2章 甘辛ハイブリッド(1)

 頭上から垂れ下がる蔓性植物、光をさぐるように中空を這う枝々、足元を覆う枯葉と苔……。隙間を縫うように生い茂る常緑種の低木はちょうど人影ほどの大きさのものが多く、わたしはしるべのない森を進みながら何度もひやりとした。
 ときおり獣道に行き当たる。人が使うこともあるのだろう、轍が残る場所もあった。だがそのそばには決まってそれらが堆く積まれていた。わたしはそれらを直視できず、またずんずんと繁る森を進んだ。
 たった十歩でも、道なき森をゆくのは苦しい。湿度が高いせいか、たいして暑くもないのに汗がとまらない。長い眠りのために体力もいくらか落ちているのだろう、すぐに息もあがってしまう。それでもわたしは切れ味の落ちてきた小刀で視界を遮る枝葉を払った。
 汗が肌を伝うたび、苛立ちが募る。疲労か、不快感か、わからない。目覚めてから数刻、わからないことばかりだと気づいて、また苛立つ。
「くそっ、方角は確かにあってるんだろうな」
 わたしはたまらず吐き捨てるように呟いた。そのとげとげしさに気づいているのかいないのか、うしろからのんびりとした声が返ってくる。
「あってるよぉ」
 メテオラはでたらめな歌を口ずさみながら、いかにも機嫌がいい。
「ずいぶん楽しそうだな、メテオラ」
「そりゃそうだよ。いつルーチェが根をあげるかなあ、って想像しながらだからね。お弁当の時間が楽しみなピクニックみたいなもんだよ」
 はあ? ピクニックだと?
 どうして貴様が汗もかかずに! 平然としていられるか! わかっているのか?!
 わたしが道を! 切り開いているからだ!!
「それは……、なにより、だっ!」
 わたしは小刀が断ち切れなかった蔓を手で掴んで引き千切ろうとして、けれど叶わずにかえって蔓に腕をからめとられてしまった。
 もがけばもがくほど、小さな棘が皮膚に引っかかる。
「しまった」
 持っていた小刀を逆手に持ち替えて蔓を切ろうとするが、枝葉の汁でねばついた刃は蔓の表面を滑ってしまう。小さな棘に引っ掛けようとするが、焦れば焦るほどうまくいかない。
 すぐ横からメテオラがひょこりと顔を出す。
「ねえルーチェ、そろそろ諦めたらどう?」
 瞳のなかの流星がいっそうきらめいている。……なるほど。たしかに控えめに言って楽しそうだ。
「ねえ、どう? どう?」
 諦める、とは、陸路を行かず、彼の翼に頼るということだ。
 わたしはじっとりとした目をメテオラへ向ける。
「ことわる。あんな思いをするのは二度とごめんだ」
「だいじょうぶだいじょうぶ。最初だけだよ。慣れたら平気になるから」
 岩壁の洞から脱出する手段が他になかったとはいえ、翼を備えたメテオラに抱えられ険峻な岩山をくだるのは生きた心地がしなかった。
「あいにく慣れる予定などない」
「直前に自分でダイブしたくせに」
 メテオラはゆっくりと目を細めて、穏やかな笑みを浮かべる。
 ……ああ、そうか。苛立つのは九割この男のせいか。
 いったいなにを考えているのかさっぱりわからない。生きている時代が違うせいもあるのだろうが、どうも根本的に合わない。そんな気がする。人間とバンパイアのハイブリッドだというのも、再生能力や翼などからとりあえず受け止めてはいるが、本心から信じ、納得したわけではない。
 だいたい奴がいう契約というのも甚だあやしいもので、この男がわたしの目的が果たされるのを待つ義理などないはずだ。どこか適当なところへ移動してから、何食わぬ顔でわたしを食うのかもしれない。会ったばかりの女都合の、いつ終わるともしれない旅の報酬がわたしぽっちでは、どう考えても割に合わない。
 フィオーレたちの足跡が辿れたならそのあとのことは構わないが、いまはまだこの男に食われるわけにはいかない。信用するのは危険だった。
