冷たい花

 障害があるほど恋は燃えあがるという。映画やドラマでは情熱的に描かれ、どれも決まって破滅的で美しい恋物語だった。
 人に言えない恋は、きっといけない恋だ。それは立派な障害だろう。だが実咲子は映画のヒロインのようにはならない。彼のために家族や友人を捨て、彼のためにそれまでの人生を手放し、明日がどうなるかもわからないような今日を幸せだということはない。
 この恋はすでに息をしていない。けれど死んでもいない。体温と息吹をうしなって、枯れることもしおれることもないままに咲いていた。
 いっそ死んでしまえばいいのに。そう思いながら実咲子は、やわらかさだけを残した恋の花びらで午睡をするのだった。

 五月の連休が明けると、キャンパスは平静を取り戻す。右も左もわからなかった新入生がそれぞれに居場所を見つけ、昼に限らず混みあっていた学食が嘘のように閑散とする。
 文学部の学舎内にある生協カフェも例外ではなかった。
 実咲子は好きな席へ鞄を置いて、のんびりとカフェオレを頼む。並ぶことも待たされることもない。店員のお姉さんも二週間前より笑顔がかわいい。快適だった。
 窓際の席から空を見あげれば、青空がハレーションを起こす。読みさしの文庫本は冗長で退屈だったが、机に突っ伏して枕代わりにするのにはちょうどよかった。カフェにはFMラジオが流れ、今日の南森町も暑いですねと女性DJが爽やかに話していた。
 カフェオレがなくなったころ、友人の前田沙智がカフェへ駆け込んできた。
「ごめんなぁ、遅なってぇ」
「さっちゃん大丈夫? 顔真っ赤だよ」
「すっごい走ったからー。疲れたぁ。あ、ジュース買ってきてもいぃい?」
「うん、いいよ」
 童顔に似合わないブランド財布を持って、沙智は自販機へ走っていった。リクルートスーツに身を包んだ彼女は、実咲子と同じ文学部国文学科で、この四月からは同じゼミになった。入学したころからときおり言葉をかわしていたが、偶然同じサークルへ入ったことでさらに親しくなった。小柄で雛人形のような容姿で、酒は実咲子よりずっと強い。
 実咲子は戻ってきた沙智へ、一枚の紙を差し出した。
「卒論の調査用紙。提出はそこにも書いたけど来週末までね。教授室の箱に入れとけばいいみたい。あと、発表の順番は暫定だって。来月くらいまではみんな就活忙しいだろうからって。とりあえず来週の発表は進学組みがあたってる」
「ありがとぉ。すごい助かるわぁ」
 沙智は淡いピンクのハンカチで、ひたいの汗をおさえている。どんなに暑そうにしていても、やたら語尾をのばす話し方でも、彼女には不思議と品がある。本当に人形のようだった。
「今日、本命の面接だったんでしょ。どうだった」
「ううーん、微妙よなぁ。他の人たちがみんなすごく見えるんよねぇ」
「あー、うん、それはわかる」
「実咲子ちゃん、あのプレッシャーはねのけて内定もらったんよね。やっぱりすごいわぁ」
「すごくないよ」
「すごいんよ。実咲子ちゃんはわたしの自慢の友達なん」
 丸い頬をふくらませ、沙智はオレンジジュースの缶をあけた。一口飲んでから、さらに呟く。
「実咲子ちゃんが男の子やったら良かったん」
「また言ってる。だからザキにからかわれるんだよ」
 男性に対して苦手意識の強い沙智は酒の席になると同性に抱きつく癖があり、マテリアルの後輩・山崎カオリからスキンシップは異性とやるべしと諭されていた。
「わかってる、わかっとるよぉ」
「まあ別に、私はザキみたいに男と付き合えなんて言わないけど。さっちゃんみたいに可愛い子を放っておく男が悪いんだし」
「あ、うん。でもねぇ、最近はちょっといいかなぁと思ったりもしてるん。ちょっとはね」
「それってもしかして」
