グッバイ・ロンリー

 恋が薔薇色なんて、信じない。相手の気持ちに振り回されて、自分がどんどんなくなっていく。あえて言うなら、恋は無色透明、氷の色。
 そのときの怜平にはそれが本音で、真実で、現実だった。

 フローリングに散らかったビールの空き缶を片付けていると、部屋の隅で丸くなっていた影がむくりと動いた。
「すみません、起こしましたか」
 怜平はぬるくなったウーロン茶を傾けながら、起き上がった影に声をかける。
 窓から入る歓楽街の輝きだけで、部屋は充分明るかった。極彩色のネオンを受けて、影が首を振る。ゆるく巻いた、肩までの髪が波打った。
「体いたい」
「そんな隅に行ったのは先輩ですよ。水とウーロン茶、どっちにしますか」
「ウーロン」
「ぬるいですけど」
「じゃあ水」
「わかりました」
 怜平が冷蔵庫に隠しておいたミネラルウォーターを持って戻ると、先ほどの場所に彼女はいなかった。ベランダへと続く窓がひらいている。そこに彼女はいた。いびきをかいて熟睡している先輩後輩をまたいで、怜平もまたひとり暮らしの狭いベランダへ出た。
「ミサコ先輩」
「ありがとー」
 実咲子は怜平を振り返ることなく、手すりにもたれかかったまま片手をあげた。その手にペットボトルを握らせて、怜平も夜の街へ視線を投げる。
 様々な店から多様な音楽がこぼれ、ピンクや青や紫のネオンが渦巻いている。夜空は人工的に明るんで、赤黒く染まっていた。
 左手には墨汁を流したように暗い川が蠢いている。そちらを眺めていた実咲子は、指差して顔をあげた。
「淀川?」
「ですよ。他にこんな大きな川ないでしょ」
「じゃあ夏には花火が見えるわけだ」
「見えますよ。見にきますか」
 怜平がやわらかく微笑むと、実咲子は疑わしげに目を細めた。
「さすが、サークル一のモテ男は違うなあ」
「なんですかそれ」
「さりげないもん。うっかり、見にくるーって言いそうになっちゃった」
 見にくるー、の部分だけ声のトーンを変えて、実咲子はけらけらと笑った。この程度で実咲子が落ちないのは、怜平もすでに知っている。
 怜平と実咲子が所属するサークル『マテリアル』は、自由創作集団として日夜飲み会に余念がない。ただ他のサークルよりも強制力がないことが、なるほど自由創作集団と銘打つだけのことはあった。
 ひときわ大きないびきをかいて寝ている新部長曰く、今日は『履修登録が無事に済んで良かったね』飲み会だそうだ。しかしなぜその場所が馴染みの飲み屋でなく怜平の部屋になったのかはわからない。
 実咲子はようやくペットボトルのふたを開け、一気に半分ほど飲み干した。
「はあー、やだなあ」
「どうしたんですか」
「来年の今ごろは、もうこんな風に馬鹿騒ぎできないんだと思うと、やっぱり寂しい」
「じゃあ俺のためにもダブッてくださいよ」
「絶対いや。なんであんたのために内定捨てなきゃなんないの」
 軽く睨みつけられて怜平は返答に詰まったが、薄化粧の目元が和らいで、やわらかな髪がふくらんだ。
 怜平の目の前を何かがさっと掠める。
「隙あり!」
「ふえっ」
 まだ冷たいペットボトルを喉に押しあてられ、怜平は変な声をあげた。近くのビルに反響しただけだが、街中に響き渡ったような気がして手すりに突っ伏した。
 当の実咲子は腹を抱えて笑っている。跳びはねて喜び、そのたびに膝丈のワンピースが揺れた。怜平は濡れた喉を手で押さえ、昂ぶるほどに静けさを増していく恋情に失笑した。
 もう二度と恋などしないと誓った、あの日の痛みがよみがえって笑顔が歪みそうになる。
 同級生より三年遅れで大学へ入って、この春で一年が経つ。そのあいだ、彼女と呼ばれる存在がいなかったことはない。だが彼女らは怜平にとって恋人ではなかった。怜平にとっての恋人は、二年前の記憶で止まっている。
 氷漬けの思い出は、においもないし触ることもできない。ただ眺めるだけなら、きらきらと美しい部分ばかりを見ることも難しくなかった。これまではそうやって痛みをやり過ごしてきた。
 『マテリアル』に入ったのは、去年の後期授業がはじまったころだった。大教室の隅っこの席に、サークルチラシが落ちていたのがきっかけだった。
 ――創作サークル『マテリアル』、略してSM! 志ある仲間を募集中! ※我々はあらゆる芸術・創作を純粋に追求する自由創作集団であって、断じて飲みサーではない! 飲むだけでは足りん! 飲みまくりや!
