1章 青天の流星(3)

「つまり貴様はこう言いたいのか。わたしは百年ものあいだ、ここで……ただただ守られ、なにも知らずに眠っていたと」
 けれどメテオラはなにもかも見透かしたような目をして、わたしをまっすぐ見つめていた。
「あいされてたんだよ」
「わかったような口をきくな! 悪魔のおまえなんかに、なにがわかる……! わたしは、わたしは帝国のために、フィオーレさまのためにすべてを捧げると誓ったんだ!」
 声になりきらない感情が目の奥から込み上げてきて、はらはらと落ちていく。わたしはとっさに、包帯になってしまったフィオーレのハンカチーフで両目を押さえた。
『ルーチェ姉さまがいてくれるなら、わたしに怖いことはなにもありません』
 聖女として選ばれた夜の、フィオーレの言葉を思い出し、わたしは嗚咽をこらえられなくなった。
 ふわりと何かに包まれる。
 そこは甘い、砂糖菓子のような香りがした。
「守れなかったとは、限らないよ」
 おさないころ母がしてくれたように、わたしはメテオラの胸に抱かれていた。振り払えと叫ぶ心はあったけれど、そこはあまりに心地よく、わたしは彼に黙れと言うしかできない。言えば言うほど、あとから涙があふれてくる。
「黙れ、だまれだまれ。だいたい貴様はなんなんだ。ここには悪魔避けの結界が張られていたんじゃないのか。海を臨む絶壁じゃないのか。それならどうやってここへ来られたんだ。理屈があわないだろう」
「言ったでしょ、おれはハイブリッドだって」
「ハイブリッドならなんでもアリなのかっ? そもそも飛べもしないバンパイアなんて聞いたこともない」
「おれがいつ飛べないなんて言った?」
「だって、さっき……!」
 顔をあげると、思いのほかメテオラの顔が近くにあり、わたしは反射的に彼を突き飛ばした。メテオラは油断していたのか、あっけなく地面に転がった。
「貴様、飛ばなかったではないか。さっき、わたしを……助けたときに。なんなんだ、貴様は」
 わたしは先とおなじ問いを繰り返した。
 メテオラは脇腹をさすりながら、へらへらと笑みを浮かべる。
「そう、ハイブリッドだからね、翼なしでは飛べないんだよ。服を脱いで、翼を出して、ってしてたら、きみはもう海の藻屑になってるだろうから」
 脇腹の出血は収まったようだが、傷口自体はまだ塞がりきっていないようだ。
「それなら、その傷が治らないのもそのせいなのか」
「おれからしたら、これくらいが節度ある再生だと思うけどね」
 牙を見せて笑いながら、メテオラは時折顔を歪める。なぜ笑うのだろう。なぜこの男は、わたしを責めない。
 手に握ったままのハンカチーフに長いキスを落とし、わたしはメテオラのそばに片膝をついた。
 おもむろにメテオラのベルトの金具を外す。
「えっ、ええっ」
「いまさらだが、おとなしくしていろ」
「わりと押しの強いほうなんだ……」
「勘違いするな! わたしのベルトでは貴様の胴回りには足らんだろうが!」
 べっとりと血で汚れたシャツを裂き、薔薇の刺繍のハンカチーフを押し当てる。
「これには聖女さまの秘術が込められている。力はずいぶん弱まっているが、貴様の再生の手助けには充分すぎる代物だ。感謝しろ」
 ベルトを抜き取り、ハンカチーフを押さえるためにメテオラの素肌に巻きなおす。
 その上から、わたしは手を押し当てた。
「わるかった」
 メテオラが短く息をのむ気配があった。わたしは心を整え、顔をあげた。
「なにがどうなっているのかわからなかったとはいえ、問答無用で傷つけてしまった」
「いいよ、どうせ治るんだから」
 メテオラはスカイブルーの瞳をやわらかく細める。よく見ると、彼の瞳にはほんとうに星のきらめきがある。
 わたしはゆっくりと首を横に振った。
