2章 甘辛ハイブリッド(4)

 エレジオらがいるやや拓けた場所は、こういった機会によく使われているのか雑草は踏みしめられ、地面の土が剥き出しになっていた。森との境いは茂みに覆われているが、二、三、途切れているところがある。そこが出入り口なのだろう。
 わたしは出入り口の隙間を大きく迂回し、風向きに注意を払いながら茂みに沿って移動し、子どもからもっとも近い大木の裏で息を潜めた。
 いざ子どもを連れて逃げるときのことも考えて背後の森を窺うが、いかんせん日没の足がはやい。陽はみるみる翳り、森の深部はすでに夜が満ちはじめていた。はたしてここから逃げ出して、そのあとどうなるのだろう。夜の森を切り抜けられるだけの装備はない。メテオラと手順を確認したときからわかっていたことだが、まさに目の前に夜が迫ると不安は輪郭を持ち、わたしの心や思考を圧した。
 大丈夫だよと言ったメテオラのへらへらとした顔が思い浮かぶ。彼は続けて言った。どんなにはぐれても、必ずわたしの声を探し出すからと。
 武器も策も持たないのだから、夜の森に無防備なまま放り出されることに変わりはないのだが、それでも鬼の子どもと二人きりよりは、メテオラもあわせて三人のほうがいくらかましな気がする。
 子どもを助けてからのことは助けてから考えよう。いまは奴の耳を信じるしかない。ええい、ままよ。出たとこ勝負だ。
 上空で風が巻いているのか木々が大きく揺れている。これならいくらかはわたしの匂いもまぎれてくれそうだ。あとはメテオラがどれほど奴らを引きつけてくれるかだが……。
 しかし不思議なのは、さっきの狼男がメテオラの放つ香りにまったく気づかなかったことだ。わたしにもはっきりとわかるくらい、菓子のように優しく甘い香りがするのに。
 あの香りに包まれていると、子どものころのことを思い出す。
 フィオーレとともに母を手伝い、三人で作ったバニラとココアのクッキー。焼き上がるのを待つあいだ、わたしとフィオーレは焦げないようにとオーブンの前ですんすんと鼻をならして、香りだけでクッキーの焼き具合を見定め……、いや嗅ぎ定めていた。
 いつもわたしが先にもう焦げたと言い、フィオーレがあとすこしだからとオーブンの前に仁王立ちになった。わたしにフィオーレを押しのけることなどできるはずもない。
 そうしてクッキーはいつも最高の焼き色になった。
 わたしはつい数刻前まで巻かれていたハンカチーフを思って、首に触れた。
『ねえさま……! ルーチェねえさま、目をあけて!』
 よく笑う少女だったのに、最後に見た彼女は声を震わせ泣きじゃくっていた。オリーブアッシュの瞳を悲しみと怒りに濡らしながら。
『テオリアにいさまの考えはあまりにも乱暴です。いまさら……、こんなにも多くの犠牲をしいておきながらいまさら和議だなんて……、到底国民は受け入れてくれません、無責任が過ぎます!』
 あれからどうやってわたしをあの洞穴まで運んだのか、いまのわたしには知りようもない。わたしにわかるのは、この時代の暦が彼女とおなじ名前であるということだけ。
 もう、フィオーレはこの世にいないだろう。けれどわたしはこの目で見届けねばならない。あの子がどんな思いでこの未来を受け入れたのか。そしてあいつがどんな風にくたばっていったのか。
 きっとそのために百年越しで目覚めたのだから。
 そのとき、広場のほうからエレジオの、なんだてめえはという声があがった。わたしは感傷を胸におさめて、茂みのあいだから向こう側を覗いた。
 いざという時はすぐに飛び立てるよう上着を脱いで翼の仕度をしておけと言ったにもかかわらず、メテオラは上着を着たままで、フードまで目深にかぶっていた。
「おにいさんたち、いまから打ち上げ的な?」
「見てわかんねえか。部外者お断りなんだよ。ほら、さっさと失せろ」
 五人のエレジオはみな、突然現れた見知らぬ悪魔をじろじろと眺めている。囮作戦は思ったより効果がありそうだ。
「そうしたいのはやまやまなんだけど、飛んでたら落し物しちゃって。探したいんだよね」
「知るか。なに落としたのか知らねえけど、そんなもん、落とす奴がバカなんだ。飛べるからってイキってんじゃねえぞ」
 離れて座っていたエレジオも立ち上がり、メテオラはすっかり彼らに囲まれてしまう。飛べる飛べないということは彼らにとって非常にセンシティブな話題らしい。一瞬にしていまにも乱闘になりそうな気配になってしまった。
 たしかに気を引けとは言ったが、引きつけすぎだ。……いや、これは引きつけるというより、もはや焚きつけているというのでは。
 ただ、メテオラの煽りのおかげで子どものまわりからエレジオはいなくなった。わたしは茂みから這い出して、身を低くしながら子どもへと近づいた。
 わたしに気づいた子どもが、這って逃げようとする。
「大丈夫、わたしはきみに危害をくわえない。助けにきたんだ」
 後ろ手に縛っていた縄を小刀で切ってやると、わたしの言葉を信用したのか、鬼の子どもは悲鳴をあげようと吸った息を静かに吐き出した。
「ほんとうなら奇跡みたい……」
「きみ、名前は」
「ぼくはシロカネ。おねえさんは、人間……?」
「そうだ。ルーチェという。あの男があいつらを引きつけているあいだに、できるかぎり遠くへ行くぞ。走れるか」
 シロカネは鍛えた鋼のようなクリアグレーの瞳をわたしへ向けて、しっかりとうなずいた。
 わたしはシロカネを背に負い、メテオラのほうを振り返った。エレジオたちの背中の隙間から、彼の上着の袖と、爪を黒く染めた手がちらりと覗いた。その指先が、はやく行けと言うように動く。彼にはわたしとシロカネの会話が聞こえるのだ。
 わたしは茂みのほうへ駆け出した。
 すぐにメテオラの、ことさら大きな笑い声が聞こえてくる。それはどこまでも楽しげで、あきらかな嘲笑だった。
「あー、ははは、ごめんごめん。飛行に落とし物はつきものって言ったって、まあ、飛べないあんたらにはわかんないよね」
 エレジオは色めき立ち、メテオラの胸ぐらを掴んだ。
「ふざけんな、てめえ! 調子こいてると痛い目見ることになるぞ、ああ?」
 拳を振り上げたエレジオは、しかしそのまま動きをとめてしまった。そして、くんくんと鼻を鳴らす。
「そういやおまえ、においがねえな」
 わたしは茂みのなかへ飛び込んで身をかがめた。広場のほうへ耳を澄ます。
「さっきからなにか妙だとは思ってたが、……もしかして、ハイブリッドか」
 ひとりのエレジオの言葉に、ほかのエレジオたちもざわついた。
 ハイブリッドであるということに、どうやらなにか特別なことがあるらしい。
 やがてエレジオの下卑た笑いが森に響く。
「まさか幻の御馳走にお目にかかれるなんてなあ! おれたちはついてるぞ」
「鬼の小僧ごときで盛り上がってたのがバカみたいだな!」
「……っておい、あのガキはどこに行った?」
 さっきまでシロカネのそばにいた男があたりを見渡す。わたしは身を低くしたままシロカネを負って走りだした。