灰降る空と青の荊棘

03.亡骸の夜に(2)

 数週間前にも見た扉を、今度は外から開く。入り口近くに立っていた男が、レイの顔を見て目をぎょっとさせた。レイは男を一瞥して、さらに奥へ進んだ。ロビーや事務所にいた警察官の視線が、すべてレイに注がれる。レイはカウンターの中に座る事務職員の前に悠然と立った。
「ブラッド・キーツの遺体を引き取りに来た」
「レ……、レイ・キーツ……!」
 事務職の男は声を裏返して名を叫ぶと、椅子から立って後ずさった。レイはにこやかで冷たい笑みを浮かべる。
「すみませんが、どなたか案内してもらえませんか」
「あ、いや、それは……」
「何か書類があるなら出してください。すぐに記入しますよ」
「しかし、私の一存でそんなことは」
「いいから、案内しろ」
 レイはカウンターに身を乗り出して、男に微笑みかけた。
「書類なんてないんだろう。手続きなんて形式にすらならない。その時の気分や面子だけで決めているに過ぎない。だったら同じように理不尽に踏み込まれたとしても文句は言えないはずだ。違うか」
「ブラッド・キーツは、警官に対して不敬と暴力をはたらいたんだ」
 入り口でレイを見ていた男が、レイの肩を掴んで続けた。
「それをそのままにして家へ帰しては、示しがつかない。ますます治安が悪化するばかりだ。お前らのような反社会分子がそもそもの原因だと、思い知るがいい!」
「だから?」
 レイは肩に置かれた男の手を払いのけ、片目を細めた。
「だから人を殺しても許されると? 遺体の引き取りに応じなくとも正義だと言い張るのか」
「これは秩序だ」
「違う。それはあんたらの都合だ」
 誰かが署長を呼べと騒ぎ出した。レイは辺りを見渡してルッソを探したが、あいにく彼の丸い体は見当たらなかった。
 扉近くで立ち止まったままのフィオとイレーネに目配せをして、レイはカウンターを回り込んださらに奥へと歩き出した。
 廊下の向こうから、走ってくる巨体があった。
「レイ・キーツ・オルランド!」
 野太く腹に響くような声に、レイは男のことを思い出した。
「あんたは、あのときの看守か」
 男はレイの目の前で立ち止まり、黄ばんだ歯を見せて笑った。
「乗り込んでくるとは、思っていたよりいい度胸だな」
「どいてくれ」
 レイは男の胸を押しのけて先へ進もうとした。だが男に腕を掴まれる。
「そんなに睨むなよ。俺は貴様に協力してやろうと言ってるんだ」
「何様だ、あんた」
 男の目元に浮かぶ余裕は、この階にいる他の誰にもないものだった。レイは腕を掴まれたまま、あらためて男を観察した。看守の制服を着ていなければ、ごろつきと変わりがない相貌だ。
 レイの脳裏に、カモッラの名がよぎる。それを悟ったのか、男がにやりと笑った。
「言っただろう。親父さんには借りがあると」
 レイたちを引きとめる声は、もうなかった。

 警察署の裏手にある安置所へレイを案内し、男は仕事があるからと言って早々にその場を立ち去った。
 裏口からは特に道らしい道もなく、目の前の空き地にはぽつりとあばら家が建っていた。それが遺体の安置所だった。建物に囲われ日陰になっていたが、近づくにつれて生温い微風のなかに死臭が漂ってくる。すでにこの地に染みついたものなのか、それとも今まさに臭ってくるものなのか、レイにはわからない。ただ、これが父のにおいかと思うと、さらに吐き気がした。
 扉を開けると、さらに臭いは強くなった。魚が腐ったような、花が濡れたまま朽ちたような、不快なほど生々しい臭いだ。タイル張りの床には磨くだけでは落としきれない汚れがこびりつき、天井には得体の知れない黒ずみが木目に沿って広がっていた。壁際には急ごしらえの寝台が雑然と並び、今はひとつだけが使われていた。父の亡骸が、そこにあった。
「おじさま!」
 イレーネが悲鳴のような声を上げて、父の遺体に駆け寄った。膝をつき、遺体を揺さぶる。たるんだ父の頬がその度にゼリーのように震えた。
「ひどい、ひどいわ……、こんなこと」
 嘆きは、レイにも理解できた。父の遺体は衣服を剥ぎ取られ、申し訳程度に薄布が一枚かけられているだけだった。そのため、父の負った傷があらわになっていた。体中を殴られ、蹴りつけられ、およそ人の肌の色ではなくなっている。裂けた部分からは血液や体液が漏れ出し、寝台に染みを作っていた。
 むごい姿だ。レイは素直にそう思った。だが心がそれ以上を志向しない。感傷は生まれすらしない。抑える努力も必要ない。
 元よりレイにとって、父とは肉の塊でしかなかったのだ。