 実咲子が言葉を濁すと、沙智は日差しのように眩しく笑った。
「うん。怜平くんのおかげで」
 実咲子は鋭い刀で胸を貫かれた気がした。沙智の返答に驚いたのではない。怜平の名を囁く沙智の唇が、秘密を洩らすときのような昂りを帯びて、実咲子には知らない人に思えたのだった。
 彼女は怜平に恋をしている。
 そもそも沙智と怜平はついこの前の春休みに付き合っていた。
 きっかけは山崎の一言だった。
『さっちゃん先輩の男嫌いは食わず嫌いなんちゃいます。ほら、そこにちょうど無害で残念でおもんないイケメンがおりますよ』
 かつて怜平と付き合って半日で別れた山崎は、部室でスケッチをしていた怜平を指差した。沙智は冗談だと思い、じゃあ試しにと言ったところ、怜平も快諾してしまい成り行きで付き合うことになった。
「付き合うゆうても、一緒にご飯食べたり、一緒に図書館で勉強したり、わたしの買い物に付き合ってもらったりで、ちゃんと付き合ってたなんて言えんけど、怜平くん優しかったし、楽しかったよ。大学生のあいだに、こういう経験できてよかったと思う」
 怜平と付き合ったことで、沙智はすこし変わった。自分の意見が言えるようになった。前髪が短くなり、前を向くようになった。化粧も上手になった。実咲子の贔屓目はあるが、よりいっそうかわいくなった。
 ふたりの交際は友達でいるのと同じだからという理由で、沙智のほうから別れを切り出して終わった。それから怜平は沙智のことを、さっちゃんと呼ぶようになった。
「わたしが口出しすることじゃないかもしらんけど、実咲子ちゃんはちゃんと怜平くんと話したん」
「話って」
「お誕生日会のときのこと、返事したん」
「あー、うん、まあ。したような、してないような」
「なんでなん。だって彼氏とかおらんよね。怜平くんもいま彼女おらんよ」
 沙智の鞄のポケットから、携帯電話のストラップが飛び出していた。沙智の誕生日に実咲子がプレゼントしたものだ。ビーズ細工で、怜平へ渡したものとは色違いになる。
 実咲子に恋人がいることを、沙智には話していない。沙智だけではない。誰にも話したことなどない。
 怜平以外は。
 沙智はジュースの缶についた結露を指で払い、首をかしげた。
「実咲子ちゃん、怜平くんのこと好きなんよね」
 いつのまに、そういうことを言うようになったのかと実咲子は呆然とする。沙智の口から好きとか嫌いとかいう言葉が、食べ物以外で出てくるとは思っていなかった。実咲子はただ曖昧に笑うしかできない。
「ごまかさんで。だって最近の実咲子ちゃん、心ここにあらずやもん」
「それは卒論のこととか、色々あるから」
「わたし、実咲子ちゃんには幸せになってほしいん」
 実咲子は思わず、沙智が幸せになってほしいのは怜平だろうと言い返しそうになる。だが実咲子の言葉を遮るように、沙智の携帯電話が鳴った。
「ごめん、バイト先。出るわな」
 沙智の手のなかでストラップが揺れる。
 ふたりのストラップが揃いであることにあらためて気づいて、実咲子はかすかな苛立ちを感じていた。
 電話を終えた沙智は急にシフトが入ったからと、プリントの礼を言ってカフェを出て行った。実咲子もテーブルを片付けて、外へ出る。今日はもう授業もなく、バイトもない。卒論のテーマを決めるため図書館へ寄らねばならなかったが、とてもそんな気分にはなれなかった。
 気づいたら、部室のドアの前に立っていた。
 ドアノブへ手をかけて、怜平がいたらどうしようかとためらう。彼とは梅田のバーで話してから会っていない。避けていたわけではない。学校へ来ることが減った実咲子と、二年生になって専門授業が増える怜平とでは、ただすれ違うことも難しい。
