱が内側から反撥して、首や背中が汗ばんだ。
 黒ずんだ木戸を開けると、風が壁のようになって行く手を阻んだ。レイは一瞬息がとまり、思わず立ち止まる。
 後ろから駆け寄ってくる足音があった。
「レイ!」
 フィオの声だ。レイは振り返った。
「まだ式の最中だろう」
「面倒だから抜けてきた。気分が悪いって言って。休憩室に案内されたときに、レイが出ていくのが見えたから。ずいぶん慌ててたけど、大丈夫?」
「ああ。いや、大丈夫かどうかは、まだわからないけど」
 講堂の裏口から正門は見えない。それでもレイは外を覗きこんだ。フィオもレイを真似て扉の外へ顔を突き出す。
「誰かいるの?」
「俺に来客らしい。行ってくるよ。フィオは式に戻った方がいい」
「来客? 家族とか」
「さあ」
「そんな、さあって。誰かわかんないの?」
「名前を聞いていない」
 店の名前を出されたせいで、名前を尋ねることすら失念していた。
「それって、おかしくないかな」
「かもしれないな」
 レイは掠れた声で呟いてから、あっと息を飲んだ。レイは自分の落ち度に対して答えたつもりだったが、フィオの問いはそうではないと気付いた。フィオは取次ぎが名前を言わなかったことに不信感を抱いたのだ。
「ねえ、レイ。僕も行ってもいいかな」
「なぜ」
「何か危険なことがあるかもしれない。名前を名乗らないなんておかしいよ。心配だから、僕も行く」
 フィオはレイの両腕を掴み、海原を凝縮したような青い瞳で見上げてきた。
「だが……」
 レイは大海に呑み込まれそうになって、顔を逸らした。場合によっては、フィオの存在はフィオにもレイにも危険なものとなる。
「お願いだよ、レイ」
 逸らした眼差しの先へ、フィオの顔がすべりこんでくる。レイは深いため息を吐いた。
「わかった。ただし、ひとつだけ条件がある」
「なに?」
「絶対にヴィスコンティの名は名乗るな。いいな」
「うん、わかった」
 フィオは少年らしく微笑むと、レイの腕をひいた。
 正門へ近づくにつれて、守衛と話す女の姿が見えた。着ているのは店の給仕の制服だ。さらに駆け寄ると、輪郭がはっきりとした。
「イレーネ!」
 呼びかけられて、イレーネが振り返る。彼女は目が真っ赤になるほど泣き腫らしていた。
「レイ兄さん……!」
 イレーネはレイに歩み寄り、もたれかかるようにして泣いた。レイは守衛に対して頷き、イレーネの肩を抱いた。
「どうした、イレーネ。店で何かあったのか」
 問いかけにイレーネはただ首を振るだけだった。レイは嘆息を洩らし、腰をかがめてイレーネの顔を覗きこんだ。
「話してくれないと、わからないよ。イレーネは俺に何か伝えにきてくれたんだろう」
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
 彼女の細い肩はかわいそうなほど震えていた。広くあいた襟元から、華奢な鎖骨が覗いて見えた。ふと、彼女の制服はこんなにも寸法があっていなかったかと首をかしげる。蜂蜜のように芳醇で甘い香りが、かすかに鼻をかすめた。これはおそらくリザの制服だ。なぜイレーネがリザの制服を着ているのか、考えようとした矢先にイレーネが口を開いた。
「キーツのおじさまが、亡くなられて……」
「え」
 レイは、イレーネの瞳から雨だれのように落ちる涙を見つめて、声を洩らした。
 なぜ死んだのか。なぜイレーネが知らせに来たのか。様々な疑問がレイの脳裏を駆け巡った。やがてレイの感情は苛立ちに塗りかわる。
「どうして俺にそんな話を? 俺はもう、キーツとは縁を切ったんだ。誰が死のうと関係ない。イレーネだって知ってるだろう」
「わかってる。わかってるの。でも、どうしてもレイ兄さんにお願いしたくて……。それで」
「お願い?」
 妙にお願いされてばかりだと、レイはフィオを見た。彼は少し離れた場所から射るような眼差しでイレーネを見つめていた。
 イレーネに袖をひかれて、レイは再び彼女を見おろした。
「レイ兄さん、どうか警察へ行って、おじさまのご遺体を返してもらえるように、お願いしてほしいの」
「なんだって」
 レイには自分の顔色の変わっていくさまが、鏡を見ているようにわかった。隠そうとする心までが表情を彩る。レイは手に負えないもどかしさを舌打ちにして吐き出した。
 イレーネは、レイの変化に気付かず続けた。
「おじさまは、酒場で警官と喧嘩に。それで打ちどころが悪くて……。すぐに兄さんやクリス兄さんが警察へ行ったんだけど、まったく聞き入れてもらえないの。おじさまが警官を傷つけた罪人だからって」
 声を詰まらせながらもそれだけを一気に話すと、イレーネは両手で顔を覆って肩をすくませた。
「お願い、レイ兄さん。おじさまをお家に帰してあげて……」