 怖い顔しないでよ、とメテオラはわたしの手からするりと小刀を奪った。まとわりついた粘液をシャツの裾でぬぐう。
「ルーチェの言ってることがわからないわけじゃないんだよ。ただ、徒歩でこの森を抜けるとなると、日没までもう数時間しかない。おれだって個人的な感情で言えば、いつまでもこの森に居たくはないから」
「さっき話していた、エレジオ……とかいうやつらのことか」
「そ」
 メテオラはそっけなく頷いて、さくさくと蔓を切り落としていった。その沈黙は、わたしの更なる問いを拒むような、冷え冷えとしたものだった。
 彼がエレジオと呼ぶ存在。それは、今もなお好んで人を食う悪魔のことだ。
 神話によると、かつてわれわれは共に地上で暮らしていたという。だがある時悪魔が盗みを働いたため、呪いを受け、さらに地下世界へと封じられることになった。地下世界は豊穣とは程遠い過酷な場所だ。そのため悪魔は百年、二百年と長い時間をかけて風穴の封印を破り、地上の人間を襲った。
 その行為は地上へあがった悪魔にとって抗えない衝動で、自分の意志とは関係なく人を襲ってしまう。これこそ呪いなのだという捕虜の証言レポートを、わたしは軍の内部資料で目にしたことがある。(それについて赤騎士テオリアは、呪いの信憑性について調べる必要があると話していた。わたしには人を食うための方便としか思えなかったが……。)
 あの戦争ののち、帝国と悪魔は共生の道をとることになる。だがそのためには呪いの根治が絶対条件だった。帝国はすでに呪い封じの特効薬を極秘で開発しており、魔王みずからがその薬をまず初めに打ったという。魔王の体に異常がないことが確認され、やがてすべての悪魔に配布される。
 いまは新生児のうちにその薬を接種しておくことが義務付けられているのだとか。さきほど話していたおり、メテオラが肩口にうっすら残る注射痕を見せてくれた。麦ほどの大きさの淡い傷跡が三つ、等間隔に並んでいた。
 だが呪いや衝動のたぐいとは関係なく、人間やほかの悪魔を嗜好品として食べる悪魔がいる。食用として飼育されている家畜以外をいたずらに食うことを法律で厳しく禁じているにもかかわらず、ごく少数が存在するという。
 そしてこの森はたびたび新聞でも取り締まりが報じられるほど有名な、エレジオの『聖地』だということだった。
 しかしわたしにとって重要なのは、そこではない。
 なぜそんな悪名高き森のそばにメテオラは来たのか、ということだ。
 それはつまり、彼もエレジオと呼ばれる異端の存在ではないのか。
 わたしの物言いたげな視線に、メテオラが苦笑いをこぼして屈する。
「なあに? ルーチェ」
「貴様はなぜあの洞へ来た」
「あー、その話はしてなかったね。実はおれのご先祖さまが残してくれた宝の地図ってのがあってさあ」
「わたしは真面目な話をしている」
「おれもちゃんと答えてるよ」
 メテオラはふわふわと笑いながら、はい終わりと言ってわたしの手に小刀を握らせた。
「ほらルーチェ、急がないと日が暮れる。それとも飛ぶ?」
 メテオラの大きな手がわたしへと差し出される。荒事とは無縁の、まっとうな白い手をしている。
 悪魔は人を食う。
 では、メテオラは……?
「あああああもおおおおお!」
 頭のなかが破裂しそうだ。
 わたしは健やかな彼の手を軽く払いのけた。
「わたしが前をいく。おまえは方角の指示をしろ」
「おれの指示を信じてくれるの?」
「現状そうするしかない。行くぞ」
 そう。なにもかも、現状ではこうするしかないのだ。
 視界を遮る小枝を叩き落す。
 肩越しに後ろを振り返ると、メテオラはにこにこしながら両手をひらひらと振っていた。