 その開き直りが怜平の心に引っかかった。講義はその次にも控えていたが、気付くとさぼってサークル棟へ向かっていた。建てつけの悪い扉をあけた先にいたのが、実咲子だった。
 一目見て、恋に落ちた。妙に落ち着いた心地で、そうかこれが一目惚れかと納得している自分がいた。
 そのころからだ。氷に閉じ込めたはずの思い出が膿んで、熱を帯びるようになった。
「どうした、モテ男」
「襲いかかっておいて、その言い草はないでしょう」
「隙を見せたあんたが悪い」
 びしっという効果音をつけて、実咲子が怜平の鼻先を指差した。
「容赦ないね、先輩は」
「容赦ないのはそっちでしょうが。知ってるよ、新入生にもう手出ししたこと。まったくもって油断ならんわ。まだ四月よ。まだ十九日よ。どうなってんの。松下あんた、少女漫画から抜け出してきたんじゃないの」
「それならヒロインとらぶらぶになれるんですけどね」
 橋を渡っていく電車にあわせて口早に言うと、実咲子は聞き取れなかったのか首をかしげるだけだった。
「なんでもないっすよ」
 怜平が実咲子に好きだと告白したところで、実咲子は笑って受け流すだけだろう。それがわかっているからこそ、怜平は安心して実咲子を見つめることができた。片想いはつらい。同情されて慰めのように付き合うのは、もっとつらい。
 それよりも今の関係を失うのは、もっとずっとつらい。
 実咲子ならきっぱり振ってくれるかもしれない。そのあとも、あとくされなくサークルの先輩後輩として付き合ってくれるだろう。だが怜平はそれすらどこか怖かった。何もなかったことにはされたくないのだ。
 あけすけな蛍光ピンクのネオンをまとい、実咲子の髪はチェリーピンクにきらめいていた。黙っていれば聡明なお嬢様に見えるのに、口の悪さが邪魔をする。目鼻立ちは派手ではないがまとまっていて、べたつくような甘さもない。飾り気のない実咲子は、どんなときも自然体だ。
「ん、なに?」
「フローリングのあとが、ほっぺに」
「うそっ」
「はい、嘘です」
「こら松下ぁ!」
 本気一歩手前の拳にわき腹を突かれ、怜平は笑いながらよろけた。
 見つめている、ただそれだけで幸せになれるのに。なぜ自分はここに立ち止まっていられないのだろうか。怜平は心のうちで笑顔を歪めた。
「ねえ松下、時計ある?」
「終電ですか。バイクで送りますよ。先輩ん家って、どこでしたっけ」
「高槻だけど。あ、そうじゃなくて……」
 珍しく歯切れの悪い実咲子に、怜平は胸がざわついた。ジーンズのポケットに入っていた携帯電話を取りだして、自分だけ時間を確認する。あと数分で日付が変わろうとしていた。
 蓋のあいたペットボトルに下唇を押しあてたまま、実咲子はじっとネオンの川を見つめていた。その眼差しには焦燥が見え隠れしている。
「誰かと約束でもしてるんですか」
「うーん、してるような……してないような」
「どっちなんです」
「いいから、時間」
 伸ばしてきた実咲子の腕を掴んで、怜平はぐっと力をこめた。実咲子は一瞬怯えるように肩を震わせたが、すぐに普段の勝ち気な目になって怜平を睨みつけた。
「もういいから離して」
「帰るんですか」
「しつこい」
「先輩が真っ直ぐ帰るなら」
「まだここにいる。だってそのために今日ここに集まったんだから」
「は?」
 怜平が手を離すと、実咲子は上着のポケットから薄く透けた赤いハンカチを取りだした。
「タネも仕掛けもございません。こちら、ただの真っ赤なハンカチ。今からこれを、あなたが望むものに変えてみせましょう」