「そういう考えもあるだろう。あの瞬間のわたしは、おまえを傷つけて時間を稼ぐのが最善と思っていた。だがいまが戦時でないなら、そしておまえに、わたしを傷つける意思がないなら、それは結果として正しい行いではなかった」
「くそまじめ」
「結構だ」
 わたしは持っていた小刀を取り出し、メテオラの前に置いた。
「持っているのはこれだけだが、疑わしいと思うなら調べてくれてかまわない」
 メテオラは小さく微笑う。
「信じるよ」
「ありがとう」
 わたしは居住まいを正して、彼に向かって頭を下げた。
「あつかましいのは重々承知のうえで、頼みがある。……世界がこの百年でどうなったのか、知っているかぎりでいい、わたしに教えてくれないか」
「いいけど、きみが静かに第二の人生を過ごすだけなら、たぶん百年前とそう変わらない暮らしができるはずだよ。そういう特区があるからね」
「やがてその特区へ行くことがあるかもしれないが、それは今ではない。わたしは、知らなければならない」
「きみがここにいた理由を?」
「そうだ。そして世界がどうなったのか、この目で確かめなければならない。アルマさま、フィオーレさま、レオナルドさま、テオリア。みなの足跡をたどろうと思う」
 ほんとうは会いたい。会って、申し訳なかったと謝りたい。だが、百年も経っているのだ、それは難しい。せめて彼らの足跡を追い、その後どのように生きたのかを見届けねば、メテオラのいう第二の人生が訪れることはない。
 それに、フィオーレ歴というのも気にかかる。偶然の一致だろうか。その可能性はゼロではないだろう。いや、しかし……。
「そのあとはどうするの」
「それは、その時になってから考える。わたしは帝国と聖女さまにすべてを捧げた身だ。この命は、役割を終えるまではまだわたしのものではない。そのあとのことなど、到底考えられない」
「そっか……」
 メテオラは口もとに手を添えてしばらく考えたあと、それまでのにこやかな笑みとは異なる、悪魔的で、妙に妖艶な色香を微笑みにして頬に浮かべた。
「いいよ、おれにわかることは話してあげるし、なんなら足跡をたどる旅に付き合ってもいい」
「ほんとうか、それは助かる」
「ただし、おれと契約してくれる?」
「契約、だと」
 そう、と囁き、メテオラはわたしのほうへ身を乗り出した。洞穴の奥の暗がりで見たときには気づかなかったが、メテオラの片方の頬に刻まれた刺青は、陶磁器に入ったヒビのようでもあり、色も黒というよりは褪せた血の塊りのように赤黒かった。
「それはどういうものだ」
「きみの願いが果たされたなら、きみをおれにちょうだい」
「わたしを、食うのか」
「旅を終えたそのあとのこと、わからないんでしょ。ならいいよね」
 この男も、人を食うのだ。やはりメテオラも悪魔なのだと、心のどこかで落胆しているわたしがいた。
 だが逆に言えば、それまでは食わないということでもある。はなから、お役目を果たしたあとの人生になど興味はないし、人並みの生活や未来など、そもそもわたしには分不相応なものなのだ。
 わたしはかたく握った右のこぶしを左肩に押し当てて、応じようと腹から声を出した。
「すべてを終えたら煮るなり焼くなり、おまえの好きにしろ、メテオラ」
 目の錯覚だろうか、一瞬メテオラの刺青が生きているように脈を打った。
 メテオラは舌なめずりをして、にやりと笑った。
「きみの名前は?」
「ルーチェ」
 大きな手がわたしのこぶしをすっかり包みこむ。こわばりにも似た決意をほぐすように手の甲や関節を撫でると、メテオラはそこに口づけを落とした。
「契約成立だ、ルーチェ。きみが望みを果たすまで、おれはきみの眷属となろう」
 透徹とした空がわたしを見ている。
 その空の果てがどこにあるのか、わたしにはまだわからない。