 部室の中からは聴き慣れない民族音楽が鳴り響いている。どうやら山崎がいるらしい。彼女がいるならどうにかなるか、と実咲子はドアを開けた。
「あーっ、実咲子先輩!」
 ふつうに話していても大声の山崎カオリが、ほとんど奇声のような声をあげた。静かにしていれば、黒目がちの瞳と濡れたような黒髪が魅力的な美女ではある。
「ザキちゃん久しぶり」
「お久しぶりですー。どうです、あのおもんない男とはもう寝ましたか」
「ぶおっふ」
 机を挟んで向かい側に座っていた関谷が、飲んでいたお茶を吹きだした。
「いややもう、先輩きたない!」
「あほか、ザキの頭んなかのほうが汚いわ」
「うるさい! きたない! ついでにそのお茶まずい!」
「最後のん俺と関係ないし」
 濡れたシャツにティッシュをあてて、関谷は大きくため息をついた。珍しくスーツを着ている。
「先輩、就活ですか。おつかれさまです」
「労ってくれるんは相沢だけやで。今日の相沢は聖女やな」
「なんでやろ先輩が言うとやらしいし」
「おいザキ。その頭いっぺんカチ割ったろか」
「まあまあ、ふたりとも」
「どっちの頭も割れてよしですよ」
 ぼそりと部屋の奥から声がした。棚のかげに隠れるようにして絵筆を握りキャンバスに向かう背中があった。創作サークル『マテリアル』、現部長の嶋一(しまはじめ)だった。
「嶋くん、おつかれ。それ学展の作品?」
 学展――学内展覧会とは、クラブやサークルの垣根を越えて開催される美術展で、公に報告できる活動が少ない『マテリアル』にとって重要な行事だった。これを落とせば来年のサークル存続が危うくなる。まず部室は取り上げられてしまうだろう。
 そのため、年に一度の学展への作品提出は、代々の部長に課せられた最大の使命だった。
「そうなんです。でもこの人らがうるさくて全然進まんくて。とりあえず顔見たくないんで背中向けてたんですけど、うるさいのはどうにもなりませんね。こん人らは一生どうにもなりませんね」
 あどけなさの残る声で、嶋は冷たく言い捨てる。振り返って、女装もできそうなかわいい顔を歪めた。
「ほんと消えてください、サークルのためにも社会のためにも」
「おいシマイチ、それが部長の定めや。俺も乗り越えた。我慢しぃ」
「せやでシマムラ」
「俺そんなファッションセンターな名前じゃないですから!」
「ああ、せやったなイマイチ」
「ザキさん、足して二で割って! ……あ」
 嶋は低い声で呟いて手元を見た。声を張り上げた勢いで、握っていた絵具が飛び出してしまっていた。
「ああっ!」
 指にあふれた絵具をパレットへこすりつけながら、嶋はぶつぶつと小声でもらす。
「ありえへん、こんなに大量の絵具、ありえへんありえへん」
「別にええやんか。二、三日やったら普通に使えるで」
「俺はパレットを毎日きれいにしたい派なんです。関谷先輩みたく、ぐちゃぐちゃのドロドロは嫌いなんです。ていうか先輩、俺が買っておいた絵具、勝手に使ったでしょう」
 幼い声でもかわいい顔でも、本当に怒っているかどうかはわかる。それほど嶋は関谷を本気で睨みつけていた。ただ、嶋に迫力がないせいか、関谷に反省の色はない。
「あはは、ばれたか」
「ばれます! ごっそりなくなってるじゃないですか! まじで困るんです、そういうことされたら。学展、間に合わないですよ!」
「それは困る。前部長として、そこだけはどうにかしろと君に言いたい」
「前部長なら人の絵具を盗まないでください」
 嶋は汚れた手をタオルで拭い、大きく肩を落とした。やりとりを黙って見つめていた実咲子はそっと切り出す。
「足りないなら、買いにいったらどうかな……」
「もちろん時間に余裕があればそうしますよ。でも提出期限が明日で、俺これからバイトなんです。明日は一限から授業あるし、買いに行ってる時間なんて」