 遺体の喉が嚥下するときのように動き、血のような液体を吐き出した。驚いたイレーネは腰を抜かし、その場に座り込んだ。レイは彼女の体を後ろから抱きとめて立たせた。
「あまり揺するからだよ。これだけの暴行を受けたなら、仕方ない」
「レイ兄さんは悔しくないの? おじさまがこんな目に遭って……」
 涙を溜めながらレイを見上げるイレーネの瞳には、輝きを放つ確信がある。レイは必ず悔しいと言ってくれるはずだという無垢な確信が。
 レイはわずかに眉を寄せて、父の遺体に目をやった。
「悔しさに似たものは、あるよ。でも……」
 ――でもそれは、これが父だからではない。
 レイは続く言葉を噛み潰した。父の弛緩した口元を見つめて、奥歯を噛みしめる。死んでもなお愚にまみれた父の顔に、苛立ちを抑えられなかった。
 腕に何かが触れた。フィオだった。
「連れて帰るなら、今日は実家に泊まるの?」
「いや、どうかな。できれば寮に帰りたいが……」
 レイの曖昧な言葉に、フィオが苦笑したようだった。自分の往生際の悪さに、あらためて気付く。
「おそらく、帰れない」
「だよね。わかった。じゃあ僕は寮に帰って、届けを出してくるよ」
「すまない、フィオ」
「気にしないで」
 フィオは場違いな笑顔を浮かべると、踵を返して小屋を出ていった。レイを蝕んでいた苛立ちは、すっかり立ち消えていた。
「イレーネは、ダリオたちを呼んできてくれ。人数は多い方がいいと伝えて。俺はここで待っているから」
「レイ兄さん……」
「どうせみんな、近くにいるんだろう。俺は親父を乗せる板でも探しておくよ」
 落ち着きを取り戻した微笑みは、イレーネには力ないものに映るのだろう。ひどく心配そうな眼差しを残し、彼女は黙って小屋をあとにした。
 扉が閉まる音を背中で聞きながら、レイは煙草に火をつけた。目を閉じれば、瞼の裏には吐き気がするほど青く澄んだ空があった。

 すぐに駆けつけたダリオたちは、ブラッド・キーツの遺体を目にして絶句した。その中にはレイの兄である、クリスの姿もあった。クリスはレイを見つけるとそばへ寄り、震えながら抱きしめた。
「ありがとう、レイ。お前のおかげだ」
「いや、別に……」
 父親似のクリスは明るい栗色の髪と目をしている。精悍とは言えないが、人懐っこい顔立ちをしている。レイは身をよじってクリスの腕から逃れた。クリスの腕は朗らかに弟を労うように見せながら、レイの喉元に手をかけていた。なぜお前に頼らねばならない、そう言われた気がした。
「表に荷車を運ばせてある。そこまで落とさないようにな」
 ダリオのかけ声で、父の遺体が板へ移される。レイはそれを少し離れて眺めていた。集まった数人が手分けをしながら板を持ち上げ、手のあいた者が扉を押さえて、遺体は運び出されていった。
 レイは父が横たわっていた寝台を見おろした。吐瀉物のような臭いを放つ寝台には、父の体の輪郭が写し取られていた。レイにはこの寝台にこそ父の魂が在るような気がした。
「行こう、レイ」
 肩に手を置いて、ダリオが言った。レイは吸っていた煙草を寝台でもみ消して、小屋から出た。
 警察署の表へまわると、荷車を囲んで人だかりができていた。その中心でクリスが悲劇を語っている。大仰な身振り手振りをしてみせて、警官の非道を訴えかけている。レイは呆れるのを通り越して、可笑しくなった。群集に混じって、クリスの大芝居を見つめる。レイは時折、母に感謝した。この男と他人である可能性を残してくれたことに、彼女の愛を感じた。
「家に帰ろう、父さん」
 クリスはそうやって幕を下ろすと、進み出した荷車の横に寄り添った。レイのことなど見えていないような素振りで、クリスは家へと向かって歩き出した。
 やがて野次馬は散り散りになり、警察の前にはレイとダリオが残された。
「レイ、怒ってるのか」
「わからない。ただ、あんな男にも帰る家はあるんだなと思った」
「……レイ」
「俺は死んだらどこに帰るんだろうな」
「それは当然、お前の家族のもとに帰って、神に召されていくんだよ」
「神に、ね」
 はたしてそれがいいのか、レイにはわからない。おそらく疑問に思う時点で、そのことを本来的には望んでいないのだと悟り、レイは笑った。
「ほら、お前も来い」
 ダリオに腕をひかれ、レイはつんのめった。
「来いって、どこに」
「キーツの家だよ」
「まさか」
 クリスに強要されるならまだしも、なぜ自ら赴かねばならないのか。しかしダリオはレイの腕を掴んで離さない。
「親父さんのことをきちんと見てやれよ」
 ダリオの強引さにレイは思わず折れたが、すぐに後悔へと変わった。