 レイはイレーネを冷ややかに見つめる。血の通わないぜんまい仕掛けの眼差しは、内側で暴れまわる苛立ちの裏返しだ。ため息ですら昂りを刺激してしまいそうで、レイは押し黙った。
 キーツ家はレイにとって生家である。血の繋がった肉親でもある。だが貴族の元へ養子にいったレイと、いつまでもこの国に対する後ろ暗さがあるキーツ家とには、深い溝があった。
 レイには年の離れた兄や姉が五人おり、その誰もが養子へいくレイを羨んだ。表立って口にする者はいなかったが、その羨望と妬みを向けられるレイには、はっきりとした悪意が感じられた。
 しかし隔絶はそれだけではない。レイは父であるブラッド・キーツから、愛されていない子どもだった。母が亡くなってしまった今ではもう確かめるすべはないが、おそらくレイはブラッドの子ではない。父は薄々とそれを感じていたようだし、家族の誰とも似ていないレイの容姿は、その疑いを確信へと導いた。
 オルランド家へ養子に入る手続きを済ませ、レイはキーツと決別した。彼らに対して何かを明言したわけではない。むしろ言葉にすれば曖昧にされてしまうと思い、心の中にとどめた。それでもレイの決意は年月と態度をもって、キーツ家へ伝わっているはずだと信じていた。
「レイ兄さん……」
 きっとそれは間違っていない。ただ今回は、利用されようとしているのだ。この、貴族の名を。
「イレーネ、ここへ来て俺に頼むよう君に言ったのは、誰だい」
「それは、兄さんが……」
「ダリオだけじゃないだろう。言い出したのはクリスだ。違うか」
 レイの静かな詰問に、イレーネは沈黙で肯定した。クリスはキーツ家の四男で、レイのすぐ上の兄だ。ダリオとは級友でもある。頭の回転は悪くないが、ずる賢さを隠そうとせず、平然と自分の利益のために人を利用する。レイの最初の仮面は、クリスに抗するためだったと言っても過言ではない。それほどクリスは末弟のレイを物のように扱う。
 レイは脳裏にクリスの顔を思い浮かべ、小さく舌打ちをした。彼はダリオではなく、わざわざイレーネを寄こしたのだ。たかが少女の涙で操れると思われていることが腹立たしい。
「すまない、イレーネ。たとえ君のお願いでも、それは無理だ」
「そんな……」
「大変だろうが、そちらで協力して解決してくれ。ダリオにまで迷惑をかけて申し訳ないと思っているよ。また今度君たち兄妹にはお詫びを――」
 そこまでレイが口にしたとき、正門に一台の馬車がさしかかって、レイはイレーネの腕を引いた。荒々しい運転でレイの横をすり抜けたかと思うと、馬車は道の真ん中で不自然に停まった。中から中年の男が降り立つ。
「やあ、オルランド君」
「先生」
 先生と呼ばれた男はレイに向かって軽く手を上げると、つかつかと歩み寄ってきて薄笑いを浮かべた。
「正門で堂々と女性を泣かせるとは、君もひどい男だ」
「よしてください」
「お嬢さん、オルランド君から何かされたのかい」
「あ、あの……」
「ネスタ先生」
「そんなに怖い顔をしなくてもいいだろう。なあ、何があったんだい。おや、そっちの君は見かけない顔だな、新入生かな」
 黒く硬そうな口髭を撫で、ネスタはフィオを見遣った。
「はい。先生、レイは彼女に何もしていませんよ。ただちょっと事情があるだけで」
「事情ねえ。それはいっそう興味深い。主席優等生の女性との事情とは、一体どんなものだろうか」
 あまりに執拗に詰め寄ってくるネスタに、レイは素直に折れた。
「実父が亡くなり、その遺体が警察から返ってこないんだそうです」
「ほお、それは大変だ。是非行ってあげなさい」
「簡単に言わないでください。僕にはこれから午後の授業が……」
「そんなものは私からうまく取り次いでおく。さあ、行きたまえ。君なら警察にも顔がきくだろう」
 ネスタはレイに耳打ちすると、粘ついた笑みを浮かべた。レイは抑揚のない灰色の瞳で見返して、ネスタを遠ざけるようにイレーネに向き直った。しかしそこには期待に満ちた愚鈍な少女がいるだけで、レイの行き場はやはりない。
 制服の裾が後ろから引かれた。
「ねえ、レイ。行ってあげようよ」
「フィオ、お前まで……」
「彼女がかわいそうだよ。それに、行かずに後悔するより、行って後悔する方がずっといいと思うんだ」
 フィオはレイの後ろから顔を出して、イレーネに微笑みかけた。イレーネは涙を拭って、恥ずかしげに俯いた。
「オルランド君、後輩もこう言っているじゃないか。馬車は私が乗ってきたものがまだそこにある。大丈夫、四人乗りだから狭くはないよ」
 レイは短く息を吸い、諦めの眼差しを伏せた。イレーネの手をひいて馬車へ歩き出す。少し前を歩くフィオの背中を見て思った。
 後悔、するだろうかと。