2章 甘辛ハイブリッド(6)

 さきほど滑り落ちるように降りてきた傾斜を、今度は這うようにしてのぼる。
 しかし起伏をひとつふたつと越えたところで、わたしは立ち止まらざるをえなかった。もはやこの先どちらへ向かって走ればいいのか、皆目見当がつかない。
 あえてがむしゃらに走ったつもりがなくても、障害物の多い森の中をまっすぐ進めるはずもない。しかも景色はどれも変わり映えせず、また日が傾いてからというもの、潮が満ちていくように足元から夜がせりあがってくる。もう、わたしの頭のてっぺんまで暗がりに飲み込まれてしまった。
 はやく戻らなければという焦りよりも絶望が上回り、足が動かなくなる。
 メテオラ……、あのあとすぐに空へ回避してくれているといいが……。夜目はどれほど利くのだろう。せめて走って逃げられただろうか。
 ……走って逃げる? 五人も相手にしながら?
 軍で訓練を受けた兵士でも、嗅覚に優れた狼男から逃げ延びることは難しい。ましてメテオラは争いのない平和な時代を生きている青年だ。へらへらふわふわとして、喧嘩慣れしているようには思えない。空は飛べるし耳もよいが、この状況では役立ちづらいだろう。度胸だけはあるが、はたしてそれだけで通用するかといえば……。
 役割分担を間違えたと、いまさら深い後悔におそわれる。わたしがあの場に残ればよかった。折り畳み式の小刀一本でできることなど限られているが、メテオラがシロカネを連れ出すための時間稼ぎくらいならできたはずだ。
 そもそもわたしが言い出したことなのに。
 シロカネから預かった刀の鞘をぐっと握る。
 いつもそうだ。わたしは肝心なところで誰も助けられない。
 ぎりりと奥歯を噛みしめて闇を睨みつけた。その時だった。
 頭上の木々ががさがさと音を立てたかと思うと、空からなにかが降ってきた。勢いあまって木を二本、三本とへし折って、四本目の木にぶつかってようやく地面へと落ちる。
 近づいて見てみると、さきほどのエレジオだった。いつでも刀を抜けるように身構えるが、牙のあいだから長い舌をだらりと垂らして白目を剥いたまま微動だにしない。しっとりとした鼻先のそばの髭がふわふわと揺れている。息はあるようだ。
 メテオラがやったのか。それとも幸運にもシロカネのいうスティヴァーリ隊が来たのだろうか。
 わたしはエレジオが折った木を逆巻きにひとつ、ふたつと目で結び、その線がのびる先を見やった。
「あちらか」
 あれほど重かった足取りが嘘のように、わたしは走り出した。
 なんでもいい。とにかく、戻らなければ。
 目指す方角から、野太い悲鳴が聞こえる。近づくほどに言葉も聞き取れるようになった。
 やめろ、離せ、と叫んでいる。
 わたしは茂みをかき分けて、あの拓けた場所へと飛び出した。
「メテオラ!」
 だがわたしは続けて踏み出そうとした足をとめた。
 空を覆う枝葉がないおかげで、森のなかよりずっと目が利いた。地面にはエレジオたち三人がぐったりとした様子で横たわり、残りひとりが地に這いつくばって命乞いをしている。だがわたしが足をとめたのは、その光景のためではなく、あたりに立ち込めた濃い血のにおいのためだった。
 吐き気を覚えるほどの、まるで戦場に立っていると錯覚しそうなほどの血のにおい。
 靴先の、土が剥き出しになった地面はどろりと黒ずんでいる。
 周囲の草木も、その中心にいるメテオラも、通り雨に降られたようにしとどに濡れていた。
 メテオラは足元に縋りつくエレジオの鼻先を掴んで、低い声で黙れと吐き捨てる。その横顔は、わたしが半日見てきた男とは別人のようだった。こういう表情もするのか、というレベルではない。頬の赤黒い紋様はなく、ただただ血に濡れ、スカイブルーの流星の瞳も血に染まっていた。
 エレジオの鼻を掴むメテオラの拳は手袋でもはめたように不自然に大きく、異様なほど赤黒く染まっていた。
 くぐもった声で助けを求めるエレジオを、メテオラは汚物でも見るかのように見下ろし、掴んでいた鼻先ごとエレジオを地面へ叩きつけた。あたりに花火のように鮮やかに血が飛び散る。それはエレジオが吐いたものと、メテオラの拳から弾けたものに見えた。
 息つく間もなく腹や胸を蹴りつけ、喉元を足で踏みつける。
「や、やめろ……、くるしい、たのむ……足を、おろしてくれ……」
 エレジオの必死の懇願に、わたしでさえ胸が痛んだ。
 やつらがこれまで犯した罪のことはわからない。だが今はシロカネを救い出すことができた。だから不問にするということにはならないが、少なくともやつらを裁く権利はわたしたちにはないはずだ。
 それなのにメテオラはエレジオの悲痛な叫びに、口を笑みのかたちに歪めた。
 正気ではない。
「やめろ、メテオラ!」
 わたしは刀を鞘から引き抜いてメテオラへ向かって飛びかかった。メテオラはさして驚く様子もなく、冷ややかにエレジオを掴み上げ、投げつけてきた。
「ば……っか、ぢから……!」
 持ったままだった鞘を突き出して体を反転させ、正面からの衝突を避ける。それでも巻き込まれるようにしてエレジオとともに地面にしたたか体を打つ。間髪をいれず、メテオラが拳を振り下ろしてくる。わたしは呼吸もままならないなか横へ転がって逃れ、片膝をついていたがかろうじて刀を構えた。
「メテオラ、なにがあったか知らないがもうよせ」
 わたしを捕らえられず空を切ったメテオラの拳は手の甲の半ばまで地面に埋もれていた。あたりには拳を中心にして血が散っている。メテオラは痛がることなく平然とした様子で立ち上がり、わたしへ向き直った。赤黒く染まっているので判別しづらいが、拳から流血しているようには見えない。それなら、地面の血は?