「絵具があれば間に合うの?」
「はい、あとは細かいとこ手入れして仕上げるだけなんで。でも肝心の絵具をそこの眼鏡が使ってしまったんです」
「使いきってへんで。家にあるで」
「じゃあ、持ってきてくださいよ!」
「すまんな、明日は学校けぇへんねん」
「俺のために来てください」
「あかん、法事や」
 関谷は煙草を吹かしながら笑っていたが、嘘をついているようではなかった。嶋は時計と睨めっこをすると山崎と実咲子を見比べて、実咲子へ向かって頭を下げた。
「相沢先輩! サークルのためと思ってどうか絵具を買ってきてくれませんか!」
「ええっ、私?」
「はい、相沢先輩しか頼める人がいません。お願いします!」
「言ってることはよくわかるけど」
 実咲子は部室にいるメンバーを見やって、思わず納得してしまう。
「でしょ! だからお願いしますよ、先輩」
「でも私、絵具のこととかよくわかんないし、そもそもどこに行けば買えるの」
「画材が売ってる店ならあります。俺が使ってるの、どこにでもある普通の油絵具ですから。そうですね、学校からだったらハンズがいちばん近くてわかりやすいかも」
「ハンズって、江坂の?」
「はい。あ、もちろん梅田にもありますよ」
「うーん」
 嶋の頼みをきくのは構わなかったが、梅田は家がある高槻と逆方向になる。江坂へは直線距離では近いものの、電車で行くとなると遠い。
「相沢、元はと言えば俺のせいやけど、サークルのために俺からも頼むわ。あかんかな」
 関谷も少しは反省しているらしく、顔の前で両手をあわせた。
「行ってあげたいんですけど、うち高槻ですし、江坂は南方乗り換えでしょ。ちょっと遠いですよね」
「ああ、そんなことで悩んでたんか」
「そんなことって」
「足やったら、そこにおるで」
 関谷は煙草を持った手で実咲子の背後を指差した。
「え?」
 促されるまま振り返ると、そこには怜平が立っていた。目があって、実咲子は思わず言葉を失くす。怜平は色素の薄い目を細めて、首をかしげていた。
「俺がどうかしましたか」
「おう松下、自分バイクやろ。相沢連れて絵具買いに行ってくれへん」
「絵具? ミサコ先輩、絵描くんですか」
 怜平は実咲子だけを見つめて、実咲子だけに微笑みかける。たまらず、顔をそらした。
「描かない」
「俺がシマイチの絵具ぱくって、それで学展の作品が危ういんやわ」
「ああ、それで。何色ですか」
 嶋へ向かって怜平が問いかける。それを見ていて、実咲子はひらめいた。
「ていうか松下が行けば」
 言いかけると、横から関谷に袖をひかれた。
「まあまあ、そう言わんと」
「先輩は私と松下をどうしたいんですか」
「言うたやろ、応援してるって」
「近所のおばちゃんですか」
「そんなもんや。実咲子ちゃーん、大きなったなあ、彼氏とかおるんかいな、おばちゃんに言うてみ明日には全部広まってるよって。てな」
「似合いすぎです」
「役者やろ?」
 関谷は実咲子の腕をつかんで、怜平のほうへ押した。
「相沢、江坂行くんやったらミスドもよろしくな!」
「うちはポンデよろしくお願いしますね!」
「おごりだったらDポがいいです!」
「ザキも嶋くんも、まだ行くと決まったわけじゃ……」
「え、行かないんですか」
 上から声が降ってきて、実咲子は口を噤んだ。睨みつけても、にこにことされるだけだろう。腑に落ちないことはいくつもあったが、実咲子は承諾した。
「わかりました、行ってきます。でもセールじゃなかったらDポは諦めてくださいね」
「よろしくお願いします、先輩」
 嶋は青くなった手で敬礼をした。部室を出ようとすると、山崎が大きな声であっと呟く。
「なあ松下ー、あんたメットあるん? 実咲子先輩のん」
「あ、ない」