 突然はじまった宴会芸に、怜平はぽかんと口をあけた。
「何してんすか、先輩」
「いいから何か欲しいもの言いなさい」
「欲しいもの……」
 ミサコ先輩、とはさすがに言えない。怜平が悩んでいると、実咲子はにやりと笑った。
「よし、かわいいものだな。何かかわいいものが欲しいんだな」
「先輩それ、誘導尋問にすらなってませんけど」
「いいから黙って見てなさい」
 慣れない手つきでハンカチを指で押しこみ、片手に握りこむ。
「はーい、では今からとってもかわいいものに変わりますよー。ほら、盛り上げる」
「わーい」
「なにその棒読み! 逆に盛り下がるし! もう二度としなくていい。じゃあ、いくよ。……三、二、一!」
 カウントダウンにあわせて実咲子が手をひらくと、そこにあったはずのハンカチはビーズ細工のついたストラップに変わっていた。それを指でつまんで、実咲子は怜平に押しつけた。
「あげる」
「え、なんで」
「今日誕生日でしょ。って、今日になってるかどうか、わかんないんだけど」
 放心したままの怜平の手から携帯電話を奪い取り、実咲子は薄い胸を撫で下ろした。
「よかった」
 アナログ時計は、二十日の十二時を少しまわっていた。実咲子はその勢いのまま怜平の携帯電話にストラップをくくりつけてしまう。
「なんで俺の誕生日なんて覚えてるんすか」
「インパクト、強かったからね」
 電話を怜平に返して、実咲子は困ったように笑った。手品に使ったハンカチをたたみながら、彼女は続ける。
「松下がはじめてサークル来たとき言ったよ。四月二十日、失恋生まれの松下ですって」
「そんなこと言いましたっけ」
「言った言った。ベタな語呂合わせのとんでもないオヤジギャグ。でも、それ言ったときのあんた、まったく目が笑ってなくて」
 手すりに置いたペットボトルを抱きしめて、実咲子は目を細めた。その視線の先に半年前の自分がいるのかと思うと、怜平は胸が震えた。
 そんな怜平のたかぶりも知らず、実咲子はおおげさに深いため息をついた。
「ところがいざサークル入ったら手あたり次第で、どこが失恋の松下だよこの女ったらし! ってね」
「あ、え、……すいません」
「一応きくけど、好き、なのよね。付き合った子はみんな」
「そうですよ」
「言い寄られたんだとしても?」
「はい。好きになります」
「はあ……」
 呆れ果てた実咲子は、ゆるく巻いた髪をまとめてはほどき、うううと唸り声をあげた。
「あんた地味にかっこいいし、なにげにサークル内でいちばん年上だし大人だし、まあね、モテる理由は色々あるんだろうけど……。うん、不思議だった」
「不思議、ですか」
「色んな子に手出しして、とっかえひっかえのくせして、どの女の子からも嫌われないのよね。振られたって泣いてた子も、一週間後にはけろりとしてあんたと仲良く喋ってる。だからね、訊いてみた。よっしーにも、ザキちゃんにも。そしたらみんな、最初から最後まで優しかったし、松下の方がずっと傷ついてるからって」
 実咲子はすこし躊躇ってから、もう一度口をひらいた。
「すごく孤独な人なんだって」
 とっさに笑ってやりすごそうとして、しかし怜平は言葉につまった。額を押さえて、顔を隠す。
「そんな、いいもんじゃないです」
「本人からすれば、そうなんだろうね」
 水を一口飲んで、実咲子は肩をすくめた。怜平は前髪をぐしゃりと掴み、長いため息を吐きだした。携帯電話に結ばれたストラップが、はずみで肌に触れる。