 考える暇もなく、メテオラが距離を詰めてくる。突き出される拳を刀で受け止めると、激しい蒸気がふきあがる。血のにおいが一気に濃くなった。
 はじめてメテオラの顔色が変わる。わたしは両手で刀の柄を握り、押し返す。メテオラは舌打ちをこぼし、数歩引き下がった。
 シロカネから刀を預かったときに感じた神威、その正体に思い当たる。
「退魔の術か」
 つまりあの赤黒い拳は、メテオラの悪魔の部分の能力によるものなのだろう。血のにおいが強かったことから想像するに、硬化させた血の装甲といったところか。
 メテオラはわたしを見定め、片目を細めた。
「女、ひとつ聞かせろ」
「とても人にものを尋ねる態度ではないな」
「さきほど宰相の名を口にしていたな。あの男とはどういう関係だ」
「宰相……?」
「テオリアのことだ」
「は? テオリアが? 宰相?」
 わたしはたまらず大きな声で笑った。
「あれはわたしとおなじ帝国軍の将で、赤騎士の称号を持つ男だ。学科は常に上位の優秀な男だが、宰相というのは知性だけでなく人との意思疎通や協調も大切だろう。あいつには合わなさそうだ」
「ずいぶんよく知った仲のようだな」
 メテオラはとても自然な様子でにこやかに微笑みながら歩み寄ってくる。正気か否か、一瞬判断が遅れる。その隙に、刀の切っ先を掴み取られてしまう。
 だが先ほどのように蒸気はあがらない。よく見ると手のひら側の装甲は解かれていた。
 退魔の術によって蒸発することのないメテオラ自身の血が刀を伝い、鍔元からぱたぱたと滴った。
「やめろ、メテオラ」
「旅に付き合うのは本心だ。だがその前に宰相のことについては隠さず話してもらう」
 はじめは雫だった血が、いまは一本の糸のようだった。なんとか彼の手から刀を引き抜こうと動かすが、びくともしない。ただ彼の手のうちに深く刺さるだけだった。
 このままではいけない。話せば、この手を離してくれるだろうか。しかしおそらく彼が知りたいテオリアとわたしが知っているテオリアは別人だ。素直に話して、メテオラは満足してくれるのか。
「なにを勘違いしてるのか知らないが、わたしが知っているテオリアは百年前の人間だぞ。生きているはずがない」
「おまえだって百年前の人間だろう?」
「まあたしかに、……そうだな」
 わたしは思わず苦笑して、続けた。
「だがわたしは確信しているんだ。あいつは……テオリアはわたしを斬り捨てて心から清々しただろうに、自分まで百年の眠りにつくようなそんな間抜けはしない男だとね」
 足元に落ちていた鞘をつま先で蹴り上げて拾い、メテオラへと投げつける。予想していたといわんばかりに、メテオラはそれを首を傾げるだけでかわしてしまう。だがそれは想定の範囲内だ。
 わたしはびくともしない刀を引っ張るのではなく、押した。そして刀から手を離し、虚を突かれてがら空きのメテオラの間合いに飛び込んだ。
「関係か。一言でいえばあれはわたしの乳兄妹だ」
 シャツの胸倉を両手で掴み、思い切り振りかぶった頭をメテオラの眉間へとぶつける。
「ぐ……っ」
 メテオラはわたしに突進され、頭突きを食らわされ、衝撃を避けきれないまま背中から地面へと倒れこんだ。
 わたしはメテオラに馬乗りになり、平手で彼の頬をはたいた。
「しっかりしろ、メテオラ! 正気に戻れ!」
 メテオラは眉間を押さえて、噛みしめた牙のあいだから声にならない息を洩らしていた。痛みに呻いているのか、それとも何かと戦っているのか。
 やがて彼はわざとらしく掠れた声で、女……と呟いた。
「こういうときはお姫様のキスで呪いが解けるという王道展開が……」
「だまれ」
 もう一度、今度は軽く頭をはたくと、メテオラは小さく舌を出して笑った。
 眉間と目元を覆っていた手を持ち上げると、メテオラの瞳にはスカイブルーの瞬きが戻っていた。同時に、彼の頬にはふたたび赤黒い紋様が浮かぶ。