「やろうと思った。うちのん使い」
 北海道土産の緑色のマスコットストラップがついた鍵を、山崎は怜平へ投げつけた。
「うちの原チャ覚えてる?」
「もちろん」
「あんた、ほんまきもいな。サークル棟の駐輪場にあるから」
「ありがとう」
「うちが帰るまでに帰ってきてや」
「気をつけます」
 そこはもちろんと答えるところだろうと心のなかで突っ込みながら、実咲子は怜平とともに部室をあとにした。
 山崎の原付バイクからヘルメットを拝借し、怜平のバイクがある駐輪場まで歩く。横に並んで歩きながら、実咲子はじっと黙り込んでいた。沈黙は耐えがたかったが、会話の糸口も見つからない。下手なことを口にするくらいなら、まだ黙っているほうがいくらかよかった。
 キャンパスには体育会系クラブのかけ声や、ブラスバンドの演奏が響き渡り、図書館横の芝生では学生らが寝転がったりバドミントンをしたりしていた。
 目の前を丸々と太った三毛猫が横切っていく。まるで自分も学生のような澄ました顔をして、人が近づいても逃げる素振りすらない。
「先輩、珍しいですね」
 怜平がふいに口をひらいた。
「なにが」
「いつもスカートが多いのに」
「昨日、深爪して」
「爪、ですか」
「そう。パンプスはくと痛いからスニーカー」
「ああ、それで」
「あんまり好きじゃないんだけど」
「似合いますよ」
「あんたは、また――」
「そういうこと言う? いいじゃないですか、言うくらい」
 悪びれることなく、怜平は微笑む。実咲子は山崎のヘルメットを抱えて沈黙した。
 駐輪場は自転車とバイクで八割が埋まっていた。電車通学の実咲子には縁のない場所だ。
 横目に怜平を見やると、彼の横顔は中学生の少年のように初々しく、そしてどこまでも男の目をしていた。
「松下、最近部室に来てなかったけど、もしかして私のせい?」
 言ってしまってから、なんと傲慢な物言いかと後悔する。だが怜平は気にしたふうでもなく、違いますと首を振った。
「おもにバイトです。授業もそこそこ出てましたけど」
「服屋、だよね。そんなに忙しいんだ」
「学費とか生活費とか、金はいくらあっても困らないですし、無理矢理シフトいれてました」
「そっか」
 実咲子は先月の飲み会で初めて訪れた怜平の部屋を思い出す。余計なものだけでなく必要なものすらあるのか疑わしい、ベッドと机しかない殺風景な部屋だった。
「まあでも、働いてると何も考えないですみますから」
 笑いながらさらりと呟いて、怜平は黒いバイクのそばで立ちどまる。実咲子は促されるまま後ろにまたがり、銀色のヘルメットをかぶった。遠慮がちに怜平の服をつかむと、落ちないでくださいねと苦笑される。怜平はフルフェイスのヘルメットをかぶり、エンジンをかけた。
 走り出すと風がうまれた。アスファルトのへこみなのかエンジンの震えなのか、体には常に揺れが響く。深い谷底から響くようなリズムは、ひとつ震えるたびに指先まで行き渡った。
 閉ざした扉を、強くしつこく叩かれ続ける。秘密ぶった想いがあふれそうになる。そのような気持ちになってくる。たかが疾走の揺さぶりが、不躾に実咲子を恍惚とさせた。
 信号でバイクが停まる。それほど急停車したわけではなかったが、ぼんやりしていた実咲子は怜平の背中に頭をぶつけた。
「先輩、大丈夫ですか。しっかり持っててくださいね」
 両腕をとられ、前へ引っ張られる。すっかり抱きつくようなかたちになり、実咲子は息をひそめた。
 抱きしめた腕に、寄り添った頬に、怜平の体温が伝わってくる。なぜ彼のことを好きだと言えないのか。実咲子は自らのうちにある冷たい花をかきむしった。けれど死なない花は、どんな暴力にも手折られることがない。土も水も光もない場所でそっと冷たく咲いていた。