「だからって、二十三にもなる男の誕生日に、ビーズのストラップはないでしょう。これ、さっちゃんも付けてましたよね。先輩が作ってあげたんですか」
「そうそう。てか意外。覚えてるんだ、そういうの」
「覚えてますよ。だって自分が忘れられたら寂しいでしょ」
 ふとこぼれた怜平の本音に、実咲子は目を伏せて髪を揺らした。
「しんどくない?」
「しんどいですよ」
「いちばん大好きな人と、ちゃんと付き合えばいいのに。そしたら忘れるとか忘れないとか、寂しいとか、乗り越えられるんじゃないの」
「もう、嫌なんですよ……」
 振り回されるのは嫌じゃない。むしろいくらでも彼女中心に毎日を過ごしたいと思う。だが振り回されることに夢中になって、気付けば自分が空っぽになっているのが怖い。彼女を好きだったことさえわからなくなるような、そんな空白はもう味わいたくないのだ。
 ただ好きでいたいだけなのに。
「俺もう、恋愛とかありえないんです」
「そのくせひとりじゃいられないなんて、都合よすぎ」
 実咲子の言うとおりだ。それは怜平もわかっている。どうしても、自分ひとりだけのためには生きられないのだ。寝ることも食べることも笑うことも怒ることも、誰かのためにありたい。
「だったら」
 怜平は奥歯を噛みしめながら唾をのみこんで、大きく息を吸った。
「だったら先輩がいてくれますか」
 舌に広がっていく苦味は、後悔と解放感だ。もう後戻りはできない。瞬きを繰り返すばかりの実咲子を見やって、怜平は苦笑を浮かべた。
「先輩が言ったんですよ。いちばん好きな人と付き合えって」
「え。意味わかんない」
「どのへんが」
「あえて言うなら、全部」
「それ、全然あえて言ってないですよ」
「顔のいい男はイラっとするし」
「それなら顔を潰します」
「あたしより絵がうまい男も嫌い」
「右手、切り落とします」
「そもそも年上のくせして生意気な敬語もどき使う男なんて、ありえないから」
「いつでもタメ口になるよ」
「なんか、それもむかつく」
 整った眉を寄せて、実咲子は顔を逸らした。怜平は彼女の横顔を見つめたまま、携帯電話をかざした。
「じゃあ、どうしてこんなことしたんです。正直えぐいですよ、先輩」
 目の高さで揺れるビーズの飾りは、丸くてミラーボールのようだ。ネオンを受けて七色に光っている。怜平は手すりにもたれかかって、実咲子の顔を覗きこんだ。
「予想してたでしょ、多少は」
 実咲子は横目に怜平を一瞥して、小さくうなずいた。
「一瞬。でもまさかって」
「俺、結構露骨だったのに、気付いてなかった?」
「からかわれてると思ってたから。ほら、あたしこのキャラだから、男子ってみんな友達になっちゃって」
「違います。俺、先輩のこと好きです。あの日あの場所に先輩がいなかったら、マテリアルに入ってません」
「ちょっと、タイムタイム。ま、松下……」
 実咲子は部屋のなかを指差して、語尾を濁した。目顔で何事か問いかけても怖い顔をするだけだ。怜平は不服ながらも部屋へ視線を移す。
 先ほどまで気持ちよさそうに寝ていた先輩後輩が、目を輝かせて網戸に張りついている。まだ酒が残っているようで、鼻息の荒さを隠す様子もない。怜平は実咲子と顔を見合わせて笑った。
 凍らせたはずの過去は、今もじくじくと疼きながら少しずつ溶けだしている。痛みは続いている。だがもう無色透明ではなくなった。
 恋は薔薇色ではない。無色透明でもない。

 あえて言うなら、ネオンをまとってくるくる回るミラーボールだ。