 メテオラは申し訳なさそうに眉を寄せながら微笑った。
「驚いたよね、ごめんね」
「たしかに驚きはしたが。そもそもわたしの落ち度だ。事情を知らず、危険な目に遭わせてしまった。すまなかった」
「おれは平気。エレジオ五匹とかなんでもないし」
「平気なわけないだろう。いまのはどういうことだ。あれはおまえなのか?」
「まあ、おれだよね。……呪いがね、おれは消えていないままなんだよ。ほら、ハイブリッドだからちょっと特殊で」
「シロカネが、さっきの鬼の子が教えてくれた。特効薬のこと」
「そう。それ。そこらの悪魔くらいには戦えるようになるんだけど、メリットはそのくらい。呪いにまかせると抗えない衝動……、ひどい酩酊状態って感じで、かすかに意識はあるんだけど感情とか思考が制御できなくなる。記憶が飛ぶこともある。しかも自分で解放できるくせに、自分ひとりでは戻ってこられない。いらんこと言うしやるし、ほんと酒癖悪すぎで……。これまでにも結構やらかしてるんだよ。たとえばガキのときなんかは」
 へらへらと笑いながら、メテオラは過去の失敗談を話しはじめる。
 つまり、メテオラはわたしとシロカネの時間を稼ぐためエレジオらの前にハイブリッドという獲物として身を晒し、やつらから逃れるために呪いを解放した、ということか。正気に戻るあてもなく。
 あまりにも行き過ぎた献身に、わたしは深い深いため息をついた。
「手のひらは大丈夫なのか」
「……え、ああ、うん。呪いを解放してるあいだは再生能力も悪魔仕様だから。眉間はいまも死ぬほど痛いけど」
「それならよかった」
「話さずにいてごめん。でもハイブリッドのこと知ってたら、ルーチェはおれに任せなかったでしょ。そしたら君はもっと危険な選択をしたかもしれない」
 メテオラは頬の紋様に触れながら、他人事のように爽やかに笑う。
「ルーチェにそんなことしてほしくなかった。ていうか、そんな必要ないんだよ。だっておれが呪いを解放すればそれで――」
 わたしはメテオラのよく喋る口を指で摘まんで塞いだ。
「もういい、メテオラ。おまえがどうしてこうも向こう見ずなのかは知らないが、自分が犠牲になればいいなんていうのはやめろ。もっと危険な選択? これ以上があるか? わたしはシロカネからハイブリッドの事情を聞いて、とても生きた心地がしなかった。こんな思いはできればもうしたくない。誰しも生きていれば傷つく。だが自分から、自分だけで、険しいほうへ飛び込んでいくのはやめてくれないか」
 わたしの言葉に、メテオラは何度もまばたきを繰り返す。
「どうした、メテオラ。言いたいことがあるなら言っていいぞ」
 塞いでいた口を自由にしてやる。
「あ……、いや、そうじゃない。そうじゃないんだよ」
「だったらなんだ」
「だって、おれのことエレジオかもしれないと思ってたわけでしょ。なのにどうしておれのことを心配……? してるの」
「たしかにそう思っていた。貴様の行動はよくわからないことが多いからな。だが信じると決めた」
「ん? え? 決めた、それだけ?」
「そうだ」
「は、はは……」
 メテオラは途切れがちに乾いた笑い声をこぼしながら、口のなかで何事かをもごもごと呟いていた。まじか……意味わかんないし、いやまじで、これが軍人精神ってやつなの、クレイジーすぎるでしょなどと聞こえてくるがわたしは聞こえていないふりをした。
 しばらくして、メテオラはどこか明るいため息を吐く。
「ところでルーチェ、この刀はどうしたの」
「シロカネが貸してくれたんだ」
「そっか。ルーチェの頭突きも効いたけど、退魔の術もやばかった」
「役立ったのならよかった。あの子に、ちゃんと返しにいかないとな」
「だね」
 地面に臥していたエレジオが身じろぎする気配があった。
 わたしは刀と鞘を拾い、メテオラとともにエレジオたちのもとをあとにした。