 家へ帰るのは、オルランドの養子になってから初めてのことだった。五年ぶりに訪れた実家は、時がとまっていたかのように変わったところがなかった。白い壁に残された引っ掻き傷は、レイとクリスが喧嘩をした跡だ。
 玄関は集まった人でごった返していた。中にはイレーネの姿もあった。どうやらレイの姉であるソフィを手伝っているようで、忙しく働いていた。レイは誰にも見つからないように二階へ逃れ、廊下の窪みにある出窓で時間を潰した。
 窓を開けると、蝶番が子山羊のように鳴いた。体を乗り出して、片脚を外に投げ出して座る。背中に感じる窓の木枠は、幼い頃に感じたものよりずっと脆かった。
 次第に空から明るみが失せ、東の端から紺碧の波が押し寄せた。西の空は今日を惜しむような激しさで燃えている。レイは黄金色の太陽を目に焼き付けて、目を閉じた。闇の中に太陽の白い影が明滅する。太陽のお裾分け。母はそう言って、いつもこの窓から夕日を眺めていた。
 レイは目を開いて、舌打ちをした。今さら母を思い出して、何の慰めになるだろうか。
「慰め……?」
 思わずレイは呟いた。自分はいつ傷ついたのか。どこに傷などあるのか。傷つく場所など、とっくの昔に捨てたというのに。
 階段を降りると、だいぶ人は減っていた。それでもキーツ家以外の人間もまだ多数いる。イレーネがレイに気付いて、小さな笑みを見せた。レイは頷いて返す。
 すぐ脇にある納戸の扉が開いて、姉のソフィが小声でレイを呼んだ。
「ちょっと」
 酒焼けした低い声でそう言うと、腕が伸びてきて、部屋に引きずり込まれた。ソフィは素早く扉を閉めると、レイを睨み上げた。
「あんた、何か知らないの」
「何かって」
「お父さんがあんな目に遭わされた、その原因よ。警官がやったらしいけど、具体的にはそいつの名前とか」
「俺は別に探偵じゃないんだけど」
「だけど、あんたが指示すれば動く人間がいるでしょうに」
「だったらダリオにでも頼めよ」
「相変わらず、冷たい子ね!」
 抑えた声で叫ぶと、ソフィはレイの頬を平手で打った。
「いくら今はうちの人間じゃなくても、あんただってお父さんに育ててもらったんでしょ。実の家族でしょ」
「実の家族? 思ってもないことを」
「な、なによ」
「そもそも姉さんだろ。あの噂を広めたのは」
 レイが薄い笑みを浮かべると、ソフィは押し黙った。
「事実なんてどうでもいいし、俺は噂を否定しないよ。実の親子、実の兄弟じゃないなら、その方が俺にとっても楽だし」
「だからって、お父さんのことをこのままにしていいわけないでしょう」
「それは育ててもらった恩義ってやつ?」
 ソフィは肯定も否定もしない。彼女はレイの次の言葉を待っているようであり、また怖れもしていた。レイはソフィの腕を掴んで納戸を出た。父の遺体が置かれている部屋へ向かう。
「痛い、痛いわ、レイ」
 あまりにソフィが騒ぐので、部屋に入ったところでレイは彼女の手を離した。部屋の中には四人の兄とダリオ、そして少し離れたところにイレーネがいた。
「どうしたんだ、レイ」
 ダリオが気遣って声をかけてきたが、レイは無視をして父の遺体のそばに立った。寝室から運ばれてきた寝台の上には、顔を拭われ処置を施された父が横たわっていた。
 レイはその父を見おろしながらポケットに手を突っ込んだ。そこからありったけの金を取り出し、枕元に投げ置く。
「レイ! なんてことを!」
 ソフィが金切り声を上げた。駆け寄ってきて金を鷲掴み、レイの胸に押しつける。
「人を馬鹿にするのも大概になさい!」
「だったら姉さんは嘘をつくのも大概にしな。金が欲しいんだろ。足りなきゃ明日持ってこさせるよ。とりあえずそれは子供の頃の礼だ」
 レイは体の中に一陣の風が吹くのを感じた。なんと清々しい心地だろう。
 これでもう何の義理もなくなるのだ。
 魂に張りついていた重い鎧が外れていく。束縛から解き放たれた魂が、風の手触りに目を細める。息を吸い込んで自由を叫んだ。
 レイはソフィの手を払いのけ、部屋をあとにした。後ろから呼ぶ声があったが、誰一人追いかけてはこなかった。部屋の外にいた何人かの顔見知りも、レイを見ながら目を合わせようとはしない。レイは胸のうちで喝采を送った。父よ! 死んでくれてありがとう!
 家から出ると、外はすでに日が落ちきっていた。薄闇に包まれた街並みには、軒先の灯りが滲んでいた。
 レイは家の前に立つ人影を見つけて、立ち止まった。
「フィオ……」
 闇に溶け込むことのない、繊細な光を放つ金髪が揺れる。フィオは軽く手を上げてレイを待っていた。
 深海にも似た夕闇で、フィオの笑顔は身を斬るほどの美しさを放ち、よりいっそう冴えていた。