 帰宅ラッシュにはまだ早いのか、江坂駅周辺はまだ人の流れが穏やかだった。暇そうに客待ちをしているタクシーの横を通りすぎ、駐輪場へバイクを停める。
 エスカレーターでビルの上階まであがり、絵具を買い求める。実咲子はただ怜平のうしろをついて歩くだけだった。
「松下は、色のある絵は描かないの」
「昔は描いてましたよ、油絵を。でも今は描かないですね」
「どうして」
 実咲子の問いに、怜平は困ったような笑みを浮かべた。
「あー。たとえば金がかかるって言ったら、夢がないですか」
「そんなことは、ないけど」
 怜平の答えが本当なのか嘘なのか、実咲子には判断がつかなかった。
 もし怜平の絵に色がついたなら、どんな絵になるのだろうと想像してみる。あの桜の花びらは色彩を得て、さらに生々しく風にそよぐのだろうか。だが実咲子の瞼の裏には、いつまでも白と黒のままのスケッチブックしか思い浮かばなかった。
 ドーナツショップは残念ながら均一セール中ではなかった。手頃なドーナツをいくつか注文して、店を出る。外はすでに暮れはじめていた。頭上には昼と夜の分かれ目がくっきりと見えた。
 烈しい夕焼けと静寂の藍色が空を二分している。
「ねえ松下」
「なんですか」
「いつか、こんな空描いてよ」
 実咲子が空を指差すと、怜平もまた空を見あげた。
「空ですか、結構難しいですよ」
「でも松下が描いた空、見てみたい」
 刻々と移りゆく極彩色の空は、モノクロで描かれる怜平の絵と同じにおいがした。
「わかりました。今度、描いてみます」
「楽しみにしてる」
「あ、はい」
 怜平は片手で顔を隠しながら、小さくうなずいた。思いがけないかわいい仕草に、実咲子は切ない苛立ちを覚えた。目を合わせると何かに負けてしまいそうで、怜平の斜め掛けにした帆布鞄のショルダー部分を引っ掴んで歩き出した。
 道路沿いにある駐輪場へ向かって怜平を引っ張って歩く。反対の手に提げたドーナツの袋が、ジーンズとこすれてかさかさ鳴る。
「先輩がもし今日スカートなら、俺ひとりでここに来てましたから」
「そうなの?」
「だって、ふたりで来る意味なんてないでしょ」
「松下あんたねえ」
 やっぱりかわいくないと呟いて、実咲子は前へ向き直った。だがこちらへ向かって歩いてくる人の姿を見て、踏み出しかけた足がとまる。
「ミサコ先輩?」
 突然立ちどまった実咲子を不審に思い、怜平が覗き込んでくる。実咲子はつかんでいた怜平のショルダーを離した。
 その人は楽しげに笑っていた。真新しいベビーカーを大切そうに押して、夕焼けを受けていた。
「先生……」
 彼が、立ち尽くす実咲子に気づいた。
「ああ、みさちゃんやん」
 涼しげな目元を優しく細めて、彼は顔をくしゃくしゃにして笑った。頬に刻まれた笑い皺に、実咲子は心臓を鷲掴みにされてしまう。
「どないしたん、こんなところで」
「あの、サークルの買い出しに」
「そうなんや」
 彼の視線は実咲子の背後へ投げられた。かるく会釈をする。怜平もそうしたようだった。
 彼の隣に立っていた女性が、説明を求めて彼の袖をひく。
(じゅん)くん、彼女は生徒さん?」
「そうそう。前に話したやん、僕がまだ家庭教師してたときの」
「あ、噂のみさちゃんやね」
「今は大学もおんなじや」
「そうなんや。はじめまして」
「は、はじめまして。相沢実咲子です」
「伊勢田奈々です。いつも主人がお世話になってます」
 奈々は実咲子へ向かって手を差し出した。実咲子は一瞬ためらったが、そっと手をあわせた。あたたかく、やわらかな手をしていた。
 実咲子は持っていたドーナツの袋を、体の後ろで強く握り締める。
 死んだみたいな冷たい花が、生意気なほど大きく脈打っていた。